直木三十五「踊子行状記」

#01,#02…などの番号は底本には付されていません、このwebで便宜的に付したものです


青傘組

「やああ――橋も無いのに」
 と、屋敷の主人、御書院番八百石、水城頼母が、小鼓を打って唄い出した。
  橋もないのに、通わりょか
  下へ廻れば、三里半
  上へ廻れば、三里半
  七里けっぱい、渡れぬ河じゃが
  文のかけ橋
  紙のかけ橋
  神の頼うで
  恐い逢瀬を
  渡れば逢えましょ
 枸杞の油、舞台油で、固く結上げた辰松風の髪。上方から流行りかけてきた京白粉の濃化粧。浅黄の足袋に、紅の絹股引をはいて、衣装は水色に、三楽風の紅白梅へ金糸、銀糸をあしらった物。
 唄に合せて踊っているのは、青傘組の誰彌《たそや》だ。齢は、二十と、言っているが、女の気性から言って嘘はついていないであろう。髪は、その深い情を語っているように、房々と黒く、眼は利口さと、勝気とを示して、黒耀石のように、つつましく、深く光っているし、唇は牡丹の蕾のような嬌艶さを含んでいて、頬は熟した果物のように、艶々と、張り切っている。
 水木辰之助の槍踊――流行りは廃たれてしまったが、ここの主人の名水城と通じるので、
  水城の殿御に
  渡れば逢えましょ
  えんや
  えんや
 六尺の飾槍、青貝柄に、銀の千段巻き、朱房のついたのを振って、百目蝋燭の火の連らなっている大広間の真中で
  やんれ、水城の
 と、ほがらかに唄って、唇に微笑を浮べて。睫毛の長い、その黒い宝石のような瞳に、媚をたたえて、頼母を、ちらっと見ると、さっと、槍を水城の額の所まで近づけた。
水城が、
「危いっ」
 と、躱すと、その瞬間、くるりと、背を見せて片手で、槍を、さっと立て、左脚を揚げて、真赤な股引の、深い所まで現わしながら、
  水城の殿様
  一本道具よ
  お槍はお見事
  こなしはお上手
 と、一座の人々の赤い顔を、次々に眺めて、笑いながら、思いきって左右の脚をあげた。それは槍奴の真似であった。
 どっと、一座が、手を叩いて、どよめいた。蝋燭の灯までが、おかしがって揺ら揺らと、うれしそうに身体を振った。
「たわけが」
 と、怒鳴って、頼母は、笑いながら、小鼓を、誰彌の脚下まで、投げつけるように転がすと、誰彌は素早く片手で拾いとって、
  小鼓枕に
  御用とおっしゃる
  聞かずばなるまい
 と、片手に、槍を立てたまま、片手の小鼓を頬へ当て、頭を傾けながら、
  鼓に聞いたら
  嫌じゃと仰しゃる
  えんや
 と、即興唄を唄って、頼母の方へ、その小鼓を転がし返した。
 一座は、又、手を打って、哄笑した。
 水城頼母の誕生日とて、召使、出入の人々朋輩、目上と広書院を次の間まで開けて、廊下へまで座っていた。酌と、踊に呼ばれた青傘組が六人。腰元と共に、誰彌の踊と、機智とに魅入られていた、丁度、頼母が小鼓をひろい上げた時、
「た、たわけっ、無礼者っ」
 と。怒った濁声が、廊下の角の柱の所から起った。

「た、たわけっ、無礼者っ」
 と、怒鳴った瞬間、ぴしっと、頬を打った音がした。頼母が、その方を、眺めると燭台にぶっつかって周章てながら、一人が手を出して止めていた。別の一人は、膝の前の勝栗を引繰返しながら、
「香東っ」
 と、なぐった侍の腕をつかんだ。一座の人々は、一時に、その方を見た。座ったまま背のびしたり、半分立上ったり
「如何した?」
 と、遠くから叫んだり――主人の頼母は、自分の左右にいる人々に、
「彼奴――酒癖がよくないでのう」
 と、ひとり言のように、弁解した。
 横頬をなぐられて、頭を下げながら顫える掌で、頬を押えているのは、水城へ出入の米問屋の主人大口屋九郎兵衛であった。
「不調法――お許し下さりませ」
 と、左手を、畳へ突いて、お叩頭した。
「この手は?」
 と、香東が、叫んで、頬を押えている大口屋の右手を、力まかせに掴んで、畳の上へ引おろした。
「もうよいでは無いか」
「その手で、酒を打ち撒きおったではないか。両手を突いて謝罪まれ、両手で」
 腰元の一人が、香東の膝を拭いていた。
「香東、許してやるがよい。誤ちじゃ。さあ、機嫌直しに――」
 と、一人が、盃を出した。
「無礼者め。踊子風情と、べちゃべちゃ喋りおって、誰がよいの。悪いのと品定めをしおって、その果に酒をぶっかけるなど――無礼講と雖も、容赦はせぬぞっ」
 香東の怒りが、納まりそうにも無いので、頼母が、遠くから
「香東、何としたのじゃ、程にせんか」
 と声をかけた。
「相済まぬ儀で御座る」
 と、香東は、膝の上で、肱を張って、頼母へ一礼した。
「拙者、食べ酔った上での事では御座らぬ。又、いささかの酒を、袴の上へ零したので、憤ったのでは御座らぬ。侍の面目にかかわり申すので、お見舞い申したので御座る。いかに無礼講とは申せ、見のがせぬ事も御座れば、聞きのがせぬ事も御座る」
 人々は、中々、理窟の立った香東の言い分なので、一座を白けさせた反感をいくらか和げて、香東へ頷いた。
「なぜ、して――」
「ここな、この踊子と――」
 と、香東は一人の踊子を、睨みつけた。誰彌は、頼母の前で、酌をしていたが、瓶子を置くと、香東の方へ振向いた。そして、その踊子が、誰であるか見ようとした。
「慣れ慣れしい話。それもよろしい。買馴染であろう故、拙者ら、今宵初めて踊子を拝見した者に見向きもせぬのも、売女としては尤もであろう」
 誰彌は、さっと頬を赤くした。売女と呼ばれた、香東の前の一人の踊子も赤くなって俯むいた。
「聞き捨てならぬのは、銀の五六十もかかっては、安侍に揚げ切れまいと――安侍とは、何事で御座る。拙者は、いかにも安侍で、素町人の隣に坐りおる者。銀子六十匁も出して、売女共を買おうなど、存じもよらぬ儀で御座りまするが――」
「いえ、決して、左様の」
 と、大口屋が、頭をあげると
「黙れ、――虫が納まらぬ故、いささか、注意を与えんと、近づきがてら、盃をさすと、これが、振向きざま、肱を当て御覧の始末。全く、拙者など眼中になき振舞。無理で御座ろうか。方々。御重役様方。如何で御座りまするか」
 と、一座を見廻した。

「成る程」
 と、一人が呟いた。
「安侍とは、過言じゃ」
 と、一人が、叫んだ。
「いえ、決して、左様に申したのでは御座りませぬ。これの、きつい好きな男に、安三郎と申す者が御座りまして、ひど工面の銀子を五十の六十のと」
 と、大口屋が言いかけると
「胡魔化すか――こ、この耳で聞いたことを、安三郎の、何んのと、己れ――」
 香東は、大声で、大口屋の言葉を押えにかかった。踊子は、膝の上で、拳を顫わしながら、俯むいて、黙っていた。
「地口合せか、はははは、酒の上では、言い損じも、聞き損じもある。一座が白ける、大口屋、少しそちらへ退って――喜内、ここへ参って、香東の対手を致せ」
 香東の一人置いて隣にいた安堂右馬之助が、軽く、挨拶に出た。香東は、じろりと、その顔を見て
「何を、指図する。貴公の指図は受けぬ、御重役方を差置いて、何を差出がましい」
 喜内は香東の剣幕をみて立ちかけて、又坐ってしまった。大口屋は
「重々の御無礼、お詫申しまする」
 と、丁寧に、頭を下げて、一座を外そうと立上りかけた。
「香東、折角の無礼講じゃ、興をさましてはよくない。掛合ごとがあらば、明朝にして、此座は――」
 と、安堂が、言っている内、大口屋が四方へ礼をして
「暫く、中座を――」
 と、安堂へも小声で言って、腰を浮かした。
「動くなっ、素町人」
 と、縁側の別の一人が怒鳴った。一座の半分の人々は、笑っていたが、縁側近い所にいる軽輩の人々は、酔ってもいたし、怒ってもいた。そして、安侍と罵られ乍ら、大口屋を庇っている同じ軽輩仲間の安堂へ、憎しみを感じていた。
「や、安侍とは、な、何事じゃ」
 泥酔している声であった。安堂は笑いながら、大口屋へ
(早く行け)
 と、眼と、手で合図した。
「はい」
 と、低く答えて、礼をして立つと、縁側から、一人が
「ま、待てっ」
 と、叫びつつ、人々の肩と、頭を、跨ぎながら、よろめきつつ出て来ようとした。
 誰彌が、立った。
「千彌の不調法は、この身よりお詫申しまする。こなさんの不調法も、誰彌が代りまして――」
 と、小腰をかがめて
「お許し下されませ」
 と、千彌も誰彌が、そう言ったので、顫え乍ら畳へ手を突いた。
「ええ、売女の知った事ではない」
 と、人々の肩をよろめきつつ押し除けて出てきた侍が、千彌の肩を押して、大口屋の前へ行こうと、膳部の上を大股に跨いだ。
「売女?」
 と誰彌が叫んだ。
「お待ちなさんし、あたしが売女なら――」
 と誰彌は、その侍を睨みつけた。侍はよろめいて、千彌の肩へ手を突いた。千彌が、あっと言って避けた。そのはずみ、侍はよろよろとよろめくと香東の膳を、踏んで、引繰返してしまった。そして、自分も、尻餅をついた。
「うぬっ」
 千彌を睨みつけて、拳を固めたので、千彌は、素早く立って誰彌の所へ逃げた。侍は、よろめきつつ追おうとした。
「小泉っ」
 と、安堂が、小泉の腰板を坐りながら、後方へ引いた。酔っていた小泉は、人々の、頭へ、肩へぶっつかって、安堂の前へ仰向に打っ倒れた。

 香東が、
「売女を、売女と呼んだが口惜しいか」
 と、誰彌を睨みつけた。その声に誰彌は、蒼白になって、恥しめられた興奮と、怒りとで、ぶるぶる顫えていた。
 踊子は、明かに、或は時として、ある人はのべつに、貞操を売ってはいた。誰彌も、二十になるまでに三人の男を知っていた。然し、それは、何も知らない、何ういう抵抗もすることのできない、義理と金とに縛られた十七、八の頃であった。
 そういう乙女の時に、金に、義理に反抗して、操を守れ、という事は、踊子として何んなえらい女にでも、死ぬ外には、できる事でなかった。それでも誰彌は、気に入らぬ、虫の好かぬ、大阪の物持を振るだけの勝気と、意地とをもっている女であった。
 そして、今は、大口屋の世話になっていたが、何の関係も無かった。全く、無い言も無かったが、それは、過去の事で、二人の間にはただ義理だけで、恋はなかった。大口屋が他に女のあるせいもあったし、誰彌の心が動いて行かぬからでもあった。
 誰彌は、大口屋の態度が物足り無かったし、誰彌を招く客にも慊りなかった。大名、大旗本、有福な侍達は、傲然として、踊子を見下していた。大きい話と、猥らな話の外に、踊子を、踊子として、踊子を人間として、踊子を本当の恋の対手として、考えている人は一人も無かった。金で操を売る、身体を弄ぶだけの踊子として、言う事も、する事も、一段下の人間のように取扱っていた。
 誰彌の仲間の人々は、そういう事が、世の中だと思い、それだけの内で諦めてしまい、自分の好きな事、したい事を押えて、そうした人々の側室になったが、誰彌だけは、いつか、何処かに、自分の気持を知った、自分を人間らしく取扱ってくれる、自分を良家のお嬢さんと同じに見てくれる対手が居るような気がした。そして、その人が、自分と一生を送るべき人のように思えた。何時、何処で、そういう人に逢えるか判らなかったが、何んだか、未だ自分の恋は、これから後にあるように思えた。
「売女が――」
 香東が、又叫んだ。
 誰彌は、そう言って、自分を罵る侍が、少し上席の人の前へ出ると、頭を下げて、平伏ばかりしているのが、おかしかった。少しでも知行の高い所では、飛びついて行くのが侍であった。そして弱い町人をいじめて、その町人から金を借りるのも侍であった。誰彌は、そうした侍よりも、自分の方が、正しいと信じていた。だから
「ほほほほ、売女と安侍――いい夫婦では御座んせんか」
 と、軽く笑った。
「そうじゃとも――」
 水城は、笑って
「さあ、座が白ける、喧嘩は、喧嘩として、こちらは、酒じゃ。女――」
 誰彌が
  酔うて
  根岸の御行松
  何を、まつ、かや
  便りまつ
  誰を、まつ、かや
  主を待つ
 と、小声で唄うと、千彌が
「御免下さりませ」
 立上って、踊りかけた。
「や、や、やめいっ、そ、その踊子」
 小泉が、何か、投げつけようと、手で、畳を掻いていた。
「小泉、執念深い」
 と、安堂が、たしなめた。

「お、おのれっ」
 と、半分、身体を起しながら
「危いっ」
 と、引起そうとした安堂の顔、小泉は、手に当った勝栗を掴んで抛げつけた。
「はずみじゃ、怒るな」
 手を取ると、小泉は振払って、起き上がるなり、安堂の胸をついた。
「貴公、酔っておるから」
 打ってかかる小泉を避けた時、香東が
「何を?――安侍?」
 と、叫んで、扇で、誰彌をなぐろうとした。安堂は、ちらっと、それを見て
「女に――香東っ」
 と、たしなめて、下から払い上げた。扇が、高く抛げ上がった。
「安堂っ、おのれっ」
 香東が脇差へ手をかけると、水城が、遠くから
「止めっ――香東っ、よい加減にせぬか大たわけっ」
 手を振って叫んだ、二三人の人が立上った。
「騒ぐか、たわけ共っ、香東、安堂、小泉皆退れっ。お歴々の前にて無礼であろう。退れっ」
 水城が、怒鳴った。用人が、次の間から、小走りに出てきて、
「お退りなされ」
 と、叫んだ。
「よし――安堂、退れ――庭へ出ろ」
 と、香東は、人々の肩の間を、急いで、庭へ降りた。小泉が、周章て、人々の肩へ脚をぶつけながら、縁から庭へ飛び降りた。用人が、安堂に
「こちらから」
 と、次の間を、顎でさした。安堂は、小腰をかがめて、上座の前を通りながら
「お騒がせ申しまして、申訳も御座りませぬ。御容赦下されまするよう」
 と、人々に挨拶した。
「卑怯者」
 と、庭から、小泉が真赤になって、片肌を脱いで怒鳴った。
「暫時、中座しておるがよい」
 と、上座の一人が、安堂へ言った。安堂は
「恐れ入りまする」
と、お叩頭をして、次の間から、控所の方へ行った。
 二三人の小者が庭へ出てきて、香東と、小泉をなだめて、篝火に照らされながら、庭の立木の間を茶室の方へ連れて行った。用人がその後方からついて行った。
「飛んだ興醒しで申訳御座らぬ」
 と、水城が、挨拶した。
「いや、ままあるならい。香東とか申す、中中おもしろい奴じゃて、侍の意地じゃ。安侍と聞いては、捨てても置けまい」
「誰彌、も一つ踊らぬか」
「はい――踊子の意地として、売女と聞いては、踊る気も致しませぬ、と、――それは、嘘、ほほほほ。二君、三君に仕えてもお武家はお武家――踊子は、二人の男をもつと、売女と名が変ります」
 と、言って言葉が切れると、素早く、立上って
  えええ、濁り江に
  月は、夜な、夜な沈めども
  水のまにまに、砕けても
  月の操に、曇りなき
  真如の月に、曇りなき
 と、自分を月にたとえての即興唄。朗かな声一杯に、自信と、情熱とをこめて、唄いながら、少しの隙も無く、軽妙な手振りで踊り出した。人々は誰彌の今の言葉に、この唄に生意気なと、ちらっと感じたが、すぐ、誰彌の美しさと、踊りの見事さと、唄の才と、声のよさとに魅されてしまった。

危禍

 稲葉佐渡守の大門を入って、すご右へ折れて、足軽長屋の前をすぎると、侍の長屋がつづいていた。
 低い、板葺の屋根、腐りかけた板廂、歪んだ戸、同じ造りの長屋つづきの三軒目、薄汚い壁の玄関に、小さく、安堂と、名札がかかっていた。
「お頼み申します」
 と、声をかけると、すぐ
「どうれ」
 と、答えがあった。
(安堂さんの声だ)
 と、大口屋は思った。襖が開くと
「おお」
 黒い真岡木綿の着物の上へ、真田の幅広帯をしめて安堂が現われた。
「この間は、とんだ御迷惑をおかけ仕りまして、早速御礼に参上致そうと――」
 と、膝まで、手を下げて、半分言うと
「何んのわざわざの礼など――何うじゃ、むさくるしいが上って参らぬか。安侍の生計も、見ておくとよいぞ」
 と、笑った。
「何うも、つい粗そうを仕りまして」
 と、大口屋は、頭をかいた。そして、安堂へ、親しみと、尊敬とを感じながら
(上ってみて、ひどい暮しなら、少し貢いでもよい)
 と、思った。
「隣の朋輩と、二人だけじゃ、上れ」
「はい――それでは、一寸、お言葉に、甘えさせて頂きまする」
 安堂は、奥へ入った。大口屋は、自分で自分の草履を直しておいて、進物包を片手に、玄関から、廊下へ入ると、すぐ襖が開いていて、庭からの明るい光が、赤ちゃけた畳を照らしていた。
「御免下さりませ」
 と、廊下へ、片手をついて覗くと、安堂と、一人の侍とが、据物切りの台を造っていた。小刀、鋸、釘、木屑が一杯に散乱しているのを片づけながら
「入るがよい、貧乏侍は、之だて」
 庭は、赭土に、葉蘭が少しあるだけで、隣家との垣根はめちゃめちゃにこわれていた。
「お手製で、御座りまするか」
「うむ」
「余程御出来に成るそうで御座りますが」
「ちっとはできるが、当節は、何んぼう剣術が強うても、酒代にもならぬからのう」
「然し、いざという場合には――」
「いざも、ござもないわい。親爺が、四十石なら、拙者も四十石、伜ができても四十石。先祖代々、子々孫々四十石じゃ。然し世の中は、年々に、諸式が高くなるでのう、大口屋の申す通り、全く安侍じゃて、あはははは」
「どうぞ、それだけは――御勘弁を――」
 大口屋が、お叩頭をした時、床の間へ向ったまま、何か探し物をしていた侍が振向いて、坐り直した。大口屋は
「手前は――」
 と、挨拶をしかけると
「いや、よいよい」
 と、手を振って
「恩地作十郎と申す」
「よろしくお引立の程を」
「こっちが引立てて貰いたい」
 と、言った途端
「頼もう」
 と、玄関で、訪れる人の声がした。
「誰じゃ。上れ」
 と、作十郎が、叫んだ。

「安堂――在宅かの」
 と、襖から、顔を出したのは、香東玄六であった。
「おおっ」
 と、振返ったが、安堂は、不愉快そうな表情をした。
「これは――」
 大口屋は、周章てて、向き直ると、お叩頭した。襖の所で、立ったまま、じっと、大口屋を睨みつけていた香東は
「大口屋か」
 と、言うと、安堂へ
「うまい代物を、手なづけたのう」
 と、笑って、大刀を左手に、足で、木屑を掃き蹴って、坐った。
「何?」
 と、鋭く言って、安堂が振向いたのを、横顔でうけて、大口屋に
「過日の礼に――進物を持って参ったのか」
「はい、その節は、とんだ御無礼を致しまして」
 と、俯むいて、膝へ手をついた。
「無礼を申したのは、拙者へだの」
「はい」
「詫に参るなら、拙者へ詫に参るが道であろう」
「恐れ入りまする」
「拙者に一言詫びてから、ここへ参るなら参れ。――飽くまでも、憎い奴じゃ」
 作十郎が
「馬鹿っ、香東、つつしめ」
 と、低く、だが、強く言った。安堂は、七輪に、湯沸かしをかけていた。
「何を?――つつしむ?」
「酒の上での事を、これまで持ち越す奴があるか」
「事による」
「事も、糞もあるか、馬鹿らしい。人の家へ参って、客をなじるなど――」
 作十郎は、少し頬を赤くして、抛げつけるように言った。
「客?――これが、客か」
「そうじゃ」
 作十郎は、きっと、香東を、正面から睨みつけた。
「はははは、進物をもって参れば、此奴でも賓客か」
「香東――」
 と、安堂が、笑いながら、咎めた。
「馬鹿が――、それ程、大口屋が不埒なら、何故、すぐに、蔵前へ押かけて、詫証文でもとって参らぬ。人の家へ参っている者を、捕えて、不作法千万なっ」
 と、作十郎は、すっかり、興奮して、烈しい口吻で叫んだ。
「人の家? 恩地――」
 香東も、興奮して、恩地の言葉尻をつかまえて、口ごもった。
「出直せ」
 と、作十郎は、玄六を睨むと、怒鳴った。
「よいではないか――下らぬ事に、言い募って、恩地」
 と、安堂は湯呑についだ茶を、三人の前へ置いた。
 大口屋が
「何事も、手前の不調法で御座りまして――香東様――御挨拶、お詫がてらに、何処ぞで一献――」
「黙れ。――奢るなら、この男にでも、奢ってやれ」
 香東が、大口屋へ、こう言っている横顔へ、恩地は、素早く湯呑みをとると、中の熱い茶を、顔へ、ぴしゃりと、叩きつけた。

 恩地が、茶を、香東の顔へ叩きつけた瞬間、香東は、脇差の抜き討ち――怒りに、燃えた眼、ふくれ上ったこめかみ、歪んだ唇。茶を、髪の毛から、胸までたらしつつ
「動くなっ」
 恩地は一髪の隙を躱した。立上ると鋸を得物として、構えた。
 大口屋は蒼白になって、襖の所まで飛びのくと、襖につかまって、拳を、膝を顫わせながら、安堂の顔をみた。
「香東っ、何を致すっ」
 安堂の立上るのと
「邪魔すなっ」
 と、香東が、身体を引くのと――香東が、飛びかかってくる安堂へ、刀を振上げたのと、安堂が、その刀を叩き落したのと――それは、水の影が、ちらっと閃いたような、瞬間の飛躍であった。
「何をする」
 と、安堂が、香東の右手をとって
「浅慮な」
 と、たしなめた時、襖の所にいた大口屋が
「あっ」
 と、叫んだ。
 安堂は、その叫び声が、その恐怖の眼が、何を見たからであるか、すぐ判ったので
「恩地、早まるなっ」
 と、叫んで、振向いた刹那
「くそっ」
 どぶっと、いう音がした。安藤の眼と、見合せていた香東の眼が、苦痛に、剥出した。押えていた手が、人間以上の力を出して、振り放すと、逃げようとしてよろめいた。顔が、痙攣して、
「うっ、ううっ」
 と、呻くと、紫色に近いような、気味の悪い唇に、変色して、縁側へ、よろよろと、二三歩出ると、何かを掴もうとするように、両手を返したが、すぐ、横腹を押えて、どっと、音立てて、倒れてしまった。
 畳の上に、血が、二三滴垂れていた。
「しまった」
 と、安堂が、呟くと、蒼白めた顔をして、恩地を見た。
 作十郎は、放心したように、倒れて、ぴくぴく脚をひっつらせている香東を眺めていた。そして
「馬鹿者がっ」
 と、呟いた。
「恩地――」
 と、呼ぶと
「うん」
 と、空虚な眼をして、安堂を眺めた。そしてすぐ、水入れの所へ行って、一息に、水を呑んだ。
「大口屋、入口を閉めてくれぬか」
 と、安堂が、低く言った。大口屋は、頷くと、走って出た。
「刀を――」
 恩地は、一生懸命に握りしめている自分の手の刀をじっと見ていたが、
「――よく斬れる」
 と、言って、静かに畳の上へ置いた。
「とんだ事をした」
 恩地は、黙って胸を掻合せて、坐り直して
「重役の沙汰を待とう」
 と、両手を膝に、俯むいた。
 安堂は、大口屋が入口をしめて入ってきたのを見ると、縁側に倒れている香東を、抱起して、暫く、眼を、呼吸を調べていたが、畳の上へ抱いて来た。そして、縁側の障子を閉めて
「こと切れじゃ。是非も無い」
 静かに言った。

「お父さま」
 と、垣根の外から、恩地を呼ぶ女房の声がした。三人は、同じように、心臓を、ごきんとさせて、胃の腑を固くさせて、眼を見合せた。
「お父さまは?」
 と、垣根から、差しのぞいているらしく、近々と聞えた。安堂は立上って、障子を開けて
「用かの」
「いえ――今、何か、騒がしかったので、一寸様子を伺いに――もしか、争い事でもなさったのでは――」
「いや――」
 と、安堂は微笑して、首を振った。
「宅の、お父さまは」
 と、女房は、垣根の破れを越えて、不安そうに、入ろうとした。
「作十は、今しがた、何れかへ、出て参ったぞ、ここには居らぬ」
 女房の後方へ、作十郎の六つになる一人息子が、走ってきて、袖の下から、垣根の中を、もぐり入ろうとした。
「この子は?」
 と、女が、肩を、両手で押えた、
「とうさま」
 と、子供が、叫んだ。
 恩地は、立上った。その音を聞くと、安堂が振返って、手と、眼とで制した。そして
「探して参ろうか」
 と、女へ大声で言い乍ら、障子へ手をかけて、何か忙しい仕事の手を離して、出てきたような振をした。
「いいえ、余り、何にやら、人の叫び声が致しました故、心配して――坊や、さあ、鶏に、御飯をやりましょう。御免下さりませ、お手をとめまして」
 と、軽くお叩頭して、女は、去ってしまった。
 安堂は部屋に入るなり
「恩地――何も、知らぬ顔をして家へ戻れ、拙者が斬った事にしておく」
「何を。右馬」
 と、恩地が、顔を上げた。安堂が
「切腹して、あの女房に、子供を路頭に迷わす気か。拙者は独身者。このまま遠国へ逃れたとて、その日を暮すには差支えない」
「いや、外の事とはちがう。人一人殺めておいて、他人に罪をきせておれるか。忝ないが――」
 と、いうと、恩地は、涙をためた眼で、じっと、安堂を見た。
「逆上せずと、よく判断せい。拙者は、これでも竹刀一本で、旅を廻らば不自由はせぬ。この香東は、重役の覚えもよく無いし、探索の手が、そう厳しいとも思えぬ。よいか、恩地。それに、拙者は、兼々申す通り、武芸修行に出たいと心願の折柄、もっけの幸いとでも申すものじゃ。大口屋と三人の外、誰も知らぬ。家の処置、妻子の始末をつけてから、名乗って出たとて遅うはない。拙者がもし召捕えられた時に、こうこうと、大口屋を証人に訴え出ても遅うはない。あの妻子に餓えさせて、老婆に嘆かせて、それで、成仏できるか。大口屋、そうであろう」
「はい」
「拙者が、追手に捕えられて、いよいよの時に、名乗って出てくれい。それまで、このまま三人の胸に納めておくのは、拙者にも、よい機なのじゃ。ここの理前をよく考えてみてくれい、朋輩の情を、信義を存じておるなら、母への、妻子への恩愛もわきまえておろう」
 恩地は、俯むいて、膝の上へ、涙の落ちるままにしていた。

「さ、差出――がましゅう御座りますが」
 と、俯むいたまま、大口屋が
「安堂様、手前の宅まで、とにかく、お供させて頂くと仕りまして――もし、お旅立なら、及ばず乍ら――」
 そして、顔を挙げると
「情も、理前も立ったお言葉で御座りまする。召捕えられてから、名乗って出ます分には、安堂様のお手柄にこそなれ、誰も、身代りに立つからとて、そしる者は御座りますまい。貴下様は、その間に、とっくり、身の振り方を御勘考なされましても、誰も、嗤うものは御座りませぬ」
 安堂は、押入を開けると、系図と、位牌とを取出して、袱紗に包みながら
「これと、刀とで、あとは、埃ばかりじゃ。急がぬと、人が来おっては一大事じゃで――作十――思案も、何も無いではないか。めでたい事じゃ」
 刀を差して、着更えを包んだ。矢立、燧石の類を、その中へ押込んで
「大口屋貴公これをもって参れ。拙者は、用あり気に――」
 と、袴を履いた。
「善は、急げ――急げや、急げ。泣くな、恩地、素知らぬ顔で、戻って、役人でも参ったなら、上手に狂言しておく事じゃ。罪も咎もない、可愛い女房に、子に辛い目を見せさせるな。拙者は、大口屋で、うまい酒でも飲もう。何が、仕合せになるか? のう大口屋、狐が馬に乗ったような―― 一つ、踊子でも見に参るか」
「よろしゅう御座りましょう」
「用ができたなら、大口屋へ参るがよいっ」
 そう言って立とうとした安堂の袴を抑えて
「忝ないっ」
 と、口の中で言うと、はらはらと涙を落した。
「早まるな恩地、さ、大口屋」
「では、お供を――恩地様、安堂のお旦那の御身の上は及ばず乍ら、手前お引受け仕りまする」
 と、腰を浮かせながら、耳許で言った。
「頼むぞ」
 と、泣き、濡れた眼で、顔を見ると、じっと、安堂の手を握った。
「南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏」
 と、安堂は香東の死骸を、片手で拝んで、
「裏木戸から――」
 と、言って、死体の横を縁側へ出た。恩地も、立上って、障子の所まで出た。
「大口屋。外に人影が無いか、見届けてくれぬか」
 大口屋は、玄関から、雪駄をとってきて、小走りに裏木戸へ行くと、すぐ、顔を出して
「居りませぬ」
 と、低く、言った。
「恩地、拙者の志しを、無にしてくれるなよ」
 作十郎は、黙って頷いた。
 外は、朗かな、初秋ののどかさであった。生れた時から、この長屋で、二十七年の間育ったかと思うと、なつかしくもあったが、自由に、この朗かな天地の下を歩けると思うと、又とないいい機会であるように考えられた。
 長屋から、門を出ると、すぐ正面に、江戸城の松と、白壁とが聳えていた。

大口屋流奥義

 知行高一万二千五百石の柳生但馬守宗矩も、武芸者なら、汚い露地の隅で、束修の百文、月謝の五十文をとって、隣り、近所の八百屋、豆腐屋に教えているのも武芸者である。
 将軍指南番柳生、小野の両家は別として普通大名に召抱えられて五百石、八百石で、その家中の指南をしているのが、まず一流とされていたが、中には
「大名でも、旗本でも、わしの剣術を学びたければ、道場へ出て参れ」
 と、町道場を開いて、江戸中に鳴らしている人があった。当時の流行唄で
「薬は、外郎、剣術は幕屋」
 と、囃された。幕屋新蔭流の名人、幕屋大休など、その一人である。そしてそれと併称されて、新蔭流四代目の正統、紙屋伝心斎頼春が、稀代の腕であった。少年時代から抜群であったが、三十に成るか成らずに、十五流に亘って、その奥義を究め、新蔭流三代目の、小笠原源信斎長治の弟子となり、その統を継いで、真心流と称し、当時江戸第一と呼ばれていた。  六十七歳の時に初めて、悟入し、奥義を名づけて「非切」と称した。心の非を切るという意味で、いつも
「剣術は、人を斬るのではない。自分の心にある悪を斬るのだ」
 と教えていた。
 その、真心流を学んだらしく、表に、薄汚れのした欅板をかけて
「真心流刀法指南、斎木伝太左衛門正房」
 土埃と、小便とに汚された羽目板。窓枠のこわれた武者窓。二十坪程の広さの、薄暗い道場だ。
 正面の師範台には、八幡大菩薩の掛軸に、神酒を上げ、羽目板の上には、門人の名札が、五十枚近く並んでいた。切紙が四人、皆伝が一人。残りは、天地人の三組に分けて、上手と、初手の区別がしてあった。
「八百甚」
 と、その下で、あぐらをかいて、腕組していた河岸人足の雷公が、向う側の、四十余りになる、肥った男を呼んだ。
「一本、頂戴したいか」
「何を吐かす。今日は、剣術の奥義を、講釈してやる」
「また、がらがら鳴り出したぜ」
「そもそもだ、のう――そもそも――」
「こう、よしゃがれ。もそもその間違えだろう。浅草橋の辻軍談で、聞いてきやあがったな」
 と、一人が、袋竹刀をもって、汗をふきながら、二人の所へ坐った。
「手前の面のような安っぽいんじゃねえんだ、黙って聞け」
「おやっ、人の面を安っぽいって、手前の面あ、何んだ。眉毛も、毛虫で、歯は乱杭、口は耳許まで裂けて、色は糞色。親の因果が、子に報いって面だあ」
「えへん、そもそも、と来らあ、びっくりするな」
「引繰返るな」
「子曰くだ。生兵法は、大疵の基――」
「おやっ、洒落た寝言を吐かしたのう」
「町人に剣術は、無用無用」
「辻軍談で、聞いてきたと思ったら、安恩寺の和尚に、食わされてきたな。あの、ずく入め、疵をする元手に、月に百文も、剣術屋へ運ぶくれえなら、お寺へ、お納めなされ。極楽往生、疑いなし、ぽあーん、むにゃむにゃって言やがるからの」
「叱っ、凡そ、刀を抜くに、三つの時がある。一つは戦場だ」
「判ってらあ」
 と、言った時、斎木が、飯を終ったらしく、楊枝をくわえて出てきた。

「次に――この次がむずかしい」
 と、雷公は、座り直して、腕組をした。
「殿様の命令で、そら、何んとか打ちと言うのう」
「鉄砲打ちか、鴨打ちか、夜鷹の覗い打ちだろう。近頃の橋場には、いい玉が出るってよう。雷公、今夜あたり――」
「黙れ、黙れっ、黙りおろう。殿の申しつけで、人を討取りに行く。これが二つ目だ。いいかい、この一つ目、二つ目」
「三つ目は小僧だ。四つ目は牡丹だ」
「は、死んでも、恥ではない。所が、喧嘩だ。これに殺されては、知行を頂いている殿様に済まぬ。然し、対手を殺して、自分だけ助かろう、というような、虫のいい事を考えていてはいけない。つまり刀を抜くという事は、死ぬという事だ。何うだ。中々、うめえ講釈だろう。そこで、町人は、主人持ではない、じゃによって」
「讃岐の琴平で、願をかけろ、ってな」
「雷公」
 と、斎木が、呼んだ。
「はっ」
 と、剥出していた太い膝を揃えると、一つお叩頭をした。
「誰から聞いて参ったな」
「へぇ、こいつは、恐れ入ります。何うもはや、こいつあ――」
 と、無闇に、頭を掻いて、俯むいてしまった。
「いや、叱るのではない。中々、よい話じゃ。大口屋にでも聞いたか」
「へっ、旦那に、昨日をそわりました。雷公、貴様など、いい加減な剣術を鼻にかけていると、えらい目におうぞ、と――」
「はははは、それで、近頃、大口屋が見えなくなったの。人を斬るの、喧嘩をするの、というより、大口屋など、気晴し半分、腹こなし半分に、遊びにくるとよいのだがのう。一生竹刀を握っておっても、名人、達人には成れんのだから、町人で、なまじの腕立ては、却って身を滅す基になるが――」
 と、言った時
「お久し振りで御座ります」
 と、大口屋が、黒縮緬の下に、小紋の羽織を着て、手荷物を、供にもたせて、入口の土間へ立った。
「おお、今、噂をしておった。さあ、さあ」
 と、道場の弟子としては、又とない大口屋なので、斎木はこういうと、自分の座を半分わけて
「久しく見えなかったのう」
「少々、忙しゅう御座りまして――」
 と、言い乍ら、師範台へ、腰をかけた。そして、ちらっと、雷公をみると、雷公は、両手を膝へ置いて俯むいてしまった。
「今日は――暫く、手前怠けておりましたし、ここもと中々手が明きそうにも御座りませぬので――」
 と、言って、金包を、そっと、火鉢の横へ押しやりながら
「一纏めに――ほんの少々」
 と、小声で言った。
「いや」
 と、斎木は頷いた。
「先生――御座宅かな」
 酔った声がして、元同じ町道場の主人。素行の修まらぬ為に、道場をたたんで、諸々の代稽古をしながら、近頃浅草で無頼な生活をしている渋川典膳が入って来た。名代の剣客、渋川伴五郎が妾腹の三男である。通称五郎太と呼ばれていた。
 斎木は、周章てて、金包を袖の中へ入れてしまった。
「いや、これは――大口屋の旦那」
 と、柱につかまると、お叩頭をして
「久し振りに、一手御指南しようかな」
 と、汚れた草履を脱ぎすてて上って来た。

「有難う存じますが、手前、本日は、ちと急ぎますので――」
「よいでは無いか、手間をとるものではないし、さあ」
 と、渋川は酒気を含んだ息を、吹っかけて、大口屋の手を取った。
 素行はよくないが、腕は町道場に無類の人であった。大口屋は右馬之助から稽古の始めに
「お教えはする。然し、めったに他人と立合われるな。一生一度の大難の時の用立てじゃで、そのおつもりで――」
 と、教訓された、そして、教えてもらったのは突の一手であった。
「人と争っては、負けると無念、勝っても、気持のよくないものじゃ。堪忍するという事は、人のできぬ堪忍をする程、猶値打ちがある。人のできぬ堪忍が、できる程の人なら、その心の強さが、必ず他の所へも現われて、一見、卑怯未練らしく見えても、永い目でその人のする事を見ていると、出来ぬ堪忍をしていると、誰にも判ってくるのじゃ。人間という奴は、よいにつけ、悪いにつけ、人に出来ぬ事をする人を見ると、あの人はえらい、と称める。他人に出来ぬ事をして、悪口を言われる事もない。損の無い事じゃで、何んな事があっても堪忍して、決して、なまじ、手出しをなさるな」
 若いに似ず中々いいことをいう人だと、大口屋は感心していたが、突きの一手が、だんだん上達するにつれて、一寸、人に試みてみたくなってきた。
 そして、竹刀の方は、それでも、試みなかったが、心得、とか、教訓とか、口で、教えられたものだけは、出入の人へ、時々雷公にさえも、話しては、喜んでいた。
「さあ」
 と、手を引っぱられると、めきめき上達してきた突きを、一寸試してもみたくなった。
(ここでならいいだろう)
 と、考えた。
「それでは、久し振りに、お願い申すと致しましょうかな」
 竹刀台においてある自分の使い慣れた、薄い鹿皮に包んだ袋竹刀をとると、雷公の差出した袴をはいて支度をした。
 渋川は、短い、紫色の袋に入ったのをとって
「さっ、御遠慮なく」
 と、叫んで、片手上段につけた。大口屋は、型の如く、礼をして、立上ると
「えいっ」
 渋川が
「とう」
 と、応じたが、
「斎木、いつ教えた。真心流の突きではないか。これは出来る。大口屋、出来るぞ」
 渋川は、軽くあしらっていたが、大口屋は全身を、全神経を緊張させて、全力をつくしていた。
「ええいっ」
 薄暗い、道場中に、大口屋の懸声が反響すると、双手突きだ。さっと、躱して、片手上段を、真向から大口屋へ打込みつつ、一足引いた瞬間――いつもの大口屋ならそのまま、竹刀を引くのであるが、たたっと、つけ込んできて
「やあっ」
 片手突き、流星のように、渋川の咽喉へ走った。
「危いっ」
 と、叫んで避けたが、咽喉を掠った。
「よしっ」
 斎木が、膝を叩いて叫んだ。
渋川は、左手で咽喉を押えて、手を放すと、指を眺めた。
「お疵が」
 と、大口屋は、竹刀をすてて、渋川の顔をみて(しまった)と、思った。

 袋竹刀は、今のとちがって、竹を細く、三四十に割ったものを、袋の中へ入れたもので、鍔がなかった。新蔭流の初世、上泉信綱が発明したもので、他流はことごとく、木刀か、刃の引いた真剣を使っていた。
「それでは本当の稽古ができぬ」
 と、新蔭の流れを汲んだ人々はその袋竹刀を使っていた。
 だが、面も、小手もなかった。それが用いられたのは、宝暦頃からであった。だから、全力的な、大口屋の片手突は、掠めたにしても、血を滲ませるには、十分であった。
 渋川は、真赤な顔をしていたが、怒りを、眼の中へ現わして
「今一本」
 と、叫んだ。
「飛んだ失礼を仕りまして――つい――」
「いいや――」
 と、渋川は、首を振った。
「拙者の不覚じゃ。中々使えるようになった。さあ、今一本」
「いえ、手前、急ぎますれば」
 と、大口屋は、道場へ、坐って鉢巻を外しながらお叩頭をした。七八人の人々は、(暴れ者が、手荒い事をせねばよいが)
 と、黙って心臓が喘がせていた。
「渋川、又のこととせい」
 斎木が降りてきて
「さあ、一稽古つけよう」
 と、人々に言った。
 渋川は、じっと、大口屋を凝視めていたが
「なら、よい、又の事としょう」
「はい」
 案外、素直なので、大口屋は安心した。
そうして、済まぬ、と思ったし、それよりも(上達したわい、これなら、何処へ行っても恥しくない)
 と、思うと、嬉しくなってきた。
「渋川先生、戻り道に、お供仕りまして、一献」
「うむ」
 と、暫くしてから
「参ろう」
 と、言った。
「それでは、斎木先生、勝手ながら、これにて――」
 と、礼をすると、土間の隅で、蒼くなっていた小僧が、渋川の雪駄を直して、立上った。
「斎木、又参る」
 と、未だ、憤りの納まらぬらしい渋川の顔と、声とを、なだめるように
「お痛みは?」
「いいや、ほんの掠れじゃ――酒を飲めば、すぐ癒る」
「では。皆の衆」
 と、礼をして、大口屋が外へ出ると、道場ではすぐ竹刀の音が、響きだした。
「強い風で、御座りますな」
「大口屋、一寸、寄る所があるので、浅草橋の方までつき合ってくれぬか」
「はい」
「手間は取らさぬ。あずけ物を取りに参る」
「では――」
 と、首を傾ける。
「万八の鰻に致しましょうか」
「結構だのう。鰻屋で待っておってくれぬか、すぐ一走りじゃ」
 裾を、髪の毛を、埃と共に吹き上げてくる風に、顔をしかめ乍ら、二人は急いだ。そして、供を下に、入口で別れて、大口屋は、二階へ上った。

 大口屋の供をして行った小僧が蒼白な顔をして石ころのように、馳け込んできた。番頭の重兵衛は、それをみると、腰を浮かせて
「何うした?」
 と、叫んだ。
小僧は唇をぴくぴくさせて、肩で呼吸をしていたが
「旦那が――万八で、悪者に、殺されかけていなさる」
 と、いって、半分泣き乍ら
「早う行って」
 と、手を振った。
 番頭は、算盤を掴[# てへん+國]んで、立上ると、次の間から
「誰に?」
 と、顔を出した一番番頭の重兵衛に
「重公、大変だっ」
 と、周章てて叫ぶと、跣足のまま、算盤と一緒に、往来へ走り出してしまった。
「番頭さん、大勢の悪侍に――」
 と、小僧は、べそをかいてしまった。下男の一人が「人足に?」と、重兵衛の顔をみた。そして、重兵衛が頷いて、猟犬のように、河岸の方へ走って行った。下女が、小僧が一時に、表の土間へ出て来た。
「騒ぐんじゃねえぞ」
 と、重兵衛が、皆に叫んでおいて、離れへ、渡り廊下を急ぎ足に行った。
「安堂さん」
「お入りなされ」
 障子を開けると、膝を突いて、小声で
「浅草橋の万八で旦那が、侍衆大勢に、何かお起しなすったらしく、小僧が青くなって走り戻りましたが――」
 大口屋へ来て以来、一足も外へ出た事のない右馬之助であったが
「そうか」
 と、いうと、脇差のまま立上った。
「お刀は?」
「要らぬ――手拭を――」
 と、番頭の腰の手拭をとると、頬冠りをした。
 七八軒行くと、馬問屋があった。小僧の口利きで、馬に跨って、馬子もつけないで、走り出した。
 往来の人々は、けたたましい鉄蹄の響きに、周章て、軒下へ避けた。そして、振向いて、頬冠りをした侍風の男が、乗こなして行く後姿をみて
(何んだろう)
 と、見送っていた。
 駄馬であったが、よく走った。家々が、どんどん左右へ流れ去って、土煙が上ったかと思うと、馬は、もう七八間も奔駆していた。
 重兵衛が、算盤をもって、髷をがくがく踊らせ乍ら、一生懸命走っているのを、追抜いた。安堂は馬上から微笑しながら、振向いて
「重兵衛っ」
 と、叫んだ、重兵衛が
「頼みます」
 と、いって、片手を上げると、よろよろとして、道の真中へ佇んでしまった。そして胸を押えて俯むいた。
 浅草橋の木戸が見えると、馬をゆるめて、横へ折れた。そして、迂廻して、万八の前へ出ると、人嵩りがしていた。馬をつないで、人を分けると、入口の暖簾の所に、二人の着物の悪い浪人が立ってた。そして、右馬之助が、人々を分けながら出てくると
「入ってはならぬぞ」
と、睨んだ。
「いや、大口屋の者で、金子を持参致しましたが」
 と、小腰をかがめて、笑いかけた。

 入口を入ると、万八の人々は、店の間に一固まりになって、不安そうな顔をしていた。
 右馬之助の背後から、浪人の一人が、刀に手をかけて、ついてきた。
 段梯子を上りかけると、二階から
「誰だっ」
 と、叫んだ。
「大口屋の奴じゃ、金子を持参したというが、上げてやれ」
 と、右馬之助の背後から、一人の浪人が声をかけた。右馬之助はお叩頭をして、広い段を登って行った。
 上った所には、衝立と、その男の外に誰もいなかった。
「旦那は」
 と、聞くと、その男が、顎でしゃくって
「参れ」
 と、廊下へ出た、一間おいて、次の襖を開けると、三人の眼が、睨んだ。三人とも、抜刀して、一人は大口屋の前で、顔へ突きつけていた。
 大口屋は、畳の上で何か認めていた。手が顫えているし、顔色は、灰色になってしまって、擦り剥いた傷が額に血を滲ませていた。髪は、すっかり根が落ちて、乱れかかっているし、着物は、裾も襟も、崩れていた。
 室の前は廊下で、背後は、川になっていた。右馬之助は、一目で、足場を計ると、一人が
「何奴じゃ」
 と、振向いて叫んだ。
「金子を持参致しました。旦那様」
 と右馬之助が声をかけた。大口屋は、半分、失神したような眼を、ちらっと上げると、喜びの表情に変って
「ああ」
 筆を捨てて
「危い――手出しは」
 と、顫えた声を出した。
「大口屋の番頭か――手拭をとれ」
 と、一人が、刀を突きつけて、手を延ばして一足近づいた。
「金子を」
 安堂は俯いて、懐へ手を入れると――さっと、半身をかがめて、燕のように振向いた。そして自分の後に立っていた一人の、脾腹を当てた。
「うぬっ――」
 一人が斬込もうと、刀を振上げた時、安堂は、倒れた男の刀を奪って、片手正眼につけた。そして笑い乍ら
「帰れ帰れ」
 廊下の外まで案内してきたのが
「渋川っ」
 と、表の方へ叫んだ。
「大丈夫で御座りますか」
 床の間の柱へ立った大口屋が声を顫わして叫んだ。
「それっ」
 右馬之助の刀が、対手の胸へ迫ると、窓の所へ圧迫された浪人は、さっと顔色を変えた。そして、安堂の隙を見て、周章てて、窓から屋根へ出た。
「逃げるかっ」
 と、刀を突出すと、瓦を踏んで、けたたましい音をさせながら、屋根伝いに逃げ走ってしまった。
「渋川っ」
 と、一人は階段の上で叫んだが、安堂の姿をみると、ばたばたと走り降りた。
「渋川と申す奴は出来ますから」
 と大口屋が、安堂の後方から注意した。右馬之助は、振向いて
「無頼漢の道場荒しだ。わしも聞き及んでおる」
 と、笑った。その瞬間
「降りろっ」
 と、渋川の声が下の方でした。

「はははは、降りると、脚を斬られる。ここまで昇って参れ。聞き及ぶ渋川なら、対手に不足でない」
 安堂は階段の下り口に立った。渋川は笑った。
「よし、気に入った。身共より、昇って参ろう――見事、斬れるか」
 刀を抜いて、片手で突出して、階段へ足をかけた。
「旦那っ」
 と、万八の主人が、手を合せて、渋川の顔をみた。
「名代の大口屋がいる」
 顎で二階をしゃくって
「新しいのをいくらでも建ててもらえ」
 凄い笑顔を亭主へ投げて、渋川は振り仰いだ。その刹那
「卑怯っ」
 と、渋川は絶叫した。そして、左手で顔、眼を、素早く覆うた。灰が、髪へ、眉へ、肩へ、白く降りかかって、上り口一杯に白く舞っていた。
「卑怯者っ」
 と、脚を引いて、眼を押えて
「ぶ、武士にあるまじき」
 までいうと
「ゆすり欺り」
 と、上から右馬之助がつけ加えた。そして
「あはははは」
 と、笑った。
「よし、おのれ容赦せぬっ」
 と、無理に、眼をこすって、見上げて、一気に駈上ろうとすると
「まだか」
 と、火鉢ぐるみ、雪崩のように、灰、火、濛々として頭へ、肩へ、全身に降りかかって来た。
 渋川は、眼を、口を閉じたが、鼻の中へ、耳の中へ灰が入ってきた。片手に刀を突出し、片手で顔を蓋うて、憤りに、全身を震わせて、その火と、灰の中を、眼を閉じながら、四五段かけ上ると
「えいっ」
 と、片手なぐりの第二撃、その瞬間、渋川は(しまった)
 と、頭の中で叫んだ。とんと、足が肩へ当って、よろめくと踏外した。どとっと音立てて、下の板の間へ、どっと転がった。
 立っていた浪人が、周章てて
「先生」
 と、手を出した。表に黒くなっていた人々が、どっと一足二足下った。渋川は、それでも、刀を構え乍ら、灰の中へ、素早く立上って
「万八、水をもて」
 と、言った。
「旦那、この隙に」
 と、安堂が大口屋に囁いた。
「逃げますか、先生」
「窓から」
 二人は足音を盗んで、窓から屋根へ出た。逃げた浪人が、屋根つづきの端に、刀をもって立っていた。二人の、窓から出たのを見ると、周章てて、下へ飛降りた。
「屋根へ、ぶら下って飛降りなされ」
 大口屋は、隣家の裏木戸の所へ、飛降りた。右馬之助は、つづいて身軽に、降り立つと、声を立てようとしたその家の人へ
「お隣の二階で――」
 と、言いかけると
「そっと、お逃げなさいまし、とんだ奴におかかりで、あん畜生には、お役人も手を出しませんで――でも、よく逃げられましたねえ」
 万八の二階で、どとっと、音がした。
「畜生っ」
「逃げた」
 と、叫んでいる渋川の声がした。二人は、往来へ出てしまって、角を曲った。