麻の葉乱れ

「親分――ここいらで――」
 じっと、様子をうかがいながら小声で
「待つ事に致しましたなら?」
「安堂さんをかい」
「さいな」
「ここあ、領分外だから、ちったあ、ゆっくりしてもええが――」
 曳船屋は、そう言い乍ら
(俺の顔は、この辺でも知った奴がいるだろう、江戸へ入るまで、油断はならねえ)
 と、考えた。
 二人とも、昂奮していた時には、命も惜しくないし、役人も恐ろしくなかったが、其処を逃げ出してこうして歩いていると、何かに追われるような臆病さが感じられた。
「安堂さんも、すぐ、江戸へ入るだろうし――第一、江戸へったって、この道だけじゃあねえんだから、万一、待っていて、別っこ道を抜けられちゃ、却って、心配させるようなもんだ。それよりか、早く江戸へ入って、もし――三日待っても、五日待っても、見えなかったなら――そりゃあ、その時にゃ、お前さんが、打っちゃって置けえったって、この親爺が、打っちゃっちゃあおかねえ」
 もくもくと、灰のように立つ、土煙に、膝の上まで埃まみれになり乍ら、二人は、江戸の方角へ急いでいた。
 行く道の時とちがって、誰彌の顔色は、陽焼けに、黒くなっていたし、着物は、汗と、油とで、重く、じめじめとして、汚れていた。
 それでも、行き交う人々は、誰彌を振返ってまで眺めた。
「粋な道中だあ、曳船屋の、情婦にしては、少し出来すぎていゃあがると、なあ、誰彌さん、さっきの立場の奴め、嫌な笑い方をしやぁがった――何うも、いやに、どいつも、こいつも、じろじろ見やがって、気まりが悪いや」
 曳船屋は、人々の注意を集めながら、危険と、得意とを感じていた。
 誰彌は、自分だけが安全になって、安堂の安否を見届けもしないでは、大口屋の門口を入れないような気がした。
(腕が、出来なさるから、よもや――)
 とも、思ったが
(何んな拍子で斬られるか、捕われるかして――)
と、思うと、自分を助ける為に、斬込んでくれた気持ちが、堪まらなく悲しく、嬉しく感じられてきて、このまま江戸へ入らずに――
(引返して、二人手をとって、江戸へ入ったら――)
 と――それは代官所から二三町歩くと、すぐ考えたが同じ事を繰返し繰返し、引返そうか? いいや、曳船さんが言うのが尤もだ――いいや、引返そうか?――と同じ事を、幾百度となく、繰返しながら、脚だけは、江戸の方へ動いていた。陽はもう、高く上っていて寝不足の誰彌は眼が痛かった。
(矢張り、臆病なのかしら?――安堂さんに、本当に、惚れていないのではないのかしら?――いいや、心から――好きな――)
 と、思うと、安堂が、牢へ入れられているのが、ちらちらして、又
(引返そうか)
 と、思った――誰彌の頭は、もつれ糸のように、こんがらがって乱れてきた。
(何んだか、あのまま、召捕られなさったような気もしてならぬ。もし、そうだったら、――何うしよう)
 曳船は頬冠りをして、黙々と歩いていた。誰彌は、草鞋に痛む足と心とを引ずりながら、そのうしろから、とぼとぼとついて行った。

「やああ――」
 と、店先の小僧が、笑った。
「汚なくなったねえ誰彌さん」
「もう踊子をよして、屑拾いになったのかえ」
「旦那が、心配していましたぜ」
 と、小僧が口々に、言っていると
「何んてなりだい、誰彌さん、何うしたのだい」
 と、重兵衛が出てきた。そして、曳船を見て
「さあ、そちらの方も、お上りなされ――真っ黒になって―― 一体、何うしたってんだろう」
「いろいろと訳あり」
 と、誰彌は微笑した。女中が、水をもってきた。誰彌は、何んだか、しみじみと、嬉しく、心の底から、安心したような気がして、脚を洗っていると、涙が出そうであった。
 廊下づたいに、いつもの小間使が出てきて、誰彌を案内した。誰彌が、曳船屋も一緒にというと
「俺ら、暫く、お店先にいよう」
 曳船屋は、上り口へ腰をかけたまま、煙草を喫い出した。
「では暫く――」
 廊下から、離れ座敷へ行くと、障子も開けぬ内に、大口屋の声がして
「えらい、ざまだのう」
「ええ」
 大口屋は、誰彌の知らない内に見たのか、番頭から聞いたのか?――誰彌が、廊下へ膝を突いて、女中の開けた障子から姿を見せると
「何うした? 大変な事になったと言うじゃないか?」
「はい」
「こっちも、大変だよ。未だ、お前、宅へ戻らないから知るめえが、千彌がの――」
「千彌が?」
 誰彌は、顔色を変えた。
(死んだのかしら)
 と思った。
「千彌が、運の悪い、水城様へ泊ったを、押えられてさあ」
 後は、聞かないでも、ほぼ判っていた。
「下げられましたか?」
「うむ――」
 大口屋は、頷いて
「客止めにはしておいた。又、何んとかなるだろうが――それよりも困った事は、お前、あの浅草の渋川が、さ、千彌に、ぞっこんと来ていて、腕づくでも、うんと言わせようと――尤も、腕より外には無い野郎だが、新吉原の八寸がこの渋の字の前では、頭が上らぬので――わしも、持余しじゃ。ただ、のう、千彌も、お前仕込みで、いざとなると、一筋縄では縛りきれぬ奴だから――」
 一筋縄と聞くと、誰彌は、ひやりとした。千彌の事も心配であるが、安堂の事を、何ういっていいか? 安堂の人殺しをした事は、大口屋も知っているらしいが、それから後の事を、話して、大口屋にいい思案があるか、無いか?
「それで、安堂さんは、一体、何うなすったえ」
 と、大口屋が話を向けると、誰彌は
「それが――お店に、一人、あの方と近しい男伊達衆が来ていなさんすが、ここへ呼んでは?――その人が、何もかも御存じ故――」
「早く言えばよいに――」
 大口屋は、手を叩いた。
「はあ――い」
 と、小女の返事の声が響いてきた。
「御無事なのかえ」
「さあ、それが――」
 と、までいうと、胸がつまった。
「死くなったのではあるめえな」
「はい」
「召捕られなすったかい」
「ええ」
「あの――本当に」

 女中が曳船屋を、店の間へ呼びにくると
「お宅か」
 と、恩地作十郎が入ってきた。
「おやっ、これは」
 重兵衛が、お叩頭をして
「お久し振りで――お身体の方は?」
 ようよう歩けるまでに恢復してきた作十郎は、安堂の事も聞きたし、大口屋へ礼も言いたし、と、来たのであった。
「旦那に、恩地様が――」
 と、女中へ、重兵衛が言うのを聞くと
「大口屋さんは忙しくは無いかの」
「丁度、誰彌様も見えております」
「安堂は?」
「さあ、その安堂様で、何うも大事が起っておりましてな」
 曳船を案内して行って女中は、すぐ引返してきて
「何うぞ、奥へ」
 と、手を突いた、作十郎は、番頭へ、頷き乍ら
「大事とは?」
「まあ、離れへ行って、ゆっくり、旦那様からもお話しが御座りましょうが――只今の、あの方――」
「あの町人が――何としたのか?」
「さあ、詳しくは存じませぬが――」
 二人は、話しながら、離れへ行くと
「ようこそ」
 と、大口屋が、作十郎を出迎えた。そして
「もう、お身体は?」
「御覧の如く、無い命を、二度まで拾ったが、大口屋殿、安堂に何か、椿事がおきたと聞いたが、如何なる事で御座ろう」
「さあ、その話を今、この方からお聞きしようと――曳船さん、こちらは、恩地作十郎様と仰しゃって、安堂さんの、無二の御朋輩」
 挨拶が済むと
「飛んでもねえ事が、起りましてな」
と、曳船が、安堂の病気を救った事から、誰彌との危地、別れ別れに逃げた事などを話した。
「うむ」
 作十郎は腕を組んで、長い病床にいた蒼白めて痩の見える顔を伏せてしまった。
「一両日、お戻りが無ければ、捜しに行く外はない」
 大口屋が静かに言った。誰も返事をしなかった。
「千彌の事より、この方が大事になってきたのう」
 と、又大口屋が、皆が黙っているので、口を切ると、作十郎が
「水城殿が、御心配で――その話、かたがたお礼に参ったのだが――安堂は――あやつ、何をするか知れぬ男故――」
「安堂様を捜しに行く、誰かよい人が御座りませぬか」
「身体さえ、人並なら、拙者が只今からでも参るが」
「妾が、もう一度――」
「何を言う、二人揃ったら、何をしでかすか知れん、危い危い」
 大口屋が、微笑した。
「それより、千彌を一度、見舞ってやってくれ、安堂さんの事は、一思案するから、わしに任せておいて、髪を結って――誰彌も、あったら器量を、陽にやかして、台無しだのう、はははは」
 大口屋は、めいっている人々を引立てるように笑ったが、人々は、黙って、俯むいていた。作十郎は、腕組したまま、じっと考え込んでいたが
「拙者に、所存が御座る」
 と、一人で、頷いた。

「ああっ」
 と、言った小女が、誰彌の顔をみて肩で呼吸をして
「お帰んなさいまし」
 と、挨拶すると、涙を浮べた。
「変った事は無かったかい」
「あの、千彌姐さんが――」
「それは判っている、その外に」
「その外に、別に、何も」
「そうかい、親方、むさくるしい所で御座んすが、どうか、ご遠慮なく――」
 千彌を、新吉原へ訪う為に、仕度をしに戻ってきた誰彌へ、保護者として、曳船屋が同道していた。
 留守の小女、お婆さんの丹精で、出て行った時と同じ調度のままの部屋へ入ると、すっかり気持ちの疲れが出てしまった。
 いつかの日、安堂と、ここで話をした有様が、しみじみと思い出された。
「中々、ええお住居で静だ」
 安堂の安否は、大口屋が引受けてくれたが、誰彌は、それの判らない内には、千彌の所へ行きたくなかった。然し、大口屋は、とにかく、千彌へ行ってやれ、安堂は、自分の方で――と、誰彌の灼熱してきた恋を知らないから、親切に言ってくれたが、誰彌は何んだか、千彌の失策に
(間の抜けた――)
 と、何か、怒りたいような気持ちさえ起っていた。
(人が留守だと思って、水城へ泊ったりするからだ)
 とも考えたが、すぐ思い直して
(水城の殿様となら、無理も無い。自分の気持から、水城様と千彌の恋を察しると――そうだ、千彌も慰めてやらぬと――あの子は、何んなに逢いたがっているであろう)
 そう思い乍ら、埃に汚れた着物を更えて、鏡の中をのぞくと
「ほんに、この黒さは?」
 と、独り言を言って、両手で、頬を挟んでみた。
「一寸、櫛を使いまする間――」
 と、次の間の曳船屋へ声をかけて、乱れた髪を梳き直した。
(渋川って――あのならず者が、千彌に執心だって――)
 と、誰彌が思ったと同時に、曳船が
「渋川って奴は、何処におります」
 と聞いた。
「さあ――浅草とだけ」
「余程、手利かの?」
「安堂様が、惜しい男、といつか仰しやって御座んしたが、浅草から、千住へかけて、手に立つ者が無いとの、噂で御座んす」
「ふむ――子分は」
「さあ――子分は――二三十人もおりましょうかなあ、よくは存じませぬが」
「一体、その千彌のいい人の、水城って、侍の癖に、何故、黙ってみているのか、叩っ斬ればよいのに」
「お名前が出ると、お上へ悪いからでも御座んしょうか」
「成る程――」
 誰彌は髪を束ねると、小女を呼んで
「駕を二挺」
「いえな、わっしは、歩く」
「いいえ、道程もあり、目に立ってもよくはないし――ほほほ、これでも、この辺を通ると目立ちますので」
 と、誰彌は笑い乍ら、地味な姿をして、部屋から出てきた。途端、息を切らして、お婆さんが
「お戻りかえ」
 と、登ってきた。そして、誰彌の姿をみると
「お前」
 と、言って、涙を落した。

[# 麻の葉乱れ おわり]

悪の蟲

「俺らは、ほんの端くれさ――然し、このまま黙っちゃあ戻れねえ」
 文覚の甚三は、つつましく坐って、静かな口調で――然しながら、凄文句を並べていた。
「千彌が客止めなら、こっちも、大口屋のつんだだけの金を積もう、大口屋だから、客止めにするの、一刀組だから、断るのと――そんな事あ、吉原の掟には無いぜ。小判さえ、手際よく並べりゃ、売らなくちゃならねえのが、ここの定法だ、ねえ、番頭さん。お前に、吉原の作法を説法するのは、お釈迦の逆撫でみたいだが――金をもってくりゃ千彌が居ねえからって、それで、さよで御座んすかと、戻れるかい。ええ一体千彌を何処へやったんだ、ここへ下げられた女を、外へ逃がしゃあ、ここの家は闕所になるぜ。まさか、それ程にして千彌へ返さなけりゃならん恩を、千彌の親爺から受けてる訳じゃあるめえ」
 番頭は、黙っていた。時々若い衆だの、新造だのが、廊下から心配そうに、覗いて通った。
「ええ、番公何んとか言え」
「はい」
「はい、だけじゃ返事にならねえよ。なあ、下から出て、お前みたいな三文奴に、こうして口を酸ぱくするのも、渋川の忠義立てからだ。組の為、五郎太の為なら、いつでも死ぬ甚三だ。ええ見な、ちゃんと、いつでも、晒しは切って巻いてるんだ」
 甚三は、腹巻を出して見せた。短刀が、のぞいていた。
「何処へ隠したんだい」
「それが――確に、ここには、今日、居りませんが、何処へ行ったか、親方はお留守だし――」
「広いお宅で、家さがしをしては、こっちが迷子になるから、野暮にこの家を歩き廻りはせんがのう――じゃ、何んだな根岸の寮辺へかくしてあるな」
 甚三の言い方は、急所であった。奉行の命令で、吉原へ下げられた女を、吉原の囲いの外へ出したとなれば、寮へやって、病気と称する外、その以外の場所へは、連出す事が出来なかった。
「さあ――」
「じゃあ、これから寮へ行ってくらあ、とんだ長っ尻で、お邪魔した――その代り、寮にも居ぬ、ここにも居ぬ――と、なりゃ、血を見るぜ。いいかい。一刀組の命知らずが勢揃いしてやって来るぜ。一人叩っ斬りゃ、一人が命を投出せば済むんだ。ここの主人と、下っ端のならず者との、命の釣かえならば、損は行かねえ。お前を斬りや、俺が、獄門台へ上ってやらあ、少し算盤に合わねえが、縁なら仕方がねえ、何れ、そろそろ出かけようかい、飛んだ長っ尻で、お邪魔様だ」
 甚三が、腰を上げた。番頭は、理詰の凄文句に逢って、何うする事もできなかった。
 白昼の青楼は、静かで、無気味さと、淋しさとが、流れていた。上り口から甚三が降りようとすると
「千彌が居りますかえ」
 と、表口で、女の声がした。
「おやっ」
 と、言っている男の声も聞えた。甚三は、片脚を、草履へ乗せたまま、じっと耳を立てていた。
「今日は――」
 と、誰彌が、中土間への暖簾を分けて、顔を出した。甚三が、振向いて
「いやあ」
 と、言った。そして、坐り直した。番頭が
「これは、お久しく――」
 と、言って、奥の方へ、手を叩いた。

 誰彌は、甚三は知らなかったが、甚三は名代の踊子を、勿論、よく知っていた。番頭が
「さあ何うぞ」
 と、挨拶すると、甚三は、煙管を腰から抜き出して
「待てば、海路の日和――かの」
 と、呟きつつ、煙草盆を引き寄せた。
「何うぞ、奥へ」
 番頭は出てきた女に指図した。その時曳船が、誰彌の後方の暖簾から、首を出して
「今日は」
 と、お叩頭をした、誰彌が
「親方お入りなされませ」というと、番頭が
「誰彌さん、何うか奥へ」
 その時、「番公っ」
 甚三が怒鳴った。
「よく、先を考えて物を言え、誰彌も千彌の事での話だろう。女だけ奥へ通して、俺は通さねえのか」
 甚三は、じいっと、番頭を睨みつけた。誰彌は、甚三の横顔を見乍ら、番頭に
「旦那は?」
 番頭は、周章て、誰彌を押えた。そして
「早く奥へ、御案内を――」
 と、立っている新造に命じた。その途端
「やいっ」
 甚三が、叫ぶと、甚三の前の煙草盆が、番頭の膝の前で、灰神楽を立てた。
「さあ、こうなりゃ俺が殺されるか、千彌を見届けて戻るか二つに一つだ」
 誰彌の顔色が動いた。曳船の出ようとするのを、手で止めて
「お前さんが、渋川かえ」
 と、甲高く、甚三に押っかぶせた。甚三は振向いて
「何っ」
「浅草の、ならず者の、渋川ってのは、こなさんかい」
「誰彌、余り、利いた科白は、為によくねえぞ」
 番頭が、誰彌に
「いいえ、子分衆で御座ります――ここは、何うか、さ早く、案内しな」
 と、流石に、吉原者だけに、落ついて灰を払いながら
「ここを掃除しな」
 と、女中に言った。曳船は誰彌の顔を見ていたが、眼でとめられて黙って立っていた。
「どうぞ――」
 と、新造が、誰彌を案内しようとすると、上り口から上ると、ぴたりと、甚三の横へ坐った。
「親分の渋川って男を連れておいで、誰彌が、千彌に代って、御挨拶申上げますからって」
「喧ましい」
「渋川に、そういってみな、子分風情の一存で、誰彌の言う事を断るなんて、これから何んな話になるか、お前さんに判るかえ。千彌でいけなけりゃ、誰彌が、話によっては、御用を勤めましょうって――変な、威嚇かしはよしておくれ。それとも、お前さんが誰彌を喧嘩の対手にすると言うんなら、斬られるか、殺されるか、踏まれるか、蹴られるか」
 誰彌は、膝を甚三の方へ進ませて
「それとも、さあ、撲ってでもみるかえ」
「面白え――いや、流石に、えらい、見上げた」
 甚三は、煙草の煙をはいて頷いた。
「千彌の代りを勉めると申したな」
「踊子なりあ、売物、買物さ。姉も、妹もあるものかい。名代に、妹女郎を出すのが、ここのお定めなら、踊子の代りに、姉が出るのは、踊子仲間の作法さ。戻って渋の字にそう言ってみな――何んなら、誰彌が、押しかけましょうかって――さ、帰りな。善は急げさ。こんなうまい話は、渋川が十遍生れ代って、江戸中逆立ちして歩いても、二度とは出て来ないんだから――」
 甚三は、すっかり誰彌に圧倒されてしまった。家中の人々が、物蔭から、二人を見較べて、笑ったり、感心したり、危んだりしていた。

「何うも、廊下で立ち聞きしていて、びっくりしましたよ」
 と、茶室作りの、小さい部屋へ、誰彌と、曳船の二人を案内した大文字の主人は
「誰彌さんに、あの啖呵が切れようたあ、一寸――」
「何んの、お芝居が、好きで御座んすから一寸――」
「いや、大した度胸だ」
「千彌が、御当家に、御迷惑をかけておるとの事で御座んすが」
「至って不行届きで――幸い、大口屋さんが、大の御贔屓で、千彌も仕合せ――客止めということにして、ちょいちょい水城様と逢うだけで、結構な話だが、結構すぎると人間、魔のさすもので、今の、ならずが、うるそうて、四五日前から、根岸へやりました。それも、ここの寮ではうるそうていけまいと、三浦屋のを頼んでのう」
「それは、本当にいろいろと」
 誰彌はお叩頭した。
「本人も、毎日、口癖のように、姉さん、姉さんと、逢ってやって下されば、何んなに嬉しがるか――それから、罪と言っても大した事でなし、水城様、いっそ、落籍してと、話が御座りましたが、御身分が、御身分故、お上へ知れて、お勤めの不首尾になってもと――まあ、いろいろ思案中――その内に、そうっと嘆願して、お赦しでも出たら」
「そんな事が、できましょうか」
「泥棒や、かたりともちがうて、ほんの御奉行の手心一つ、半年も、おとなしくしておれば、何んとか成りましょう。時に、その――姿は? 一体」
「之も、訳いろいろで御座んす」
「聞きましょうかの」
「暇日に、ゆっくり」 「お惚け、拝聴」
「さあ、そんな筋でもあれば――」
「勝手な話ばかり致しまして?」
 と、主人は、曳船が、何の為に来たか? 用があれば、話すようと、誰彌に、その意味を伝えた。
「別に――」
「では、ゆっくりと――」
「いいえ、それでは、これから、根岸へ行って――」
「然し、誰彌さん、用心せんと、渋川って代物は、飛んでも無い悪い虫でねえ」
 と、言った時、
「旦那」
 と、障子の外で、番頭の声がした。
「何んだえ」
「只今、八寸が来よりまして――一刀組が根岸の方へ行くらしいが用心して、と言って参りましたが――」
「御苦労」
 番頭が去ると
「今日は、今のように危ないから、誰彌さん明日にでも、逢うてやって下さりませ」
「あたし――思い立ったからには今日、これから――」
「いいや、対手が、獣故に、そりゃ、無分別でさあ」
「では、夜にでもなってから、こっそりと」
「せいぜい気をつけて」
「では、親方」
 と、誰彌は、曳船を振向いて
「お暇をしましょうか」
「ご主人、いろいろと」
 と、曳船は叩頭をした。
「熱い茶を一つ」
 主人は、手を叩いた。曳船は、江戸での誰彌の全盛振りに、すっかり、押されていた。

「千彌さんは、ほ、ほんに仕合せな」
 と、一人の妓は、半分の嫉みと、半分の羨ましさとで、病的な蒼白さの顔を、傾けながら、千彌の顔を見た。
「仕合?」
 千彌は、対手をちらっと見て、眼を伏せながら
「他人の花は赤いのたとえで御座んしょう、お金持ちには、人の顔をみると、お金を取られはせぬかと思う苦労があり、下々の人には、その日その日の苦労があり――」
「さて、そんな苦労なら、好きな人とでも一緒にいるなら、手鍋あべ、提げても、トチチン――本当に、千彌は、幸だよ」
 寮へ出養生している局女郎達は、暇さえあると、男の品定めをしていた。だが、しみじみ淋しくなる日には、きっと、自分達の浅ましい稼業の事が考えられた。
「考えたとて、何うなるものではなし――」
 と、一人が元気よく叫んで、唄を唄っても、沈んでいる女が多かった。
 千彌が客止めになっているという事は、嫉みと、羨望の中心で、それから、その美しさに、誰も、三浦屋の人が及ばないと知ると、中には、当つけに
「へん、結構な御身分だよ。それに、人の寮へ居候するなんて――」
 と、怒鳴る女もあった。だが、七人居た妓達は、三浦屋の抱えとして、武士、大町人の対手女として、相当の心得があったから、今日のような夜は、しみじみとした話をして、お互に泣くのが、楽しいように思えた。
「好きな人との苦労も、その日その日の口糊が出来てる分ならとにかく、米の、味噌のと、毎日頭痛するようでは、恋も、すぐ色褪めになるわいな」
「いえいえ、そんな事は無い。三代目高尾太夫様を御覧なされませ。本多の殿様が、嫌いで無いのに、浪人衆の彌太さんと一緒になって――嫌いでないなら、大名の方がよかろうに、とんと解せぬお心じゃったもんのう」
「それは、明舟さん――大名だの、大町人だのというものは、天下に、自分位えらいものは無いと、人を見下す事ばかりで――局女房でも人間の端しくれなら、人並に扱うてもらいたいわさ、それを、何んぞというと、太夫衆は人間じゃが、一寸局や、二寸局は、犬猫のようになあ――」
「そうとも、時たまに、惚れてくると、矢っ張り、犬猫を可愛がるように、頭を撫でて、金という餌さえやっておけば、何をされてもおとなしゅう尾を振ってついてくるもののように――わたしらとて、一寸の虫にも、五寸の魂――」
「五寸の魂?」
「さいな、これだけ肥っていたら、魂、定めし肥ってようからのう」
「水ぶくれの魂――どんなものか、見たいものじゃ」
「五寸の魂じゃもの、たまには、お虎、これは何うじゃと、相談をもちかけたり、こっちの相談に乗ってくれたり――いやいやそれもよいが、あっちの局にもよいよう、こっちの局にも一寸縁がつながり――丸で、犬をぞろぞろつれて歩いているように、まるで、人を畜生扱いに――それでもさあ、惚れた弱味というものは――」
「おや、お惚けかえ」
「いやさ、そうなると、他の女子に負けともないと、飛んだ意地を出して、無理勤めをしてから昴じた血の道じゃもの、それがほんとの血の道を上げるというもの。それに憎い男め、一度のお通し物をしたっきりで――」
 と、言った時、玄関の方から、高い声が聞えてきた。

「おや、野暮に大声な――」
 一人の女が、耳を傾けると
「お隣で、御座んしょう」
 と、一人が言った。
「ほんに、大文字の寮らしい、又、強請でも行ったのか――強請と言えば、千彌さん」
「はい」
「一刀組の渋川が、何んとかと話を聞いたが、本当かえ」
「さあ」
 と、千彌は、つつましく笑った。
「あの方は、わたしと、つい近くで、幼い時から知っているが、利かん気の、悪戯坊主で、小さい時から、弱い者のの肩をもち、強い者に喧嘩をしていたが――」
 大文字の寮で、女が、疳高く叫ぶと、何か塀にぶつかる音がした。女達は押静まつて
「静かに」
 寮の在る所は寂しかったし、たった一つの行燈の下に、薄暗く女が集まっているだけに、犬が、けたたましく吠え出して、人の叫びが聞こえると、吉原とはちがった淋しさと、恐ろしさとが迫ってきた。
「勇さん」
 と、一人が寮番へ怒鳴り乍ら、立って行った。
「勇さん」
 と、暫くすると、庭の方へ叫んでいるのが聞えた。勇吉は、隣へ覗きに行っているらしかった。三匹の犬は、近所の犬と一凝まりになって、吠えていた。
 暫く経つと、女が又一人立って、行った。残りの女は、眼を見張って、黙ったまま、隣の声と、物音とに聞き入っていた。千彌は
(もしかしたなら、渋川が――)
 と思うと、じっとして座っておられないような気がしてきた。
(大文字はとにかく、渋川の者が自分を探しに来ているという事がこの人々に判ったなら、何ういう事になるであろう。ただでさえ、快よく思うていないのに――)
 と、考えてくると、だんだん胸が騒ぐと共に、額が冷たくなって、身体中が、顫えてくるようであった。
 廊下へ、急がしい足音がして
「押込みらしいって――」
 と、女が、叫んで入ってきた。
「押込み? ――今時分に?」
「勇吉が御番所へ走ったから、追っつけ役人衆が来ましょうが、ほんに、夜になると、淋しゅうて、嫌な所、ふつふつこの間から、嫌になったわいな」
「私も、早う、戻りたい」
「さあ、眠るにも早いし――さっきのつづき話を致しましょうかな」
「さっきは? ――そうそう、ただ、猫のように可愛がられても、頼りもないし、もっと、人並に扱うて欲しいと、そんな事であったかのう」
「それはそうと、誰彌さんって名代の踊子が、お前の姉様という話じゃが、その誰彌様の好きな男というのは?」
「さあ――」
「吉原の男衆と、踊子の好きな男と、何うちがうか、聞きたいものじゃ」
 と、言った時、寮の表に釣ってある鳴子が、がらがらと鳴った。一人が
「ああっ]
 と叫んで身体を動かした。
「まあ、臆病な、鳴子では無いか」
 鳴子が、又鳴った。犬は、だんだん強く吠え出した。

「千彌さん」
 廊下に、あわただしい足音がして、襖が開いた。十五六の小女が
「誰彌と仰しゃる方が見えました」
 千彌は、はっと胸を打たれて
「姐さんが――」
 と、言った切りで、暫く、黙っていた。縋りつきたい程逢いたかったが、自分の不注意から、誰彌の顔を汚したことが、恐ろしくもあれば、恥しくもあった。
「お通し申しましょうか」
「さあ、何処か、別の間へ」
 小女が立って行った。
(自分が、小女よりさきに出迎えに行くのが本当だ)
 と小女が去った、その刹那に感じたが、もう立ち遅れてしまった。
「何んな、お美しい方やら――」
 と一人の女が呟いた。
「ほんになあ――千彌さん、一寸隙見しますぞえ」
 千彌は頷いて、立上って
「後程」
 と、皆に挨拶して、暗い廊下へ出た。金網のかかった柱行燈が、ほのかに照しているだけであった。
 大文字の寮の騒ぎが、いくらか静まったらしく、犬が、時々吠えるだけであった。
「茶の間へ御案内して置きました」
「有難う」
 廊下で、小女にそう言って、角を曲ると、白い襖が、低い瓦燈口に閉ざされていた。千彌は暫く、その前にじっと、入らないで佇んでいたが、暫くしてから静かに押し開けて、中へはいると、いつもの誰彌とは、別人かと見較べるような櫛巻に、地味造りの誰彌が、振向いて笑った。
「久し振り――」
 怒ってもいないらしい誰彌の笑顔を見ると、千彌は
「済みません」
 と、牡丹の花瓣が、崩れ落ちるように、畳の上へ両手を突いて、後悔と、懐しさとの入乱れた涙が、目を曇らせてしまった。
「万事、大口屋さんに頼んで、半年も辛抱していたら、何んとか成ろう故、身体を大事にな、何も、皆済んだ事――」
 千彌は、俯むいて頷いたまま、顔も上らなかった。
「泣くんでないよ」
「はい」
「お前も苦労しただろうが、妾ゃ、御覧、今しがた旅から戻ったばかりで、こんな風をしてさあ」
 と、袖を拡げた時、絹ずれの音がして、一人が菓子を、一人が茶を持って、局女郎が入ってきた。四人は、お互にお叩頭をした。
「妹が、御面倒をかけます」
「いいえ、叉、只今は、結構な品を頂戴致しまして――」
「なんの、ほんの手土産代り――」
 二人の女は、誰彌の頭を、着物を、しげしげと眺めていた。千彌は
(こんな姿をしていても、人間の品がちがいましょう)
 と、思ったり
(姉さんも、来るなら、いつものような姿をして来たらよいのに、余んまり、ひどい姿で――)
 と、思ったりした途端
「千彌さん――何うにも始末に行かねえや」
 と、言って、大文字の寮番の爺と、三浦屋の若い衆が、入ってきた。
「ええ? ――何がで、御座ります」
 千彌が、その方へ、振向いた。
「渋川って、どら猫野郎め、寮へ踏込んで来やがってのう」
 二人は、胸をどきっとさせた。

「づかづか登りゃがって、動かねえんだ、何んしろ、まむし見たいな代物だから、うっかり手を出すと、喰いつかれるからのう」
 若い衆は、誰彌を眺めていたが、誰彌だと判ったらしく、微笑して
「いらっしゃいまし」
 と、挨拶をした。
「渋川がで御座んすか」
「ええ、何んしろ役人がこいつにゃ、一目置いてるんで、始末にいけねえ」
 一座の人々は、暫く、黙っていた。誰彌が
「妾が参りましょう」
「ええ――」
「千彌の姉、誰彌という踊子が御座ります。初めまして――妹にからまる事なら、妾が出るのに、差支え御座りますまい故――」
「姉様、そりゃ無理な、どんな事をするか知れぬ対手じゃもの――姉さんが行かしゃるなら、妾も参りましょう」
「任せてお置き――」
「いいえ、もしもの事があっては」
「その時に、お前が敵討をしてくれるのがいいでは無いか、渋川も、人の頭と立てられる男なら、却て三下対手に話すよりも、話がしよいであろう。まさか、女対手に刃物三枚にも及ぶまいさ、黙って見ておいで」
「それでも――」
「うるさいお子だねえ――」
 誰彌は、こう言い乍ら立上った。言いだしたら、退く女でなかった。
「誰彌さん、そりゃ危うがすよ」
「妾、何気無しに、千彌を尋ねて来た振りをして、参りますから、一足お先に帰んなさって」
「然し、誰彌さん、もしも、喧嘩にでも成ったら――第一あっし共が困りまさあ」
「そうさ、まああのままで夜中まで、打っちゃっておいた方がようがしょうよ」
「いいえ、人様にご迷惑をかけては済みませぬ――千彌必ず出てはなりませぬぞえ」
 少し昂奮して、蒼くなった顔は、別の美しさを持っていた。
 渋川という名を聞いただけで、顫える女が多いのに、わざわざ出て言く誰彌の――それは、寮の女達には考えられない事であった。
「本当に――危い。よしなさい悪い事は言わねえ」
「誰彌さん、おやめなされませ、もしもの事があっては――」
 と、二人の男が止めた。二人は、名代の踊子の誰彌の髪に、着物に軽蔑をもっていたが、立上った誰彌の勇気と、決心とを見ると、すっかり圧倒されてしまった。そして、流石にえらいものだと思った。
「姉さん」
 襖を出ようとする誰彌へ、千彌がヒステリカルな声をかけた。
 自分が苦労をかけて、その上に、誰彌は誰彌として、道中で、さんざん苦労して来たらしいが、その上に未だ、自分の為に、渋川の所へ行くかと思うと、千彌は、じっとしておられなかった。
「妾も」
 と、立上るのを、誰彌が
「勝手に外へ出て、未だこの上、わたしに迷惑をかける所存?」
 と、振向いて睨んだ。役人の許しなくては、一歩も出られぬ千彌として、そう言われると、一寸ひるんだ隙に、誰彌は廊下へ出てしまった。
「ほんとに気の強い――」
 と、一人の女郎は微笑して廊下の闇へ消えて行く誰彌の後ろ姿を眺めていた。誰彌にすっかり気押されていたが、その誰彌が、無鉄砲に、渋川の所へ行って――ひどい目にでも逢ったら、胸がすくだろうと思った。寮番が
「人の上に立つ女は、ちがうね」
「感心していないで、おいらも、行こう」
 二人の男は、誰彌を追って出て行った。

誰彌は、寮の外に待っている曳船屋に
「親分――手出し、しないでねえ」
「手出したあ?」
「渋川の悪たれが来ているんですって、ここへ迷惑をかけたくないから、妾、なんとか致しますから、何んな事があっても、手を出さずに、お頼ん申します」
「心得たっ」
 曳船屋が頷いた。二人は、三浦屋の寮の前へ立った。
「御免下さりませ」
 藁葺屋根の柴門を入って、低い二段になった石段を上ると、すぐ表口であった。入口には萩が、傾いていた。犬が二匹、嗅ぎながら、脚元へ来た。曳船が
「用心なさいまし、対手が、悪う御座んすからね」
「ええ」
 誰彌は、蒼くなっている寮の人々に案内されて、磨き込んだ広い板の間から、右へ折れて廊下を行きながら
「ここで御座んすか」
 と、大きな声をして、そして、手荒く襖を開けると、床の間の前に、あぐらをかいている渋川へ
「お久し振り」
 と、笑った。渋川は、甚三と、もう一人の子分と三人、茶碗を前に、黙って座っていたが、誰彌を見ると、じろりと、睨んだきりで、物も言わなかった。
(一通りでは行かない)
 と、誰彌は感じた。だが、づかづかと近寄ると、三人の前へ座って
「今晩は」
 と、お叩頭をした。
「何しに来た」
 と、甚三が言ったのへ答もしないで
「五郎太さん、いつぞや、鰻屋で果し合ったお侍を、覚えていなさんすかえ」
 渋川は、じっと誰彌を見て
「うむ、それが?」
「安堂右馬之助って、御浪人衆――あの方の在家を御存じかえ」
 安堂の為に恥辱を受けた事は、男を売る渋川にとって忘れられ無い無念な事であった。だが、日の経つにつれて無念さも薄らぐし、大口屋へ仕返しをしたし、それに、安堂の行方をわざわざ探す程の暇が無かったが、逢えば、捨てておけぬ気のする安堂であった。
「知らぬ」
「無念で無いかえ」
「何?」
「一刀組の棟梁が、子供のように弄ばれてさ、そのまま泣寝入は、ちっと、御人品に係わりましょうなあ」
「在家を存じておるか」
「手引致しましょうか」
「明日にでも、頼もうか」
「今夜は?」
「ならぬ」
「ほほほ、今夜は、ここで、女と老人ばかりをいじめて――ほほ、安堂様では歯が立たぬという訳で御座んしょうか」
「黙れっ」
「弱い者への意地なら、ずんと立てるが、強い奴には、とくと考えてからで無いと、意地を立てぬと――少々、焼が廻りましたぞえ」
「やいやい誰彌。うぬ、昼間、大口を利いたのう。千彌の身代りに出ようかと」
「だから、男三匹の中へ、こうして乗込んで、焼くなり、煮るなり御勝手次第と、踊子の意地はなあ、甚さん、対手の強い、弱いにかかわらず――と申そうより、女は元来が物が判らぬので、五郎太さんのように、分別がつきかねますので、御座りましょう。では、御座りませぬか、渋川様」
 誰彌は、心持、蒼白め乍ら、渋川を見て笑った。

「親切に意見してくれるのう。成程――」
 と、言って、渋川は、誰彌の手に乗らなかった。
「安堂様が、表に待っておられます。こう申し上げましても、お立ちなさりませぬか、腰が抜けたのでないなら、一寸、表まで」
 渋川は、じっと、誰彌を睨んでいたが、鋭く、
「誰彌、よも、偽りではあるまいのう」
「踊子は、女郎衆のように、百枚起誓は書きませぬ、夜更に、根岸へのこのこと、女一人で来られるか、考えて御覧なされませ、大口屋の旦那が、用心の為に送ってやってくれ。もし、渋川が居たなら、一懲らし、懲らしめるのがよい、と――ここで、妾が、あれえ、と叫んだら、さあ、その障子から出てくるか、この襖から出てくるか、それとも、帰り道に、ばっさりとやるか、後ろ立て一人無しに、当節、げじげじより嫌がられていなさんす、渋川五郎太という親方の前で、こんな物の言い方ができますかえ」
「甚三、見て参れ、真実居ようなら、もっけの幸じゃ」
「えい」
 甚三が、膝へ手をついて、立とうとすると、
「御案内致しましょう」
 と、誰彌も立った。
「表か」
「さあ」
 甚三は、安堂の腕を十分以上に知っていて、怖ろしかったが、渋川の命令には背け無かった。
(何んとか、うまく行くように、いきなり、ばっさりとやられては助からぬ)
 と、考えた。向って行って、何うにも出来ぬ対手であったなら、逃げる事を考えるよりか、外に仕方が無いと、思った。
「甚さん、目差す奴は、五郎太一人。安堂さんは、甚さんなど、対手にしませぬぞえ」
 甚三は、返事もできぬ位に、緊張していた。表口から、外へ出ると
「安堂様、安堂様は居なさいましょうがな」
 と、、誰彌が呼んだ。甚三は、刀へ手をかけていた。暫くして
「渋川か」
 と、闇の中で、男の声がした。
「いいえ、手下の――」
「用は無い」
 誰彌は、甚三の耳へ
「渋川へ、卑怯な真似を為されますな、と言って来て下さんせ」
 と、囁いた。そして
「ここでは、迷惑故、御行の松の辺で尋常の勝負仕りましょう、渋川様も、果し状をつけられて、よも、後を見せる方では御座んすまい。すぐ、安堂様とつれ立って参ります程に、先へ行って、お待ち下されませぬか」
「うむ」
 謀し合せた曳船屋との狂言が、うまく当りそうなので、誰彌は、おかしくなってきた。
「後程」
 と、甚三が奥へ入りかけると
「忘れるな、手下、渋川によく申せ」
 と、曳船屋、うまい科白を怒鳴った。誰彌は、笑いかけて、声を殺しながら
「さあ、早く、そう申しておいで」
 と、甚三の袖を引いた。甚三が部屋へ入ると
「居たか」
「確に、御行の松で、待っているから出て来いと――」
「妾より一足先へ参りましたが――」
「よし、勝負致してくれる。誰彌、同道致せ」
 渋川は、すぐ立上った。
「渋川様の御帰館あ――ん」
 と、誰彌が叫んだ。
「案内せい、誰彌」
 渋川は、誰彌の後方へ立った。誰彌は、少し恐ろしくなってきたが
(何うにかなる)
 と、思った、そして
「ええ、御一緒に参りますとも」
 と、答えた

 人間は危いとか、恐ろしいとか、という事を想像していると、ひどく、危くも、恐ろしくも感じるが、その危なさ、恐ろしさにぶつかって見ると、案外想像していた程でも無い事が多い。
 誰彌はそんな危い、恐ろしい事を、いろいろと経験した。そして今も、思ったよりも手易く、渋川を誘い出す事に成功したが、一緒に行こうと言われて、ぎくりとした。だが、その底には
(何うにか成る)
 と言う信仰があった。それは、代官の邸での、自分の危難、安堂の危難が、うまく免れたからであった。だから
(安堂様は、何うなったかしら)
 と、心配しながら、叉
(あの強い方が――何んとかうまくなるだろう)
 と、考える事が出来たし、自分の運命も、何とかなるものだと信じていた。
 渋川と、この闇の中を、出鱈目に、御行の松まで行って、もし、安堂が居ず、それが偽りと判ったなら、兇暴な五郎太が何をするか? それを考えると、身体が冷たくなったが、すぐ
(何んとか成る)
 という気が起った。
 表へ出ると、子分の一人が提灯をつけて、道を照した。犬が叉吠え出したが、すぐ静かになった。
 寮から、御行の松へは、すぐであったが、道が細いのと、闇夜とで、ひどく遠いように思えた。空には、星がいつもより、ぎらぎら光っていたし、上野近くの灯が、五つ六つまたたいていた。左手を鞘へかけて、俯きながら歩いていた五郎太が
「甚三」
 と、鋭い眼を向けた。
「ええ」
「人の気はいがする」
 眼で、後方の方を指した。誰彌は、曳船屋が、蹤いてくるのを、渋川が感じたのだろうと思った。甚三は、立止まって刀へ手をかけて
「安堂か?」
 と、渋川に聞いた。
「そうでもあるまいが――」
 誰彌が
「親方っ」
 と、叫んだ。
 渋川は、じっと、刀の繰形へ手をかけて、田圃を脊に、耳をすましていた。そして
「連れか?」
「はい、妾の用心棒」
「安堂とはちがうのか?」
 甚三が、黒い人影へ
「こそこそ歩かずと、出て来い」
 答えが無かった。
「親方、出て来なさんせ」
 曳船屋は、闇の中に立ち乍ら、迂闊に声を出して安堂だと偽った謀が破れては大変と思って、黙っていた。
「誰彌っ」
 渋川は、誰彌の姿をじっと睨みつけて
「偽りではあるまいのう」
「何んの」
 渋川がすぐ歩き出した。誰彌を睨んだ渋川の眼には、蛇が獲物に飛びかかる時のような殺気が燃えていた。誰彌は、恐ろしさを感じた。
 四人の足音が、塀に添って、松の方へ行くと、松の横の茶店も、もう寝たらしく、床を立てかけ、葭簾を巻いて、暗い中に静まっていた。灯一つ無かった。
「これへ――安堂を連れて参れ」
 渋川は、誰彌を睨んだ。
「何処におるか?出してみい。千彌を出すか、安堂を出すか」
「只今、夜が明けるには、暇が御坐んす」
 そう言い乍ら、誰彌は冷たい汗を、かいていた。胸が、鳴っていた。

一一

「安堂様」
 御行の松の梢に風が渡るだけであった。
「安堂様」
 犬の遠吠えだけであった。
「安堂様、はてな」
 誰彌が首を傾けた時、渋川が、
「馬鹿めっ、何程呼んだとて居ぬ者が、返事をするか、浅墓な謀にかけおって――甚三、引っ縛って担いで行けっ」
 声の終らぬ内に
「この阿魔め」
 誰彌は、腕をつかまれ乍ら、顫える声で
「はは――ははは、はははは」
 それは、狂人のような笑い声であった。
「覚悟はしておりますぞえ、踏まれようと、蹴られようと――」
 と言った時、二人の男が両手を、後方へ捻上げていた。誰彌は、それへ懸命に、抵抗しながら
「最初っから、嘘と判ってりゃこそ、のめのめと出て来たので御坐んしょう。あたしゃあ、殺されても、突かれても、大文字へ、義理さえ立てりゃ本望だから――お前様のような、おけらを、こうして連れ出せば、それで、妾の意地は立ったんで御座んすよ、ははははは」
 誰彌を、縛り上げると、甚三は背中を、一つ突いて
「歩けっ――」
 と怒鳴った。
「地獄へでも、極楽へでも連れて行くがよう御座んす」
 渋川は、じっと、腕組をして、立っていたが、小首を傾けて、闇をすかしてみたその途端
「放して――」
 と、疳高く叫んだ声は、千彌の声にちがいなかった。
「出るんじゃないっ」
 と、誰彌が、一杯の声で叫んだ時
「ね、姉さんの代りに、妾をっ」
 提灯の灯の中へ、千彌の姿が現われた。裾を乱し、襟を乱して、狂人のように走ってきた。その後方から曳船屋が、千彌を追うて走り乍ら
「渋川さん、女を縛りなすって、えらいお手柄だ」
 甚三が、づかづかと、曳船へ近づいて
「待てえ、うなあ」
「邪魔すな」
 その隙に、千彌は、甚三をすりぬけて誰彌へ縋りついた。
「か、勘忍して――」
 誰彌の胸へ泣き崩れた。その耳許へ
「千ちゃんっ、馬鹿なっ、早く逃げて逃げて」
 と、誰彌が口早に囁いた。
「いや、見上げた義理堅い姉妹だ。千彌が来た以上、こんな女に用はない」
 千彌の手を、ぐっと左手で抱き込むと渋川は、黙って引擦りかけた。千彌は、誰彌の袖をつかんで
「ええ。いやなっ、いやなっ」
 振切ろうともがくのを、冷笑と共に
「手を離して」
 と、言ったかと思うと、袖をつかんでいた千彌の手が、誰彌から離れて、両手とも、渋川の腕の中へかかえ込まれてしまった。千彌は、乱れた髪を振って、顔を歪めて
「姉さん」
 と、叫んだ時
「何おっ」
 甚三が、飛びすさって刀を抜いた。曳船屋も、抜いていた。
「危いっ」
 誰彌は、縛られたままその方へ走り出した。その瞬間、甚三を棄ておいて、曳船屋が
「うぬっ、渋川っ」
 斬りかかった曳船屋の刀をどう躱けたか――千彌を片手に掴んだまま、腰を捻ると、渋川の右手に刀が光っていて、曳船屋はよろめいて、唸った。
「人殺しっ」
 誰彌が叫んだ。
「黙れっ」
「人殺し、人殺し、渋川が――」
 灯が、茶店の戸の中に動いて、人が出てくるらしかった。渋川は刀の柄で、誰彌の脇腹をどんと突いた。そして
「長居は無用、行け」
 と、甚三に言った。そして、手早く、千彌の口を縛り上げた。

[# 悪の蟲 おわり]

情炎

「遅いねえ」
 と、団七は、舌打ちをした。渋川の子分は、その顔を、ちらっと見たが、返事をしなかった。
 関係してから、そう長くは成らなかったが、団七は、渋川の男らしさに、惚込んでしまっていた。世間から恐れられ、嫌がられていたが、それは、渋川という人間を知らぬからで、交際ってみると、さっぱりした、人一倍、人情深い男であった。
 何故、それに、世間へ反抗するのか? それが、ほぼ団七に呑込めてくると、自分と結局同じ事だと思うようになった。団七が、踊子仲間から、世間から軽蔑されて、誰彌などより一段劣った踊子と見られているように、渋川は何んなに腕があっても、親からの浪人で、一度も仕官した事が無いと、世間の人は、侍はすぐ軽蔑した。渋川が、
(腕で来い)
 と、思っても、それは、世間へ通用しなかった。
 だから、団七は、半分、自棄的に、自分から、誰彌とは逆に、身体を落して行ったが、渋川も叉、団七と同じように、侍へ反抗して、不逞の徒となっているのであった。
 だが、二人とも、生れ乍らの素直な性質、誰にも劣らぬ――いや、寧ろ、すぐれている性質は、自分と同じような境遇にある者に対しては、親切に、義理正しく、働いていた。
 然し、二人の下に集まってくる男、又は女は、そうで無かった。夫は、性質のよくない、頭の悪い腕の鈍い、取る所の無い――つまり世間に必要のない――だから、世間では喰べられぬ人々であった、そして、喰べられぬからだけで、渋川の下へ集まって来ていた。
 そうした人々の中で、こうした境遇の中にあって、年月を暮していると、すっかり、もう生れ乍らの無頼漢のようになるのが、人間の慣であった。夜半に、ふっと、後悔する気も起った事があったが、それも、もう無くなって、良心がすっかり、しびれてしまっていた。
 団七は、その上に、女であったから、久々に逢おうとして来て、眠そうな子分から
「根岸の三浦屋の寮へ行かしったが――」
 と、聞くと
(何の為に――)
 と、すぐ、不安な胸騒ぎがした。
(誰かと、出来ているのではないのかしら?)
 と思ったから
「何の用で?」
「さあ」
 一人が
「もしかしたら、今夜は、戻らんかもしれんが――」
 団七は、渋川が、女の所へ――少くも、女以外の用事ではないと、考えた。そうして、戻ってくるまで、自分もここから戻るものかと決心した。
 子分達は、こそこそ話をしたり、欠伸をしたりしていたが、時の鐘が、よく聞える位に、世間が静かになると
「姉御、明日になすっては――」
「眠けりゃ、お寝みよ」
 団七は、素気なく言った。
「そういう訳じゃ御座んせんが――」
 次の間では、いびきの音がしていた。子分は、団七が戻らぬので眠る事もできず、あてつけの欠伸を、つづけざまにして、家中、静かになってしまった。
 夜中に近い頃、犬が吠えると共に、暫くして、足音が近づいてきた。
(帰ってきた)
 と、団七は、ほっと、息をついた、と同時に、胸が焼きつくように、苛々として来た。

「お帰りだよ」
「ええ」
 子分が二三寝むそうに返事して、だがすぐ、一度に立上った。と同時に
「開けろっ」
 戸が、あわただしく、がたがた音立てて開くと
「お帰んなさい」
「入れ」
 誰かを、連れて来たらしかった。団七が立上って、出迎えようと、表の間の敷居へ行くと、一人の女が、俯むいて、手をとられ、肩を押され乍ら、悄然として入ってきた。
(見た事のある――)
 と、思った瞬間――それは、千彌だ、とすぐ判った。そして、
(小気味のいい)
 と感じたのは、ほんの瞬間で、次の瞬間には、
(五郎太め、未だ千彌に想いをかけゃあがって――手込にまでして連れてきて)
 と、総身の血が、逆流するように感じてきた。だがわざと大きな声で
「お帰んなさいまし」
 薄暗い表の間で、さっと、こっちを見た渋川は
「七か」
 と、言った。千彌は、団七に気もつかず、よろめき乍ら、子分の手に引ずられて、次の間へ入ろうとした。
「千彌さん」
 と、いう女の声がした。
「ええ?」
 顔を挙げると、団七が、刺すような眼で、睨みつけていた。
「ああっ」
 千彌は、重ね重ねの自分の失策に、どうしていいか判らなくなっていた。
(姐さんを助けようとして、却て、姐さんを殺したり――)
 と思うと、自分は死ぬより外はないように思えた。そうして、死のう、と決心したが、いろいろと死ぬ方法を考えている内、同じ死ぬなら
(憎い、渋川を殺して――殺さぬまでも、傷でもつけて――)
 と、考えた。そう思うと、渋川と一緒に、闇の中を歩いていても、恐ろしくなくなったが、家の中へ入って――それから、団七の顔を見ると、諦めていた口惜しさが又、溢れるように、胸から、咽喉一杯になってきた。
「何うなさんすの?」
 団七は、冷ややかに聞いた。
「さあ――何う成りますやら」
 千彌は、気を取直して、反抗的になってきた。そして、
「そこいらの方に聞いて御覧なさりませ」
「ふん――口だけはいつもお達者で、結構」
 と、団七が答えて、渋川へ
「この女を、何うするの?」
 と言った。
「黙っていろ」
「えらい勢いだね」
 渋川は、団七に答えないで、奥の間へ入ってしまった。
「千彌を、こっちへ――」
 渋川の声がした。
「こっちへ来な」
 と子分が、肩を押した。千彌が、奥の間へ歩いて行くのと一緒に、団七もついて行った。襖の中から、渋川が、じろっと、団七を見て、唇を噛んだ。

「団七――あっちへ行ってろ」
 渋川は、鋭い眼をして、団七に頭を振った。団七は千彌の事に対する嫉妬よりも、千彌の前で、そういう風に安く取扱われた事に対して、憤りが湧いてきた。
「来ちゃいけないのかい」
 そう言った団七の顔は、少し蒼ざめて、眼の色が、劇しくなっていた。渋川は、千彌を手込めにしてでも、思いを晴そうとしたのに、団七が突然に来ていたから
(邪魔だ)
 と思った時、団七が、心の底で嫉妬しているらしく感じたので、少し苛々としてきた。
団七が、そして
「来ちゃいけないのかい」
 と反抗的に出ると共に
「けいないっ」
 と、言下に、怒鳴った。
「そうかい」
 襖の所へ立ったまま
「お前さんは、千彌に、怨みがあるのか、惚れているのか知らないが、丁度いい幸、あっしゃあ、その女に言い度い事があるんだよ」
「うるさいっ、出ろと申すに――」
 団七の顔は、その声と共に、ヒステリックになった。
「千彌っ」
 千彌は、俯むいたままであった。
「団七組を、夜鷹同様に言っていた癖に、吉原へ下げられて、のめのめと、よう、此の家へ来たねえ」
 千彌は、黙っていた。渋川は、苦い顔をして腕組をして、千彌を、じっと眺めていた。
「渋川は、あっしの亭主だがねえ、可愛がってもらう気なら、せいぜい、しっぽり抱いてもらうがいいが、団七には、団七の意地のあるのを覚えておいでよ。団七は、お前さんみたいに、男に手込めにされて、のこのこついて来るような、女たあちがうが、誰彌組の姉さんはよく入らっしゃいましただ」
 と、言っている内に、何を言っても、石仏のように、黙っていて動かない千彌に、むらむらと腹が立ってくると共に、自分よりも、千彌へ惚れているらしい、渋川へも、火のような嫉妬が、起ってきた。自分へは強く叱りつけておいて、千彌へは何一つ口を利かない渋川が、憎くなってきた。自分へよりも千彌へ惚れていると感じた。
「たんと可愛がってもらうがいいや。五郎太も、たんと可愛がってやるがいいや。あっしが居るのに、何んだい。わざわざ吉原へ下げられたような下素女郎を、手込めにまでして連れて来てさあ――」
「黙っていろ」
「千彌を、手込めにするんなら、見ている前でして御覧な。憎うて――大口屋へ、あの浪人への面当に、さいなむつもりで連れて来たものなら、あっしも一緒に手伝うよ。それとも、惚れ込んで連れてきたのか――五郎太、一体、何っちなんだい」
「出ろと申すに――出んか」
「あっしまで、手込めにしようてんかい、面白いねえ」
 団七は、懐手をして、襖の所へ、凭れていたが、千彌の側へくると
「唖かい」
 と、叫んで、腰を蹴った。千彌は、団七を振向いて、睨んだきり、すぐ又、元の如く俯むいてしまった。
「おい千彌さん、ここは、地獄の八丁目だ。もう一度真人間で、町の中へ出られると思いなさんな」
 上から、じっと、睨みつけると、手荒く、襖を開けて出て行ってしまった。渋川は、その後姿を見送っていたが
「甚三」
 と、呼んだ。

「何かのう」
 甚三が、入ると、渋川が
「あいつを――見張ってろ」
「ええ――然し、姐御はきつい顔ですぜ。今夜は、じっとさせておいて、明日にしたら――」
「同じ事だ」
 と、口早に答えて、甚三へ出て行けと、眼で命令した。甚三が頷いて、ちらっと千彌をみてから、
出ていくと
「千彌――」
 千彌は、黙って、身動きもしなかった。渋川は、微笑して
「痛い目に逢わせても、一旦思い立った事は、通さでおかぬ拙者だ。よいか」
 こう言って渋川は、片膝を立て、身体を延ばした。そして千彌の右手を握った。千彌は、その強い力に引っ張られて、左手を、左手を畳へ突くと、一尺程、引寄せられた、渋川は、千彌が声を立てるか、立上るか、と思ったのに、黙って引寄せられたままになっているので、
(覚悟したか――恐ろしいのか、何れにしても、世話がなくてよい)

以下、校正中@@@!! (p383-2-1-
 と思い乍ら、千彌の右手を、自分の脇下へ引込んで、頭髪が、自分の眼の下へくる位に、近寄せると、右手で、千彌の肩を、抱えてぐっと引きつけた。千彌は、倒れかかるように身体を延ばして、渋川の膝の上へ、もたれ込んできた。髪の香と、白粉の残んの香とが、近々と匂うた。渋川は、赤い顔になって
「もそっと」
 と、低く言って千彌を、引き寄せようとした途端だ。渋川の膝の上にあった千彌の左手が、脇差の方へ廻ると、柄へ手をかけてぐっと引張った。と同時に、千彌は、全身の力で、柄を引いた。身体ぐるみの力で引抜いた。
「うぬっ」
 欺されたと思うと、渋川は、怒りと共に、十分押さえていた千彌の右手を、力任せに引くと共に
「ええいっ」
 渋川の手は、千彌の腰へかかっていた。千彌は、刀を抜き取ったまま、裾を乱して髪を崩して、投出された。畳へ、壁へ、それでもどどんと響いた。
「誰もくるなっ」
 と、渋川が叫んだ。そして渋川が立上がるのと、千彌が、裾を押えて、坐り直したのと同時であった。千彌は、赤い顔をし、呼吸を喘ませつつ、左手の脇差を、両手で握った。そして、前へ突出し乍ら、壁を背にしてじりじりと立って、壁へ、身体を、ぴたりとつけた。
「よし――その儀なら――」
 渋川は兎を狙う虎のように、じっと、千彌を睨みつけて、左手を突出して、じりっと一歩近寄った。子分が、襖外で
「いけませんっ」
 と、叫んだ。
 だだっと、足音がしてどんと襖へぶつかると
「馬鹿っ」  と疳高い、団七の声がした。
「危ない」
 と、甚三が、襖外で叫んでいた。団七の入ろうとするのを、甚三等が引止めているいるらしかった。渋川は、振向きもせずに、じりっと、又進んだ。
 千彌の顔は、蒼白になってしまって、眼が異様にかがやいていた。渋川が切尖から三尺余りの所まで近づいた時、千彌は、唇を顫わせて
「姉さんっ、許して下さいまし」
 と、叫んだ。頬が、びくびくと釣れた。
 襖が、二寸余り開いて、又、ぶっつかる音がした。団七が何かもって、入ろうとしていた。子分がそれを止めた。
「あっ」
 と、渋川が、口の中で叫んだ時、千彌は、前方へ突出していた脇差を、持直すと、自分の脇腹へ、突刺した。その瞬間、渋川の身体は、虎の跳躍するように千彌へ跳りかかった。千彌は、壁へ、どんと、身体を、ぶっつけると、崩れ倒れてしまった。
「馬鹿め」
 と、渋川は、叫び乍ら、それでも、千彌の手から、指をこじ開けて、脇差を取り上げた。

「危ないったら――」
甚三の叫びと共に、襖が、折れるように曲ると、どっと、敷居から外れてしまった。団七は、剃刀を、逆手にして、転がるように、たたっと入ると
「馬鹿っ」
 渋川が、脇差を提げて、突立っていた団七を睨みつけた。壁の所に、牡丹の花瓣が落ちているように、千彌が、倒れて、踵を動かしていた。
(千彌を殺したな)
 と、団七は思うと、自分の考えていた事、している事が、渋川の心を、少しも知らなかったと思った。同時に、後悔と感謝の心が溢れてきた。そして
(殺さずともよいのに)
 と思うと、千彌まで、可哀そうな気がしてきた。団七は力抜けしたように、千彌から、渋川へ眼をやって
「殺さないでもよいのに?」
 渋川は提げていた脇差の尖を、ちらっと見た。甚三が、千彌の側へよって、千彌の顔をじっと眺めていた。
「出ろっ――出て行けっ」
 渋川は団七を睨みつけた。
「ええ」
 団七は黙って、次の間へ出た。子分が、襖を立てた。
「甚三は疵薬をつけてやれ」
 甚三はびっくりして、肩で大きく呼吸しながら、時々うめいている千彌の額へ手を当ていたが、
「殺さずとも」
「自分で突いたのだ。団七め、俺が殺したと思っているがよい幸じゃ。疵は深くなかろう」
 渋川は、刀の尖を、懐紙に当ててぴたりと血糊の形をつけて、ぐっとしごいた。一寸余りの形が鮮かについていた。
「死ぬ事はなかろう」
「しっかりしな」
 甚三が、こう大声を出すと、づかづかと寄った渋川が、覗き込んで
「団七には、死んだものとして――」
 と、囁いた。
「ええ」
 渋川は、じっと脈をとっていたが
「半分は自分の気持ちから、気を失っているのだ。手当をすれば助かる」
 と、言いつつ、胸を押開けた。襦袢へ、肌へ、地が滲んでいた。甚三は、汚い用箪笥から、油薬と、繃帯とを出してきた。
「親分にも似合わねえ、不手際な」
「まさかと、うっかりして居った」
「矢張り、しっかり者で御座んすねえ」
「うむ」
「そこへ惚れ込んだ、という訳ですかねえ」
 渋川は、千彌の気絶しているのを幸、片肩を脱がして、傷所の周囲の血を拭いた。傷口は、口を開いて、じくじくと血汐が流出していたが、深くはなかった。
「すべすべしたいい肌だ」
 と、呟きつつ、甚三は、膏薬を塗って、布を当てた。血が、胸の白粉へかかって美しく紅色の化粧をしていた。
「一体、この後始末は?」
「野郎共、口さが無いから――何っか、よい所が――有れば、暫く、隠しておいて」
 甚三は、繃帯をしながら
「引受けた。任せてもらおう」
「頼む」
 千彌は、蒼い顔をして、心持ち口を開き乍ら、気絶していた。
「然し、いい女だ」
 甚三は、その顔を凝視して、呟いた。
「団七め、剃刀をもって、彼奴め、気狂いじゃのう」
 渋川は、襟を、前を合せて、笑った。
「目の前じゃ、いくら、団七でも逆上しまさあ、余んまり、罪すぎらあ」
 甚三は、そう言い乍ら、じっと、千彌の顔に見入っていた。

「済みませんでしたねえ」
 団七は、髪を直して、次の間へ出て来た渋川を見ると、笑いかけた。渋川はきつい顔をして、黙って座った。
「お許しなされて下さいましょう」
 団七は、芝居がかりで、双手を突いた。
「心得の無い。すまじき事を致す」
「その通り――」
「たわけっ」
 渋川は、睨みつけると、団七の横頬を、びしっと撲った。団七は、きっと、渋川を睨みつけたが、すぐ微笑して
「それで、お気がすむなら――」
「七っ――千彌が死んだからこそよいが、もし、千彌が世間へ出て、団七組の団七は、剃刀をもって暴れると、言い触らしたなら、何とする。男の心も知らずに、狂人染みた嫉妬をして、それで、誰彌組に楯突けるか?」
「恐れいります――でもねえ、嫉妬は――」
「申すかっ」
「僕たれましょう――所詮は、可愛いから嫉くのさあ。外の事になら、眼がくらむような団七でも無いけれど、この事ばかりは、ついふらふらと、気が触れてのう、以後、きっとつつしみまする――だが、千彌の始末は?」
 渋川は答えなかった。そうして、肚の中で(いい時に、千彌め、いい事をやってくれた。生命に別条は無いし、疵養生させてゆっくり楽もう。この女め、死んだと思って、急に、御機嫌を直したが、あまいものだ」
 と、都合よく行ったのを、喜び乍ら、顔だけは、厳めしく、眉を寄せて
「野郎共、寝ろっ」
 と、怒鳴った。
「泊ったら、いけないか知ら――」
 渋川は答えなかった。
「じゃあ――誰か、気の毒だが、送ってくれないかなねえ」
 男子は、身づくろして立上り乍ら
「泊ったら、いけないのかい」
 と、小さい声で、もう一度言った。
「ならぬ」
「じゃ、妾が悪いのだから、明日までに気持ちを直してねえ。それで、あれは――見つかりでもしたら大変だが――」
 と、千彌が死んだのを、何う処分するという意味の眼をした。
「黙って帰れ」
「しかし」
「帰れっ」
「じゃあ、帰るが――お前さん、愛想をつかしたのかえ」
 渋川は、嫌いな女でなかった。
「二三日してから参れ」
「悪かったと、思っているんだから、堪忍しておくれでない」
 団七は、子分が居なくなったので、渋川の膝の上へ、片膝を乗せて
「ねえ」
 片手で、じっと、手を握りながら、片手を渋川の胸へ差入れて、撫で乍ら
「直ったかい――済まなんだねえ本当に、かっとして――これから、つつしむから、――お前さん」
 団七は渋川の手を、自分の膝の方へ引寄せて
「厚皮ましいが――今夜は、泊りたいよ――ねえ」
 と、顔を近づけた。団七の情熱が、渋川へおおいかぶさるように襲ってきた。
「いいだろう。ええ? 千彌の代りにはならないにしても、さ」
 渋川は、黙っていた。
「団七さん、御戻りが、お泊りか」
 子分が、声をかけた。
「泊りますよ。臥んで下さいな」
 と、団七は、やさしく言った。

[# 情炎 おわり]