強談

「鉄――」
 と、言って、開けた格子から顔を出した男が
「居たか」
 と、土間へ入って編笠を取ると渋川五郎太であった。
「浅草のか。珍らしい」
「久し振りだ――甚三、入れ」
 格子の外へ振向くと、甚三が
「その後は」
 と、挨拶して、土間へ入ってきた。
「御無沙汰ばかりして」
「ふふ、いい儲け口がついたからのう」
「儲け口?――あるなら、乗りてえ」
「大口屋の用心棒になって、千両箱がつめるだろう」
「何の――兄貴嫌な事言うな」
「隠すな」
「多少知っちゃいるが――」
「まええ、今日はのう、大文字へ行ってお下げ渡しになった千彌を抱くつもりで来たが、何うせ、素直に、うんたあ言うめえ。そこで俺は一騒ぎしでかすが、何れ、大文字から助けてくれと駆け込んでくるなあ、ここより外に無え筈だ」
 渋川は、そう言い乍ら、じっと、鉄五郎の顔を見て
「その時、出てくれちゃ、貴公との仲だが、或はひょんな事で顔をつぶさなくちゃあ、ならん事になるかも知れぬ。一寸、そいつを、挨拶にきたんだ。もし貴公に不服があるんなら、ここで不服と言ってもらいたい」
 鉄五郎は、俯むいてしまった。渋川の言葉を拒むと命にかかわるし、拒まぬと大口屋の出入はとにかく、吉原の大店全部から、用心棒を断られるかも知れなかった。
「そいつあ、難題だ」
「そうだろう、飯の喰い上げになるからのう、然し、俺も、仲間の奴に、千彌は、俺が抱いてみせる、と、言ったのを反古にしちゃ、名が廃たる」
「尤も――」
「お主や、まかりまちがえば、俺の土地へ来ても、この出入で俺に譲ったと言やあ、立派な顔をして、八寸鉄五郎様だ」
 鉄五郎は、腕組をして
「ふむう。そりゃそうだが」
 と、いうより外に無かった。
(折角、上手に吉原へ取入って、根を張ったのをここで、召上げられては堪まらない)
 と、想ったが、四十近くなってきて、多少の分別のついてきた鉄五郎は、もう、十年前のように向うみずの喧嘩ができなかった。
「何うだ」
 渋川が、やさしく、だが、最後の言葉を切った。
「仕方あるまい――俺ら、これから、ここを留守にしておくから、その間に乗込むがよかろう」
「成程――こいつあ、うめえ智恵だ」
 と、甚三が手を打った。鉄五郎は
「仕方がねえ、とんだ用心棒だ」
「その代り、浅草へ明日でも遊びにきてくれ」
 鉄五郎は、立上ると、手拭で頬冠りをした。そうして、奥へ
「一寸、俺あ、堤へ出てくるからのう」
 と、怒鳴った。そして刀もささないで、鉄五郎が土間へ降りると、渋川が
「すまんのう、鉄」
 と、小声で言って、格子をくぐった。
「さあ、どうぞ」
 と、甚三が、鉄五郎を、渋川の次に出した。
「余り、ひどい事をするなよ」
 鉄五郎が、振向いて、小声で言うと
「大文字の出様一つじゃ」
 と、言いつつ、編笠をきた。

 表には、小さい柿色の幕が張ってあった。旗本の小袖川と、名札を出して、渋川は、登った。中格子を、小女に従ってくぐると、広い内玄関があって、年増が三人、手を突いていた。
 昇って右を見ると、広々とした台所に、磨かれた釜が五つ並んでいた。真直ぐに行くと、左手は店の間で、女の声が、外のざわめきが、襖越しに伝わってきていた。右側は、座敷らしく、襖のあいた部屋には、屏風が立ててあって、中から三味の音が、女の笑い声が聞えてきた。
 そうした部屋を、いくつも右手にして行くと、廊下は右へ折れていて、左側に中庭があって、その向うにも、座敷らしく、さざめき声がしていた。
 渋川は、その右側の座敷へ入った。その庭は、今通ってきた部屋部屋と共通した庭らしく、他の座敷の灯の影も、揺めいてうつっていた。
 座敷は、女の部屋で無いらしく、床の間に、高蒔絵した文箱が置いてある外、金屏風と、緋の毛氈だけが、華々しかった。
「ちと、望みがあるが――」
「はいはい、お名指しが、御座りましょうなら、名を仰しやって下されましょう」
「名指しを――でも、まあよいが。踊子から下げられて参ったのが居るのう」
「はい」
「それを出してもらい度い」
「かしこまりまして御座ります」
 年増は、正しく礼をして、引退った。
「甚三。もう人手がついておる」
「幾度も出たと見えるのう」
 渋川は失望をした。大口屋が、店出しを止めた、と聞いて、団七への約束もあり、自分の望みからも、無理を通そうと、意気込んできたが、こうすぐ承知されて、人の手をつけた後を追うのでは、おもしろくなかった。
「然し、いい邸だ」
 と、甚三は天井を、屏風を、唐紙を眺めていた。小さい女が、酒器を運んできた。そして
「一献」
 と、銚子を出した。
「千彌は、もう、幾人位、客をとったかの」
「千彌?」
 女は、じっと、渋川をみた。
「そら――踊子から、下げ渡されてきたのがおろう」
「存じませぬ」
「そうか、知らぬか」
 と、言った所へ
「御免下されましょう」
 襖の所へ、廊下外から、袴をつけた主人らしいのが、手を突いた。
「手前、大文字で御座りまする。よく、お越し下されました。小袖川様には、いつも御贔屓にあずかりまして、厚くお礼申しあげます。これを御縁にお引立て下さいまするよう――」
「入るがよい」
「はい」
 亭主が廊下から、膝で歩いて座敷へ入って来た。そして渋川から、盃をもらうと、小女が酌をして、すぐ立って行った。
「千彌が、お名指しとの事で御座りますが」
 盃を、渋川に返した。
「おお」
「あれは、暫く、出せませぬ事になっておりまして――」
 渋川は
(それで、わざわざ亭主が断りにきたのだな。亭主を呼べ、と怒鳴らなくっても、いい幸いだ)
 と、思った。
「何として?」
「さるお客筋から、身受けのお金をお積みになりまして――」
「拙者も積もう」
 渋川が、大きい声を出した。

「有難う存じまする」
 亭主が、丁寧に礼をした。
「何程じゃ」
「有難う存じまする。御存じの通り、この廓には慣らわしが御座りまして――」
「それは存じている。然し、千彌が、売物買物ならば、利分の多い方へ譲るのが、商売であろうがの」
「恐れ入りまする。所が、一旦、約束致しますと、ここで万両つんで頂きましても、変更えのできぬのが、この商売仲間の掟で、損な事も御座りますが、これが無いと、つまり、お金持が、何んな無体も押通すと――」
「拙者の申す事が無体か」
「いいえ、決して、左様な――」
「では、その客止めにした仁の名は?」
「蔵前の大口屋様で御座りまする」
「ふむ。その大口屋と、談合の上で、拙者に譲るとなれば、その方に異存は? あるか、無いか?」
それは、願ったり、叶ったりで御座りまする」
「よし、では、亭主、一筆、大口屋へかいてくれ」
「はい。と、申しますと」
「こういう客があるが、至急に、来て相談してもらえぬか、と、こちらは、小袖川の朋輩にて、旗本安西静馬と申す」
「はっ、お旗本で」
「それで、もし、大口屋が、御不在かなんぞで、参られませぬ節には」
「町人風情を対手に、いつまでも待つ訳には参らぬ。客止めなどと僭上至極な。元来が不行跡故に、踊子から吉原へ落とされたものであろう。それを庇って、客を止めるなど。お上の見せしめにした事が、見せしめにならぬではないか?」
「恐れ入りまする」
「不行跡を行った故に、諸人の弄み物として、その罪を懲らそうと申すのに、客を止めるなどと、不届至極では無いか」
「大きに、お尤もで」
 と、亭主が、叩頭をすると、甚三が
「貴公、惚れた弱身で、生のろくてならぬのう、亭主」
 と、呼びかけて、脇息を、前に置いて、その上へ両肘を突きながら
「拙者の兄は、南町奉行所へ勤めておるが、見せしめに下げ渡した女を、金の為に、客止めなどと申して、所望しても出さぬ奴がおると、告げて見ようか?」
「恐れ入ります」
「お上では、万事大目に見ているが、つつけば斯様の所は、いくらも埃が出るものじゃ」 「兄に告げて、一つ調べさせようか」
 これは本当であった。簡単な禁令が出ているだけで、下げ渡した女を客止めにしてはならぬという個条はその中に無かったが、役人の手心一つで、諸人に見せしめの為に、吉原へ落としたのを、客止めにして、操を保護する事は、明かに、下げ落とした主旨に背く事であった。
「まあ、よい――亭主、拙者がじきじき大口屋と申すのへ談合致す故すぐ参るよう、手紙を届けてくれい」
 渋川がこう言った時
「旦那様。一寸」
 と、小女が、顔を出した。
「一寸、失礼させて頂きまする」
 亭主が立上った。

「旦那、茶の間の客は、ありゃ、何んだとお思いで御座んす」
「さあ、わしにも、一寸腑に落ちん所があるが、身なりはよし、旗本と、仰しゃってたが、それにしては一人の方が品が無いし――」
「びっくりしましたよ、ちょっと、台所から覗くと――」
「誰だな」
「あれが、名代の一刀組の渋川五郎太でさあ」
「あれが?」
「だって、棟領、小袖川様の――」
「その小袖川の殿様ってのが、あの仲間の親分で、長坂だの、水野だの、植村善次、阿部四郎五郎、あのお上でさえ、一目置いている乱暴者だから――とんだ奴が、乗込んで来ましたよ」
「そうか――道理で、大口屋さんを、すぐ呼べのって――成る程」
「いい智恵が御座んすかい」
「金を包む外無いだろうじゃ無いか」
「十両以下じゃ、帰りませんぜ。それも、女つきで――」
「仕方が無い。十五両もつつもうか」
「あっしが持って――」
「いや、わしが出よう」
 亭主が水引の包を懐中にして、渋川の座敷へ引返した。
「使を出してくれたか?」
「何うも、お見外れ申しまして――」
「何?」
 渋川は、本体が判ったな、と思った。
「金を包んで来たのか?」
「何うも、恐れ入りました」
「馬鹿めっ」
 渋川が怒鳴った。
「金をもらって戻る時もあるし、命にかけて意地を通す時もある。見そこなうな、このたわけ者っ――千彌を出せっ」
 刀は、入口であずかってしまっていた。乱暴をしても、命に別条は無いし、鉄五郎もいるし、役人もいると、亭主は、周章てもしなかったが、下手に出て
「恐れ入ります」
 と、平伏した。
「幾度、恐れ入る?」
 と、甚三が怒鳴った。
「千彌を出せっ」
「千彌を、ここへ連れて参れっ」
 二人が、こう怒鳴った時、中庭の他の座敷の障子のあく音がして
「千彌に。用があるか?」
 と、大きい声で、呼びかけた人があった。渋川も、甚三も、暫く黙っていたが、甚三は、立上ると、中庭の障子を開けようとした。亭主が立上って
「もし――」
 と、止めると、渋川が、銚子をとって、亭主の頬から肩へ、酒をぶっかけた。
「じたばたするな」
 甚三が、今声のした座敷へ
「千彌に用がある。ここへ連れて来い。それとも行こうか」
 と、怒鳴った。
「用があるなら、そっちへ参ろう」
 渋川は
(大口屋では無い――侍らしいが)
 と、思った。
「草履か? あるぞ――怖い事は無い、参れ」
 という声が、小さく聞えた。
「もし、旦那様」
 亭主は、甚三の横をすり抜けて、跣足のまま中庭へ走り出した。

「いけません」
 亭主は、侍の袖をつかまえて、首を烈しく振った。
「離せ」
「いいえ、対手が悪う御座りまする。万一の事が御座りましては」
 千彌が、顫えながら
「お戻りなさりませ」
「よい、心配すな」
「対手が。旦那様、名打っての腕利きの、ごろつき浪人で――」
「ははあ、何と申すの」
「浅草の渋川と申します――」
「ああ―― 一寸、耳にした事もある」
 そう言い乍ら、二人の止めるのを、振切って、庭石を歩き出した。
「渋川?」
 と、千彌は、小さい声で言って
「殿様――」
 と、強く、振られている手を引いた。
「はははは、口ばかり強うて、上って来ぬかの」
 甚三が、灯をうしろに受けて、冷笑しているらしかった。亭主は走って、何っかへ行ってしまった。
「水城……」
 一人の侍が、座敷から顔を出して
「無礼者、打った斬ってしまえ」
 と、怒鳴った。
「面白い」
 と甚三が、それを聞いて叫んだ。千彌を連れて水城頼母が
「千彌を、連れて来たが、渋川――か、何んとした用だの」
 水城が、甚三の前へ立った。渋川は、坐ったまま
「こっちへ参れ」
「長坂から聞いた事があるが、貴公が五郎太か」
 水城は甚三に眼もくれ無いで、千彌の手を引いて、渋川の部屋へ上った。
「拙者は。御書院番水城頼母じゃ」
 突立ったままであった。渋川は下から睨み上げ乍ら
「その千彌に少し用がある。後刻挨拶仕る故、これへ置いてお帰り願いたい」
「はははは、わしも、千彌に用がある」
「何?――渋川の名を存じている以上――御書院番でも、大番でも無益の下の根を動かすと、その分にしておかぬぞ」
 庭石づたいに二人の侍が、づかづかときて、跣足で上ろうとした。甚三が
「これ――」
 と、一人の胸を押すと、一人がその手を掴んで、庭へ引ずり落した。
「何いしゃがる」
 と、甚三が、地の上で叫び乍ら起き上ってくるのを
「たわけっ」
 と、叫んで、渋川が、盃を、一人の侍へ投げつけるのと同時であった。
「あっ」
 と、千彌は叫んで、水城に、縋りついた。
「怖い事は無い」
 と手を肩へかけて、庭の方を振向くと
「手荒い事をすな」
 甚三の声はしなかった。二人が泥を払いながら、縁側に立って
「千彌、千彌と。そこへ水城氏が連れて参ったが、文句は?」
 と、渋川に行った。渋川は、坐ったままで
「はははは、首を気をつけい」
「何っ」
 と、叫んだ時棟領だの、若い衆だのが、七八人も廊下から入って来た。

「はははは、蛆虫が、揃ったの」
 渋川が、人々を前にして、片頬に、冷たい微笑を浮べて、盃を、ぐっと一煽りした。渋川は、自分から求めて大勢と喧嘩するのは不利だから、水城一人を対手にして――と、じっと一同の様子を見ながら、その機会を覗っていた。
「早く、何っかへ逃げてお仕舞い」
 千彌が、廊下へ出て来ると、婆さんが、口早に囁いた。千彌は、婆に振向きもしないで
「渋川の刀は」
 大文字屋の入口の右手にある、士の刀を預かる掛りの男に聞いた。
「刀? 何うするんで?」
「その脇差を――」
「持って行っちゃあいけねえ、渋川に渡されて堪まるものか」
「いえ、その脇差は、大口屋さんが、いつも差して来なさるのと、ちがうかえ」
 刀番は、刀掛から卸して、じっと脇差を眺めていたが
「おお、そう言や、そうだ。確かに、大口屋の旦那のだ」
「国行かえ」
「まちがい無し、国行ってんだろう」
 千彌は、黙って、廊下を、走って戻った。渋川のいる襖外までくると
「甚三を、ここへ連れて来い」
 と、渋川が怒鳴っていた。水城も、外の人々も、歴々の旗本が大勢がかりで、僅か一人の渋川を引ずり出しも出来ぬので、対手から手を出すか、役人が来て引出すかを、待っていた。その人々の中を掻き分けて、千彌が、前へ出ようとしたので
「千彌さんっ」
 と、棟領が、軽く叱った。
「ええ――」
 と、目で答えて、棟領の袖をすり抜けると、水城の横へ立った。水城がやさしく
「あっちへ、行っておれ」
「いいえ」
 千彌は、蒼白めた顔をして、首を振った。そして、じっと、自分を眺めている渋川へ
「渋川様――」
「うむ――何かの、いよいよ得心したか」
 渋川は微笑した。
「あのあずけなさんした脇差は?」
 渋川は、黙って、じろっと、千彌を下から睨みつけた。千彌はそれにかぶせるように
「確に、国行で御座んしょう」
 千彌が、何を言い出すか? 人々は、二人の顔を見較べた。渋川は、千彌から眼を離して
「うるさいっ――水城っ、甚三を、ここへ連れて参れ」
「卑怯者っ」
 千彌が、疳高く叫んで、一足前へ出た。そして、正面から渋川を見下ろして睨みつけた。大きい、きつい眼が、ヒステリカルにかがやいていた。
「えらいぞ、千彌」
 と、水城が、千彌の横から声をかけた。
「千彌さん――これっ」
 と、棟領が千彌のうしろで言った。
「渋川様――あの脇差の由来を、ここで申しましょうか? 浅草の渋川五郎太は、骨のある――、乱暴者でも、意地のある浪人衆だと聞いておりましたに」
 千彌の声は、興奮して、ぶるぶる顫えていた。
「大口屋さんの、客止めの向うを張って、一人で、吉原へ乗込んできた。その肝っ玉は見上げましたが――あの脇差は――」
 渋川は、黙って、じっと、千彌を見上げて睨みつけていたが
鋭く「千彌、よく申したな」
 と、言って、膝を立直した。水城が
「その脇差は、何んと致したのじゃ、申してみい」
「いいえ、妾とて、意地が御座んす。渋川様が、このままお戻りにならなぬなら、申しましょうが、おとなしゅうお戻りになるなら、千彌は、誰彌様の妹分、吉原へ落ちて来ても、妾はいい妹じゃと、思うております。よい事と、悪い事とは、敵、味方に拘らず、ちゃんと、分別して申します。渋川様お戻りになれば、舌が千切れても申しますまい、それとも――」
 と、いうと涙が出てきた。

「甚三を何うした。甚三を叩きつけて、引込む渋川か、甚三を連れて参れ」
 と、千彌に返事もせずに渋川が言った時、亭主が
「お連れ衆は、鉄五郎の所へお連れ申して、もう、すっかり、およろしゅう御座りまする。万事は、手前、お供致して参りまして、お詫び申し上げますから、この場は一先ず、お引取り下されますよう」
 と、人々の間から入ってきて
「水城様、何うか、あちらへ――」
 若い者は、亭主の眼を見て廊下へ出てしまった。水城の側にいた侍が
「誰彌の妹が、泣いて、何とするぞ、しっかり、しっかり」
「渋川様も、意地を売る伊達商売なら、妾も、い、意地を――」
「女郎の意地か――それを――」
 渋川が、微笑した。
「千彌、もうよい、対手にするな」
「はい、でもこうなりましたからには、二度と、姉さんに顔を合されず、この渋川様を、ここから出て貰うか、妾が斬られるか――死んでもよい身体で御座ります。覚悟はしております」
 と、言っている内に、千彌の眼から涙が溢れてきた。
「泣くな」
 と、水城が、千彌の肩へ手をかけた。
「千彌その度胸に免じてやろうわい。いい覚悟じゃ。その覚悟っ振りに、又、ずんと惚れたぞ。水城何れ逢おう。千彌を可愛がってやるがよいぞ。亭主、騒がせたのう」
「いえ――では、鉄の家まで御共を」
「よいわさ、その内に、もう一度参ろうのう、千彌」
 渋川は、冷たい微笑をして、悠々と立上った。亭主が
「渋川様、外の女になさいまし、ずんとよいのをお取持ち致しましょうが」
「いいや、大口屋と、水城を対手に、千彌を争うのは一段とおもしろい。千彌、その意気に惚れた。えらいぞ」
 渋川が上り口へ来た時、吉原会所の役人が
「渋川――」
 と、土間から声をかけた。渋川は平然として
「御苦労――惚れた女には、わしも弱いものじゃて」
 渋川が土間へ降りると、役人が小さい声で
「ここだけは、騒がしてくれるな」
 と、囁いた。
「何あに、一寸、虫の居所が悪くてのう」
「近頃、何か、うまい種は無いものかのう」
「何かほぜって、一手柄、その内に、立てさせよう。刀番、まごまごするな」
「へえ」
刀番が、渋川の大刀を出した。
「ええっ、脇差も早くせんか――供の刀は?」
「先刻、あちらへお届け申しておきました。――へへへ、中々よいお脇差で――」
 渋川は、いきなり刀番の頬をなぐった。そして、つつと、暖簾の外へ出てしまった。刀番が、小声で
「泥棒め」
 亭主が
「叱っ」
「だって旦那、あの脇差は、大口屋さんの御秘蔵の国行でげすよ」
「そうらしいの」
「本当にも、嘘にも、手前がいつもおあずかりして、ちゃんと、別に仕舞っていた刀でさあ」
「そうか――千彌めそれを知ってたのか――そうか」
「訴えましょうか」
「余計な――」
 女中が出てきて、矢鱈に渋川のあとへ塩を撒きちらした。
「やけに撒くぜ。お米、丁度お前が、白粉塗ったようだ」
 刀番がこう言うと、女は、刀番の頭から手早く塩をふりかけて、刀番が手を出すと同時に、奥へ走って入ってしまった。

[# 強談 おわり]

遊侠心

 通された所は、普通の座敷であった。小姓が、座蒲団を敷いて去ると、暫くして、五十位の士が一人
「待たせたのう」
 黒紬に、同じ袴――誰彌は、これが郡奉行の村越半兵衛であろうと思ったから、畳を滑って、平伏した。
 村越は、小姓のもってきた座蒲団へ坐り乍ら、平伏している誰彌の髪を、頸を、微笑して眺めていたが、茶を一口すすって
「誰彌と申すか、願いとは?」
「有難う存じまする、召捕になっております、安堂右馬之助様の事に就きまして――」
「安堂は、その方の何に当る? 亭主か?」
「いいえ、左様では御座りませぬ」
 誰彌は、両手を畳へ突いたまま俯むいて
「左様の方では御座りませぬ」
「その方は、何を致して居るな、家業は?」
「卑しい――踊子家業で御座りまする」
「踊子か――成る程――顔を上げてみい」
「はい」
「みせてみい」
 その声には、微笑みと、淫らさとが含まれていた。誰彌が、おずおずと――だが、奉行に、反感と軽蔑とをもって顔をあげると、じっと、その眼を凝視めていたが
「それで――その安堂を?」
「何ういう罪に相成りますか、一体何を致されましたのか――」
「人を殺さば、斬罪じゃの」
「はっ――」
 その声は、誰彌の口から出た言葉ではなく、驚愕した時の呼吸であった。村越は、微笑しながら
「助けたいのであろう」
「恐れ入りまする」
「その方のこれか?」
 と、村越は、親指を立てた。誰彌は、微に赤くなったが、首を振って
「いいえ。左様では御座いませぬ。妾の恩人で御座ります故。出来ましょう事なら、命だけは――それに、故無う、人をお殺しなさるような方では御座りませぬし――」
「その方の申し条を、某が聞くとしてじゃな、誰彌――」
 そう言って、じっと、村越は顔を眺めていた。奉行直々に逢ってやろう、と、玄関で聞いた時、誰彌は嬉しくもあったが、不安でもあった。家来の素振りからみて、自分のような踊子が珍らしさに、からかうのだ、とは、すぐに感じたし、女一人で、こんな奉行所の中で――とも思ったが、安堂を見捨てて戻る気にはなれなかった。
(何うにでもなれ)
 とも思ったし
(何うにかなる)
 とも考えた。そして、奉行が逢うてくれるのが嬉しいようでもあるし、逢って後の事を考えると、不安でもあった。人を殺した、とは道々も聞いたが、安堂は、それ以上には誰彌には話さなかったし
(何うした訳で、誰を殺したのか? 罪にはなるが死罪を免れる法はないものか? とにかく、奉行に縋って―― 一心に縋ったら、何んとか――)
 そう思っていたが、今の奉行の言葉の裏には、明かに(自分の意に従うか)
 と、いう意味が含まれていた。誰彌は
(操を破っても、安堂を助けるか? 安堂は罪を犯した以上、斬罪は仕方が無いのだから、自分はこのまま戻るか?)
 ちらつと、何うしようかと考えたが、安堂を棄てて戻る気は無かった。操を破らないで、安堂を救う工夫があるか、無いか、それを混乱した頭で、考えてみた。そんな方法は無いような気がしたが、こうして坐っている内に、奉行がふっと気が変って、安堂を救ってくれるようにも思えた。村越の声も、眼もやさしかったからであった。

「安堂の斬った対手は、拙者の、義理の弟じゃ」
「あの弟御様を――」
 誰彌は、人もあろうに、と思った。そして、村越の笑ってはいるが、役人らしい、角張った、厳格な顔を見ると、今言った
「その方の申す事を聞く代り――」
 という言葉が、自分にからかう為言っただけで矢張り、奉行は奉行として、法の前には罪人は許さないだろうと、胸が固く、圧迫されてきた。
「弟と申しても、永らく音信不通、たちのよくない奴ではあるが、それでも、人を殺した事にはちがいがない」
 誰彌は、奉行の、しめたり、ゆるめたりしている言葉の、何れを掴まえていいか、判らなくなってきた。
「その弟御様を、又、安堂様が何んとして――」
「訳か? ――詳しくは安堂を調べて見ぬと判らぬ――がそれより誰彌、田舎侍とて軽蔑したものでない。何うじゃ、今夜、伽を致すか」
 誰彌は、村越の微笑した顔から眼を外向けて
(そんな踊子とは、踊子がちがいます。田舎侍には、判らないだろうが――)
 と、口惜しい、悲しいものが、胸へ一杯になりかけてきた。そして
(矢張り、そうだった、これが此の人の本音だったのだ)
 と、思うと、あたりが、暗くなってきたが
「おからかいを――奥様が、何となさいます事か」
 と、微笑すると
「某は独身じゃでのう。何うじゃ、女房になる気は無いか」
 軽い口振りで、戯談らしく微笑んでいるが、その底には、本気らしい響きがあった。
「まあ、御戯談を――」
「戯談では無い、拙者も、郡奉行を勤める者、仮令、罪人の女房たりとも、他人の女には、指一本触れるでは無い。然し、踊子とあらば、売物、買物。そちの心によっては、元々遊び人足の喧嘩沙汰。安堂の裁きは手心一つで何う軽うも出来る。安堂が恩人ならば、その方に免じて、所払いか手錠で許してやりもできるが――拙者の意に従えと申しても、卑しくも、郡奉行の重職にある拙者。相当の手当は与えて取らす。何うじゃ」
 一々、村越の言う事が、癪に障った。
(何が郡奉行だい、お手当を取らす?)
 と、叫びたかったが、じっと、俯むいてた。
「この辺には、そち程の器量好しはまずあるまいのう」
(江戸にだって少のう御座んすよ)
 と、腹の中で、叫んだ。
「手当は、何程取らそうかの――新吉原では、太夫が一両二分かの。踊子と申すと――太夫よりは落ちるか――何うだの――」
 江戸の寄合衆の席で、田舎侍が、もし、誰彌にこう言ったなら、誰彌は、横面を叩いて、ぷいと立上ったかもしれなかった。物も言えない口惜しさと、悲しさとを、じっと耐えて、うつむいていると
「あの男が亭主なら――隠しておるのであるまいの、偽りであるまいの」
「はい」
「亭主持なら、これからすぐに、江戸へ帰るがよい。郡奉行として間男はならぬ。然し、踊子なら、伽を致すが家業であろう。働いて金が儲かって、男が助かって――はははは、よい事が重なり合っておる、何うじゃな――変事せぬか」
 口惜しさが、だんだん胸から、頭まで一杯になってしまった。何か、大声で怒鳴りたかったのだが
(安堂様、牢屋に)
 と、思うと
(ここが大事――でも、こんな男に、身体を任せて、安堂様に知れた時には?――それが、安堂様との別れ)
 と、思うと返事ができなかったし――何うしていいのだか、頭が、熱くなってくるばかりで、誰彌には判らなかった。

「御奉行様は、助平であらせられる」
 玄関にある小者が呟いて
「あの面をみるとふらふらするのう。世の中には、別嬪もあるものじゃ。眼が千両、鼻が九百両、声が八百両」
 と一人に言った。
「さ、その声が、素敵、めっぽう色っぽいの。ここへ入ってきて、只今の罪人の身寄りの者で御座りますが、御奉行様に、お逢わせ下さいませ、と言った時にゃぶるぶるとした」
 こう言い乍ら、一人が誰彌の脱ぎすてておいた草鞋をつまんで一人の小者の顔へ、ぺたんんと当てた。
「有難く頂け」
「ぷっ――この馬鹿っ」
「手前なんざあ、尻もしゃぶれねえから、草鞋でも、しゃぶりゃあがれ――」
「こん畜生っ――手前こそ、頂いて――」
 と、一人が草鞋を、頭へぶちつけた。砂と、土とが飛んだ。
「わあ――っ。今日、結った髪だ、又嬶に叱られる」
 一人が頭をかいて逃げ出した。その足音と、叫び声が騒がしくなると、詰所から
「誰だっ、騒ぐのは?」
 と若侍が出てきた。小者は、頭を押えながら
「ついね、井沢様。今頃、奥では――これで御座んしょう」
 と、小者は、小指と、親指とを合せて見せた。
「馬鹿っ」
 と、若侍が笑った。
「羨ましくなって、せめて、この草鞋でも抱いたらと、井沢様――いい匂が致しますぜ」  と、侍の顔へ、草鞋を突きつけた。
「馬鹿っ――騒々しいと、すぐ御小言が出るぞ、まして、只今は――」
「こっそり、一つ庭から――」
 と、一人が芝居がかりの足つきをすると
「可内っ、つづけ」
 と、一人が、仮色を使って、手を振り、足を上げて芝居の真似をした。
「色好きだからのう、殿様も――然し、あの女、今の牢人の何んだろう」
「判ってらな、情婦さ」
 と、云った時、一人が
「誰だっ」
 と、怒鳴った。門から玄関の方へ少し入ってきていた一人の頬冠りをしていた男が、急ぎ足に出て行った。
 三人が、その方をじっと見送って
「変な奴――引捕えましょうか」
「百姓の戸迷いであろう」
 と、言った時
「井沢、何か用事を拵えて、一つ書院へ参ろうではないか」
 と、別の一人が、詰所から玄関へ出てきた。
「何か、いい思案が無いかのう」
 そう言いながら、二人が、玄関から、詰所へ入ると、七八人の同心下役が、笑い乍ら 「うっかり参ろうなら、何しに参った、とやられるから、まず、襖の外から――何か御用は?――これも拙いな。用があれば呼ぶっ、とやられる。誰じゃ、貴公は?吉田で御座ります。大たわけ――はて、何か、よい智恵が――」
 一人が、自分一人で科白をやりとりして、首を振っていた。他の一人は
「気がもめる、気がもめる」
 袴の下へ手を入れて、身体をぶらぶら左右に振っていた。
 他の一人は
「障子へ、穴を開けるか。床下へ忍ぶか外に手は無い」
 と、言った途端、からからと、書院から人を呼ぶ、鈴が鳴った。二三人が一時に
「某が参る」
「いや、拙者」
 と、立上った、
「こと細かに見て参れ」
 と、一人が叫んだ。

「おぅ――小松屋、宅にか」
 子分が顔を上げると、浴衣一枚で、曳船屋吾兵衛が立っていた。子分は、周章てて立上ると、刀を握って
「何をっ――」
「騒ぐなっ」
 吾兵衛は、刀を鞘ぐるみ抜き取って、柄の方を差出して
「そら刀は渡すぜ――小松屋のに、一寸、頼みてえ用があるんだ。手前っちは取次ぎあ、いいんだ」
 そう言い乍ら、畳の上へ、刀を置いて
「水を一杯、振舞ってくれえ。咽喉が干いた」
 吾兵衛は、喧嘩腰の方の子分に背を向けて、平然と腰をかけて、草鞋を解いた。気色ばんで居た子分は御互に何か囁くと、一人が奥へ入った。
「水をのう」
「今、汲みに行った」
「有難てえ」
 脚絆を払っていると
「曳船の」
 と、出てきたらしい紋七の声がした。曳船屋が振向いて
「おお、紋七、今日は、吾兵衛が、お前に、頭を下げて、頼みに来たんだ」
「まあ上んねえ、聞こう」
「そうか、聞いてくれるか」
「何うなすったえ、あれから――」
 吾兵衛が上ると、紋七が
「腰の物を――」
「いいや、あずけて置こう」
 紋七には、何故、曳船がきたか解せなかった。ただ、吾兵衛に何の害意も無いだけは判っていた。
 座敷へ座ると
「水だ、曳船の」
 と、一人の子分が、突立って、湯呑を出した。
「よい来た」
 と、吾兵衛は気軽に、湯呑をとって、紋七の前へ坐ると、一息にのんでしまった。
「実はのう――あの浪人だ、ありゃ安堂って人だ」
「ふむ、それが何うしたえ」
「二人で、逃げた――逃げた話は長くなるが、安堂の叩き斬った奴が奉行の弟だ。仕方がねえ、すぐ追手がかかったから、家も、何も、あの体で逃げた。湯宿の松吉のう――」
「うむ」
「あいつの密告で、逃げたが、安堂ってのは、そら、温泉、法師温泉ってので、引っつらまっちまった」
「成る程」
「斎人を斬ったのは安堂だが、お前、喧嘩の張本人は、わしだ。それに見す見す浪人一人だけを捕げさせておいて、わしは、のめのめ逃げちゃ居られめえ」
「待った、曳船の。お前の気性として尤もだが、御前が名乗って出た所で、浪人が助かる訳じゃねえ」
「それゃ、言われ無くっても、百も承知してらあ。ま、聞いてくれ。黙っての。今日は、おらあ、恥を忍んで、お前に力を借りにきたんだ。借りられる義理でねえお前の力を借りたいんだ。と言うなあ、あの浪人に女がある。それが、江戸から、あいつを慕ってきて、あいつが手先に引かれて行く道で、ばったりあったのだ。それを見ていたのが、千成の吉だ、吉がつけて行くと、女も、奉行所へ入った。玄関からのう。村越って奴あ、名代の女好きだ。吉め、いろいろさぐっていると、何うだい、紋七、奉行が、女に、言う事を聞きあ、安堂の命だけは、助けてやろうと、こう言うんだと、詰所の奴等の喋っているのを聞いたんだ。何うだ、小松屋、俺は、今日限り、此土地を一生売っちまって、江戸へ出てもよいし、今夜限りお前に首を渡してもええが――ここで、一つ、子分を二三人貸してくれめえか。女と安堂を盗み出して、村越を叩き切って、俺ら、その場で腹を切るつもりだ。安堂は、俺の為を思って乗込んでくれたのだし、村越の奴は兄弟共、人間の風上に置けねえでねえか、こうして、手を突いて、お主に頼むが、聞いてくれるか? 斬るか、それとも、このままふん縛って突き出すんなら、それでもええ」
 吾兵衛は、一気に喋べり終ると、畳の上に両手を突いて頭を下げた。

「おいっ」
 紋七は、襖の所に坐って曳船の話を聞いていた子分らへ声をかけた。
「この事は黙ってろ」
「ええ」
「曳船の、手を挙げて――」
 紋七は身体を伸ばして、吾兵衛の手をとって膝へ上げさせると
「承知した。いつも乍らのお前さんだ。村越の弟は、こんな家業へ入る碌で無しだが、兄貴は見上げたもんだと、感心していたら、矢張りそうか」
「人間にゃ、好き好きがあって、色好みもええし、この道ばかりは別だが、村越って奴は、平常からよくねえ」
「うん、女中をつまむ位ならええが、それで罪人を許すの許さぬのと――人の女房を取って奉行が勤まるけえ、よう揃うた兄弟だ。それで、その奪い返す手立は?」
「さあ、一応は、お前、村越に逢うて様子を見てくれぬか」
「そうだ、噂だけでは信用ならんからの」
「そうとも――」
「やいっ」
 次の間から
「何んだい」
 と、女の声がした。
「着物出せっ」
「あいよ」
「今すぐ行ってくれるか」
「善は急げだ――そして、その女は、安堂の女房かい」
「そうだ」
「見たか」
「うん」
「別嬪か」
「まあ一寸、江戸にも類が少いのう。大きい眼の、利口そうな、深い二重眼瞼で、お前、じと見つめられると、ぶるぶると――」
「おうおう、お前が惚れて、奪い取ろうってんじゃねえのかい」
「まさか――こじんまりとした、色の浅黒い」
「もう判ったよ」
 と、言った時、紋七の女房が、出てきて、
「お久しゅう」
 と、挨拶して
「此の間は、とんだ事で、宿のも、意地と、腎だけは、張りっ通しで、又何か、よい女子でも御座んすか」
「馬鹿野郎――」
「こんな家業同士で、いつ何うなるやら――お前さん、褌はそのままかえ」
「喧嘩に行くんじゃあねえ」
「女の所へ行くんなら、猶更――」
「こん畜生、すぐ、小耳に挟んで、やいてやがる」
「はははは、仲のいい事だ、死んだ、俺の女房なんざあ――」
 と言った時
「曳船のを、鄭重にしてのう、風呂を立てて」
「女でも呼ぶかね。そりゃそうと、曳船の親分、お宅にいた千代野って女子が、さ、子分の、そら、仁蔵って――」
「ああ、それなら、知ってるよ。こちとらと出入があるって話を聞いて、千代野が一晩泣いていたが――」
「ここへ、引取って――」
「そうかい」
 紋七は、脇差をとって
「じゃあ――千公、供をしろ」
「へえ」
「すぐ戻ってくらあ、うめえ物を見ておきな」
 紋七は、子分に見送られて、すぐ出ていった。吾兵衛が
「いろいろと、かみさん、済みません。いい親分だ、俺ら、誰彌より惚れ込んだよ」

「親方も、いい気なものだのう」
 子分は、店の間で、吾兵衛と、紋七の事に就いて、噂をしていた。
「俺らの生命をかけさして、喧嘩するかと思えば、野郎が一人で来たのに――」
「一人で来たから、黙ってるんだ――」
「だって――」
「手前、親分の気性を知らねえな。何年、飯を喰ってやがるんだ」
「そりゃ判っているが、敵じゃあねえか」
「鳥も懐へ入ったら、猟師も殺さんって事を知ってるけえ」
「そんな大きなものが、懐へ入るか」
「入らぬから、昔の学者が、そう言ったんだ」
「鳥じゃあねえ、窮鳥だ」
「窮鳥?――そんな名の鳥が世の中にあるけえ」
「窮鳥って、羽が七色で、可愛らしい鳥だよ。俺の田舎によくいらあ」
「何処へ行ったんだろう、親方は――」
 夕方になって来たので、下っ端が、水を汲んだり、街へまいたり、掃除をしたりした。女房は、吾兵衛に、食事をすすめたが
「こっちのが戻ってから――」
 と、酒ものまなかった。
「子分等が、わいわい言うから、とんだ事に成りかけたが、こうして、しみじみと逢うと、当節には珍らしい親方だ」
 と、吾兵衛は笑った。
「宿も、いつも噂をしては、褒めていたのに、どういう魔がさして、あんな喧嘩をしようとしたのか?」
「久しゅう逢わぬうちに、いろいろな事を言ってくる奴があったので、いけなかったのさ。水をさすって奴さ。そこで、下根の悲しさで、逢えばこうしてすぐ判るものをのう」
 と、言っている所へ
「お帰んなさいまし」
 と、子分の声が、いくつもした。女房が立って行った。吾兵衛が、店の間の所まで出迎えると
「噂の如く、正に正明、まちがいなし。とんでもねえ野郎だ」
 と、紋七が笑い乍ら入ってきた。
「忙しいのに世話をかけたのう」
「女にも逢うた。成る程別嬪だ」
 女房が
「誰の女子だえ」
「きまってらあ、俺の新色だあ」
「おや、又、一疋拾ったのかえ」
「所で――曳船の、何うする?」
「肚はきまっている」
 女房が、膳をとりに行くと、紋七は
「俺も手伝おう、間取りから、何から、ちゃんと見てきた」
 と、紋七は、口早に言った。
「そいつあいけねえ」
「何うして――」
「それなら、頼まねえ」
「お主を、出し抜いて、何うかと思うたが、女に、それと無く、力を落すなと、言ってきた。判ったかしら――すっかり覚悟をしているらしく、白粉までつけてのう」
「まだ、安堂は許してはいめえ」
「うん」
「もしかしたら、安堂を出さず、女は手に入れようって寸法じゃねえか」
「さあ、そうかも知れねえが――だとすると、野郎、大部に悪だぜ、打った斬るより外に――」
 と、言った時、女房が膳を運んできた。二人は、黙ってしまった。そしてお互いに
(あの二人の夫婦を助ける為に、この二人の夫婦が犠牲になるなど、勘定に合わぬが、これが、男伊達の筋道だ)
 と、思った。紋七が
「久し振りだ、酌をしいしいお前ものめ」
 と、盃をとった。

 誰彌は、庭木戸の所へ立った。そこから、門がよく見えた。村越は、誰彌の背後に立って
「今に出て参る」
 誰彌は、震える手で、庭木戸の柱を掴んでいた。
「余程、好きな男と見えるのう。出て行く所を見ぬと、うんと、言えないなどと――中々喰えぬて、その手で、一つ、某も、欺されようかの」
 安堂が無事に門を出て行く姿さえ見せてくれたなら、一夜妻の勤めをしよう、と言って、その決心はしたが――
(もし、こんな所を安堂様が、御覧になったら――)
 誰彌は、張りつめた心で、涙は出なかったが、悲しさと、口惜しさとが、胸の底に、鉛のように重く沈んでいた。
 玄関の方に物音と、足音とがした。
「今、刀を受取っている。もう、すぐに、見える」
 誰彌は、木戸の蔭へ、身体を引いた。
(ここに居ります、誰彌は、身体を生犧にして、お前様を助けます、この心を察して下されませ)
 と、叫びたかったが――こうして、黙って苦しさを堪えていることが、右馬之助の生命を救うことになるのだと思うと、心も、身体も顫えて
(ほんの少しでも、察して下されば、それで本望――)
 と、神へ、仏へ、祈るような気持になってきた。
 塀の蔭から、仲間が一人現われた。誰彌は、はっとした。仲間が、振返って、何か言い乍ら、歩き出すと、すぐ、士がつづいて現われて、その後方に、安堂が――
(何う、妾の事を考えているのか?――玄関まで無理について入ってきたのは知っていなさるだろうから――きっと、追払われて戻ったと考えていなさりましょう――誰彌は決して、貴下をすてて戻りは致しませぬ。貴下へ、と決めた操を破っても、お命をお助けしたさに、ここに忍んで、御無事なお姿を、見届けております。江戸へお帰り下さいませ、すぐに戻ります。こうして操を破った事がいけないなら――諦めます。いいえ、もう、諦めております。こうなった上は、添おうとも思いませぬが、せめて、この心を思いやって――)
 こんな言葉が、頭の中で、閃いている間に、安堂は門の方へ、役人に送られながら、出て行った。誰彌は、背延びをしたり、木の陰になると、首を曲げたりして、その後姿を眺めていた。
 安堂は、門の所で、役人に軽く礼をすると、左右を見廻した。
(妾を――もしか、探しているのでは)
 そう思うと
(早く江戸へっ――妾も、明日は――)
 と、叫びたかった。無事にここにいる、心配しないで、江戸へと――言いたかったが、姿を、顔を出せば、何の為に、村越と二人で立っているか? それの判らないような安堂でも無かった。
 誰彌の涙は、いつの間にか、安堂の姿を、ぼんやりとしか見えなくさせてしまった。誰彌は、その涙を拭いて、村越から見つけられるのが嫌であった。頬を流れるままに、安堂の後姿を眺めていた。
「あっ」
 誰彌は、顔を引いた。安堂が、こちらを向いたのだった。それは、ほんの一瞬であったが、安堂が、誰かに
「女は?」
 と、聞いたのに対して、誰かが
「ここの奥にいる」
 と、答えたらしく、その答えによって、安堂が、怒りと共に、振向いた眼であった。誰彌は涙のまま、村越の袖の横を、走って入った。

(誰彌が、奉行所の庭に奉行と二人で――)
 安堂は俯むいて、眼の中に閃いた怒りを人に見られまいと、すぐ、歩きかけた。
(格別の慈悲にて、お構い無し、当日の内に御領内を立退くよう、と――それは、誰彌が村越に、身体を任した証拠だ)
 そう思うと、全身の血が、顫え乍ら、逆流してきた。頭の髪の先まで、怒りが充ちてきた。
(誰彌のわしを救おうとしてくれる志はよく判る――然し――)
 右馬之助は、誰彌を、気立のいい女とも知っていたし、多少、惚れているとも感じてはいたが――大口屋と遊んでいても、寄合茶屋の、いい男の士の話を聞いても、別に嫉妬の起った事は無かった。
(全盛の踊子と、痩浪人)
 と、諦めていた。誰彌が、親しそうに話をし、打明け話をし、家業の辛さを話し――恋のある眼、色の匂う態度をしても
(こういう家業の女の事故――)
 と、解釈して、それが、自分への愛情の表象であるとは、考えた事も無かった。だから嫉妬は起らなかった。然し、誰彌が、ここまで自分を追ってきた気持ちは?
(奉行所へまで駆込んだ心?)
 もしかしたら?――と、思うと――村越の腕の中に、心を悶えながら、じっと、眼を閉じて、その制御のままになっている肢体を想像すると、――颶風のような嫉妬が捲き起ってきて、頭の中が、熱くなってきた。
(自分は誰彌に命を救われた。然し、誰彌が、他人に身体を任せる事は――わしが、このまま死ぬ事よりも辛い事に違いない。それが、皆、この自分の為にしてくれているとしたなら?――武士としてこのまま、ここを去れるか、立去れぬか?――)
 奉行所の人数、間取り――そういう事を考えて、振向くと、街道には、百姓が二三人いるだけで、奉行所の柵越しに、庭が――内塀が、静かに見えていた。
(あの屋根の下に――誰彌は、今頃、何をされているか?)
 夕日が、落ちかけていた。安堂は、村越を憎むと共に、誰彌が、心の底から不憫となり、骨の髄の中から慕わしくなってきた。佇んで、刀の柄をじっと見乍ら
(自分が救われて――人を救わぬという法は無い。いいや自分が救われないでも――誰彌は、救われなければならぬ――太陽が落ちたなら――)
 安堂は、空を眺めたが
(夜に入らないでも――誰彌の操は、危い。すぐ――)
 安堂は、二足三足行きかけて
(周章ててはならぬ。村越への嫉妬から――浅ましい、嫉妬などと――誰彌の操が、今更破れたとて既に、破った操では無いか? 仮令村越の為に破られようとも、それで、誰彌の心が変ろうとは思えぬ。本当の操は、心でないか? 周章てて、斬込んで、二人とも捕えられては、誰彌の苦心が水の泡になる、何れ江戸へ戻るであろう。戻って、話をして慰めてやったなら――そうだ)
 安堂は、俯むいて、又歩き出した。だが、すぐ又じっと、佇んだ。
(いいや――操は、とにかくとして、誰彌はわしに会うまで苦しいであろう。その苦しさを、一刻も早く助けてやらなければ、そうだ――忍び込むなら、少しも早くに――)
 安堂が、佇んでいると、奉行所の門から、二人の下役が出てきた。安堂はそれを見つけて (今、咎められては――)
 急いで歩き出した。安堂の姿を見た二人は
「何故、早く行かぬかっ」
 と、叫んで早足にこっちへ来た。安堂も、早足に歩き出した。そして
(場合によれば、斬ってすてて――)
 と、覚悟した。そして心の中で叫んだ。
(誰彌――本当の男は、女の意地と、人情とへ、その十倍のものを返すぞ。わしは、命をすててもお前を助けるぞ。本当の男の力を見てくれ。本当の女の心は判った。今すぐわしはお前を助けに行くぞ)

「その方、御慈悲を何と心得る」
 安堂の後方で、近づいてきた役人が、怒鳴った。安堂は、振向きもしなかった。
「これっ」
 役人が肩を掴んだ。太陽が、落ちない真昼間、二人を斬るのは、安堂にとって不利益であった。
「つい――」
 静かに、振向いて笑った。
「奉行の仰せによって、本庄外れまで、護送して参る。
(さては、用心したな)
「急がぬと日が無い。早く歩め」
「急いでも、夜中に成るであろうが――」
「黙れっ、黙って、急げばよい。迷惑至極な事じゃ」
「恐れ入りまする――村越様の代官所は、可成り大きゅう御座りまするが、矢張り十七八人も、詰めて居られますかな――」
「聞いて、何と致す」
 一人が
「代官所としては、水戸と共に、東国一番じゃ」
「左様で御座りましょうな」
 三人は、だんだん傾く日の下を埃を上げて急いだ。役人が、前方からの人影をみて
「紋七――らしいが――」
 と。一人が呟いた。安堂は
(運がつきた)
 と、身体が固くなってしまった。
(ここで、紋七に見つかって、斬り合になれば、誰彌を救い出す事は、できなくなる。と、言って、逃げる事もできない)
 そう思うと、何うしていいか?――紋七の一行は然し、どんどん近づいてきた。そして、紋七は、安堂へ、見向きもせずに
「旦那っ」
 と、軽く役人へお叩頭をして
「この浪人衆は、召捕ったので御座んせんかい」
「うむ、召捕ったが少し訳有で、許したのじゃ」
「訳とは?――」
「紋七、お上の御処分を、とやかす申すと、為にならぬぞ」
「めっそうな」
 紋七は笑った。安堂は、何故、笑ったか、子分が、何うして仇敵の自分を見乍ら黙っているのか――判らなかったが、誰彌の事を思うと
(紋七と刀を抜き合さないで、このまま、無事に済むよう)
 と、祈った。そして役人の紋七に恐れぬ態度の強さに、一寸、感謝したくなってきた。
(この小役人共を叩っ斬ってしゃろう、と思っていたが、二人は、悪人ではないのだ、ただ、役目大事に勤めているのだ)
 と、すまぬようにも思えた。
「はははは、お奉行の為さる事に紋七などが――然し、御浪人衆。お前さん、このまま江戸へ行きなさる気か」
 紋七が、安堂を見た。柔かい眼には言外の好意の意味が、含まれていた。安堂は、それを感じたが、紋七が、敵である自分に対して、何故、そういう事を聞くのか判らなかった。それで」
「さあ――」
「旦那方、こちらを、国境まで送るつもりかな」
「左様――」
「手間取らせんが、俺ら、一寸話てえ事があるんだが――」
 紋七は、そう言って、役人を見乍ら
「俺の敵だあ、逃がしっこねえ、一寸、内密で、怨みを言いてんだ。旦那、只じゃ、無理は申しません、一寸、見ぬ振りを、な」
「では、その松の所で、話すがよい。長くかかってはならぬぞ」
「浪人衆、一寸、顔を――」
 と、紋七が、意味のある眼で見た。

一〇

 松の木蔭の叢の中へ、連れて行った紋七は
「びっくりしちゃいけねえ、曳船のもいるんだ。あの家の中にかくれているんだよ」
 と安堂に囁いた。
「お前さんの女を、抱きとって、その代りに、お前さんを、お構いにしようってんだが、このからくりは御存じかい」
「うむ」
「知っている?――うむ、それでこのままのめのめと、お前さん江戸へ行きなさるかい」
 二人は、人から離れて立ったまま、顔を近づけていた。安堂は、喧嘩の対手方である紋七に、よし曳船屋が、その間近の道側の草の中に、しゃがんでいるにせよ、何の程度に、信じていいか、判らなかった。
 曳船屋も、紋七も、信じていい男ではあったが、
(自分は、これから引返して、代官所へ斬込むつもりだ、それで、この二人の役人を、何うしようかと考えている所だ)
 というような事を打明けていい人間だとまでは、信じられなかった。然し、遊び人風情に「のめのめと、女をすてて逃げ戻るのか」
 と言われて、そうだ、とも答えられなかった。
「時によっちゃ、お前さんを斬りもすりゃあ、殺しもするが、それはな、御浪人、遊び仲間の意地によってだ。江戸のやくざは何うか知らねえが、上州の長脇差にゃあ、たった一つ、悪い奴をやっつけるって――これが、自慢だ。さあ、あっしらのうしろにゃ、新田新太郎様って――御存じだろうが清和源氏の嫡流だ。徳川家が、新田から出た源氏だから、この新田様が、総本家さあね。公方様さえ手がつけられんというこの新田様が、ついていて下さるんだ。さっき吾兵衛がきて、これこれと、言われりゃ、仇敵同士の間柄でも捨てておけねえのが、わしの気性だ。お前さんも、お前さんの女も助けてやろうと、実は、ここまできたんだが、お前がのこのこ江戸へ戻るんなら――ええと、まあ、仕方がねえが女は、この紋七が、命にかけて江戸へ逃がすからね。この辺で、じっと、女を待ってるがいいや」
「この役人は?」
「訳やねえ」
「斬るか」
「こんな下っ端を――そんなことより、お前さん、吾兵衛どんに、一言、手を突いて礼を申しな。出来ねえことだぜ。これで、曳船の縄張りはめちゃめちゃで、二度と、此処では、あっしに頭が上がらねえが、それを上げねえつもりで、お前さん方を救ってやろうってんだ。手を突いて謝罪りな」
 吾兵衛は、もう、薄暗くなってきた道傍の小屋の中にしゃがんで、役人に見られるのを避けていた。安堂は、その横へ近づいて行って、入口から
「忝い」
 と、低く言った。吾兵衛も、低い声で
「何にい、乗りかけた船だ。紋七はいい男だ。しっかり、礼を言って置きなせえ」
「実は某も、斬込む所存じゃ」
「いいや、あっしらに任しておけばいいんだ。そっと、抱上げてもってくるから――斬るの、突くのは、どたん場の時だ。お前さんは本庄で、ゆっくり茶でも飲んで――」
「いや――」
 と、安堂が言った時
「そろそろと――」
 と、役人は、紋七に催促した。
「御苦労様」
 紋七は、人知れぬよう、紙包を、役人の手へ握らせた。そして
「吾の字、そろそろと行こうぜ」
 吾兵衛は、頬冠りを深くして、乾分の中へ混れ込ん出てきた。

一一

「安堂、行け」
 一人の役人が、安堂の側へきたその刹那――板のように固く延びた安堂の掌がとんと、役人の脇腹へ当った。
「うつぶつ」
 当てられた所を押えようとして、途中まで手をもってきたが、それよりも早く、気を失ってしまって、たたっとよろめいた。誰も、安堂が、当てたとは思わない位の早業であった。 「何とした」
 当身を喰ったとは知ら無いで、紋七の方へ向いていた一人が、振向くと、安堂が、微笑して
「御免」
 役人が身体を躱そうとしたが、同じ当身に
「うぬっ」
 と、叫んで、顔を顰めながら、それでも逃れようと、身体を捩るか、捩らぬかに、呼吸が、ぐっと詰ったらしく、眼を上づらせて、よろめいた。安堂は、倒れようとする役人の身体を、片手で支えて、笑いながら
「このままにして縛っておけば、夜露で、息を吹返そう、何か、縄が――」
 子分の一人が
「縄なら、お手のものだ」
 と叫んで、役人の懐へ手を入れた。
「ちげえねえ」
「早業だなあ、何うどえ、えいっ」
 一人の乾分が、側の友達の脇腹を突いた。
「痛え、この野郎、本気に撲りゃがった」
 いつの間にか、太陽がすっかり落ちてしまっていた。子分は、二人を縛って、道から離れた、叢の中へ担いで行った。
「片づいたら参ろうか」
 紋七は、じっと、安堂の顔を見乍ら
「やんなすったねえ。斎人を斬った腕といい一流の達人だよ」
 首を振って感心した。
「お二人は、外で、お待ち願いたい。拙者一人にて、忍び込み申そう」
「戯談じゃあねえ、一人や二人で安堂さん、いくら強くったって――」
「いいや、いささか、聞き覚えの忍びの術の心得もあり、御心配御無用。もしもの時には、合図仕ろうから、その時、御加勢お願い致したい」
「忍びの術って、どんな事をするのかね」
「まず、邸の模様を知る事。これは、拙者只今まで捕らえられていてほぼ見当がつくが、次に、足音を忍ばせ、呼吸を忍ばせ、一尺行くに、半刻かかっても、敵に悟られぬ――まず根較べの様な事じゃ」
「ぱっとこう、木に化けたり、石に化けたりは出来ぬものかのう」
「隠形の法は、仮令えば、懐中へ白い浴衣を忍ばせておいて、暗中、敵に追われると「それを、躑躑樹へでも、投げかける。遠目には、人が倒れたかのように見えるから、それへ追手の注意が集まった瞬間、右手の叢へ飛び込んでかくれる、と、まあ、こう言ったものじゃ」 「成る程、人間が木に化けられる道理は無いからのう」
「化けはせぬが、立木の深い所など、走り乍らに、鉤縄を投げて、一跳に木の上へ登る早業などは致すのう」
「じゃあ、一つ、塀を越える所から、お手並拝見しようかの」
 一行は、話しながら、代官所へ近づくと、人目に立たぬよう、細い、暗い道から、裏手へ廻った。安堂が
「この柵を二本、出入口として、切取って――上も下も切口を斜めに――中へ入って、元のように継いでおくと判らぬから――中の塀の板は拙者が切り抜く」
 刀を柱へ凭せかけて、鍔へ足をかけると、柵の上へ手を届かせて、身軽に柵を越えてしまった。

一二

「未だで、御座んすか――殿様が、お待ちなされますのに」
 女中が、尖った声で、湯殿の戸を、細目に開けた。
「只今」
 薄暗い灯の湯殿の中で、冷たい白粉を掌に解いたまま、誰彌は、唇を噛んで、泣いていた。 釜の下に、ぱちぱち薪の音がして、時々、風呂焚きの草履の音が庭に聞こえた。誰彌は、せめて、少しの間でも長く、ここに、こうしていたかった。
 七八年の昔、初めて、男を知らなくてはならぬ夜、矢張り、こうして暗い風呂で、襟白粉をしたまま湯気の中で、泣いていた事が、想い出された。その時は、実の父母を恨み、その家のお婆さんを恨み、その男を恨み、自分の運命をまで恨んだが、今恨むものは、村越だけであった。
(女って――踊子って、いくど、こんな辛い思いをしければならぬのであろう。ようよういくらか、自由が利いてきて、嫌な客へは出ないで済むようになったと思ったら、こんな所で、こんな事で、――安堂右馬という好きな男が無いなら、諦めて、一夜の我慢もできぬ事はないが、契ろうとする男がいるのに、その男の命のためとは言いながら、操を破らなければならぬとは――そして、それが、その男の命に代る?――安堂様は、何も知らずに、今時分、何処を歩いていなさるかしら?――)
 誰彌は、風呂の入口に脱ぎすててある着物を着て、窓を破って逃げようか、と、四辺を見廻した。
「女まだか」
 と、男の声がした。湯殿の入口に待っている女が
「ほんとに長い――何うなされました」
 と、又、戸を細目に開けた。男が、その隙から
「強う、念を入れておるの」
 と、眼を覗かせて笑った。
「閉めて」
 誰彌が、睨んだ。そして、指で白粉をといていると、涙が流れてきた。
(こういう家業さえしていなければ、代官だって、こんな無法な事はなさるまいに――いいや、こういう家業であったから、安堂様が救えるのだ――いやいや、こういう家業をしておればこそ、女の命の操をやすやすと、代官などに売る気にもなったのだ、矢張り、魂まで汚れてしまった自分だろうか?――もし、武家育ちなら、代官と刺しちがえても、安堂を逃がして、自分は死ぬ所だのに――この身体で済む事なら、と、奉行の言う事を聞こうとするのが浅ましい。こんな心底と知っては、あの安堂様は――)
 と、自分と、武家育ちの女とを較べてくると、何となく、自分が卑しい、劣った、浅ましい女のように思えて、こんなにまでして安堂に尽しても、安堂が、こんな事を知ったなら、一度に、さげすんでしまうだろうというように思えてきた。
 白粉が、冷たく襟から背へ延びると、涙が止めど無く頬を流れてきた。酒に酔った村越の顔が、化物のように、気味悪く、浮んできた。
(武家育ちだと、命に更えて守る操を、こう安々と、いかに、安堂様の為とはいえ、――矢張り、泥水に染まっているのかしら?――でも、こう育てられてきた自分にはこれより外に、踊子の得物は、武器は無いのに――人は、安堂さんは、何というだろう。悪い事か? いい事か? それはよくない事にちがい無いが、仕方がないと許してくれるか? それとも、地獄同然の女として、さげすむか?――)
 誰彌は、白粉をつけ終ると、湯へ入って、掌を合わせると、一心に
(この心が、少しでも、安堂様へ、通じますよう、誰彌はこれで、命懸けで御座ります)と、祈った。

一三

「誰彌」
 焚口の所に人の声が――
(右馬様の――)
 誰彌は、湯の中にいたが、肌がぞっと寒くなった。
(気のせいか――いいや、確に)
 と、思うと、嬉しさよりも先に
(危い)
 と、思った。そして入口にいる女に気がつかれたか、つかれるか?
(入口に女が番をしているから、静かに)
 と、言おうとした時に、焚口から風呂場へ出入する低い戸が開いて、安堂が、顔を出した。誰彌は、顫える指で、入口を指すと、安堂が、頷いて、着物を着よ、と、手で仕方をした。誰彌は、恥しさも、危険も忘れて、気が上づってしまった。
(よく来て下さいました)
 と、全身で叫んだ。何んなに嬉しいか、――全身で感謝している気持を言おうとしたが、言葉にできなかった。ただ
(早く、早く――)
 と、思う心が、一杯になって嬉しさよりも。周章ててしまっていた。身体を手早く拭きながら、戸を開けて着物の所へ行くと
「上りなされた?」
 と、女が言った。
「はい。すぐ――そこを開けないで」
 と、廊下へ行く戸を指した。女が
「早くして下さいませな」
 と、言った時廊下に、足音がして
「誰彌」
 と、村越の声がした。
「遅いのう」
 と、すぐ、戸口に声が近づいて、誰彌が
「いけません」
 と、戸を押えたのを、苦も無く開け放つと
「一体、何を致しておる」
 村越の微笑した顔が、立っていた。誰彌は、蒼くなった。顫える声で、戸へ手をかけ乍ら、着物の前を押えて
「あちらへ――」
 力任せに右手で閉めようとする戸を、村越が支えて
「身共と一緒に参ろう。湯上りは、又一段と、よいものじゃて、化粧が、半分では無いか、何とした」
「ええ、これから――身づくろいの間、御覧なされずに――」
「よいでは無いか? 何うせ、見せるものを、何が恥しい? ここで、待とう」
「いいえ――では――」
 と、言った時、誰彌は、ちらっと、踊子の武器、女の武器に、気がついた。
「では、妾は一生ここから出ませぬから」
 戸から手を放して、裾を押えながら、板へ凭れかかって、すねて見せた。
「あはははは、きつう固いことを申す。では、拙者も、ここで、根較べと――」
 村越も、板戸の柱へ凭れて、襟化粧の濃い誰彌の乱れ姿を、じっと、眺めていた。
「ええ、明日の朝まで――」
 快活に――安堂へ聞えるように――だが、頭の中は、狂ったように騒いでいた。
「庄助」
 村越は、焚口への戸の開いているのをちらっと見て下男を呼んだ。返事が無かった。
「庄助は?」
 と、番の女に聞いた。
「只今まで居りましたが――」
「無用心な」
 村越は、湯殿の裏へ下男を、入口へ女を見張りとして、念のために置いておいたのに、庄助の姿も、返事もないので、怒りが起ってきた。湯殿の中を覗き込んで
「庄助っ」
 誰彌は危険の迫ったのを感じた。周章てて様子を悟られまいと思い乍ら、手早く、下紐をしめて身づくろいにかかると、村越が、湯殿の中へづかづかと入った。誰彌は
「いけませんっ」
 と、思わず叫んだ。

一四

「殿様っ」
 誰彌は、村越の後方へ手を延ばした。頭が、くらくらとした。
(いけないっ)
 と、思うと、小さい柱行燈の灯に照らされているだけの薄暗い湯殿が、真っ暗になったように感じた。
「庄助、何処へ参った?」
 村越は、返事が無いので、舌打して
「たわけがっ」
 と、呟いて、足で、どんと、出入口を蹴り閉じた。そして、振向くと、笑って
「帯など――何うせ、解くのじゃ、そのままでよい」
 村越は近づいて、誰彌の手を取ろうとした。
「いいえ、まだ――髪を解き直しまして」
「髪は、部屋でとくがよい。ちゃんと、合せ鏡をしつらえてある」
「すぐ、参りますから――」
 村越は、じっと、誰彌の顔を眺めながら
「逃げるのではあるまいのう」
 と、静かに言った。誰彌の心臓は、昂ぶりながらも
「何んの、この暗い中――」
「千枝、庄助を探して参れ」
「はい」
 女が立上って廊下の戸を開けた。
(右馬様は――忍んでいなさるだろうが、うっかり顔を、お出しなされぬように――何んとかして逃げ出しますから――いいや、今ここで、妾が逃げたなら、右馬様は又、追手をかけられて、折角の苦心が水の泡になる――ちがうちがう、右馬様の気性として、もしかしたら、斬込みでもなさるかもしれぬが――、そんな事になったら――)
 誰彌は、何うしていいか判らなくなってきた。ただ、成るべく、湯殿から出まいと考えた。 (その辺に忍んでいなさるだろうが、こうしている妾の心が、お判りかしら――何うしたらよいか、教えて下さったら、何とでもするのに――いっそ、此奴を、突倒して逃げて出ようか)
 そう思うと、村越の胸を突飛ばしたくなってきた。
「参ろう。帯をもって」
 村越が、ぼんやりしている誰彌の手を握った。男の肌が、触れるまではそうも感じなかったが、手が握られると共に、押え切れぬ汚なさが感じられた。安堂が、すぐ近くにいるし――というよりも、暗い中から、自分のされた事を、凝視めているような感じがした。誰彌は、殺されても、村越の肌にふれる事を、安堂に見られたくなかった。
「いけません」
 手荒く振放した。そして、村越の眼の険しさを見ると共に
(こんなに手強くして、村越が怒ったなら、何うなるかしら)
 と思った。
「誰彌――」
 じっと、眼を睨みつけながら、唇に冷笑を浮べながら
「逃げようとて邸の周囲には、手配りがあるぞ。後悔するな」
 誰彌に言っているのか、安堂がいると知って言っているのか? 誰彌は、不安な胸騒ぎをさせながら
「後悔?」
 と、言った時、板戸の外でううっ、といった人の呻きと、どんと、板戸にぶっつかる音がした。
「あっ」
 誰彌は、掌を握りしめて、眉をひそめた、身体が顫え出した。村越は、力任せに、湯殿から誰彌を引出して
「誰か、参れっ」
 と、怒鳴った。

一五

 村越は、誰彌の手を握って、力任せに、廊下へ引擦って行こうとした。誰彌は、湯殿の柱へ掴まって、脚に力を入れながら、すっかり、逆上したようになって、ただ、動くまいと、しがみついて踏張った。
 もう、安堂が居ても、居なくても、危なくなっても誰が、こんな代官の伽をするものか、死んでもいいと思った。――破れかぶれであった、然し、右馬之助を呼ぶ事だけはしなかった。どっかで、見ていてくれると思った。それで、本望だと感じた。だが、力が足りぬと思うと
(来て下さいっ)
 と、絶叫しようとしたが、それも咽喉で、押殺してしまった。男の力に引張られて、柱の手が離れると、よろめき乍ら、すぐに、開いた雨戸へしがみついた。その時、
「お奉行様、無体な処置をなされて、それで、お役目が勤まるか」
 安堂の声だった。
 顔が、ぼんやりと形だけ、庭の闇の中に浮いて、静かに、こう言った。その時廊下を、急いでくる二三人の足音がした。
「右馬様、逃げて」
 誰彌が、必死に叫んだ時
「黙れっ」
 村越は誰ともつかず叫んだ。それでも、片手で誰彌の手首を掴んでいた。
「逃げて下さりませっ」
「曲者が入っておる、召し捕れ」
 村越は、近づく人々に、こう叫んで、誰彌を引擦りつつ、二三歩行った。安堂は、庭から、廊下へ上った。村越は、脇差を抜いた。安堂が
「お放しなされ」
「右馬様、妾は、覚悟して居りまする。逃げて、逃げてっ――」
「うぬ、素浪人がっ」
 足音が、間近く近づくと、すぐ二人の侍が飛んできた。そして
「うぬっ」
 飛びかかって来たのを、そのまま、組まして、力任せに捩じ伏せようとするのを、支えながら
「拙者は罪を犯したる者、御処置を受けて、当然で御座るが、その女には罪の無い筈、何故、無体な手籠めを為さる」
「捕えいっ、たわけがっ」
 村越は、安堂の理屈に憤りを感じ、その落付いた態度に気味悪さを覚えたが、刀を抜いたまま、
(高が、痩浪人――)
 と、振上げもしなかった。そして、誰彌の手を離さずに、誰彌へ
「参れ」
「参ります」
 誰彌は、涙に曇った顔を上げると
(逃げて――万事、妾の胸に、大切なお身体を――)
 誰彌は、安堂の心が判った。自分が縛られてもいいから、女を救おうとしている心が、十分に判った。と同時に、それが判ると、もう自分は、何うなってもいいと、いうように思われてきた。ただ、安堂を助けたかった。そして村越に引かれるままに、たたっと、三足、四足、歩くと
「待たれい」
 安堂が、組ましたまま、二三歩追ってきた。
「奉行の――それが仕業かっ」
 馬右之助は、大喝するとその瞬間、組んでいた男の手を逆に取って、足にからむと、投出した。
「出会えっ」
 村越は、刀を安堂の方へ突きつけた。投げられた男が、跳起きると
「曲者だっ」
 遠くで、つつっと、物音がした。
「それでも、代官かっ」
 安堂は、こう叫ぶと、刀を抜いた。
「あっ――い、いけないっ」
 誰彌は、村越の手を振切って、村越の前へ廻った。
「妾をすてて、早く、に、逃げてっ」
 安堂は、黙って、村越を睨みつけていた。

一六

「おっ――大分音がするぜ」
 とうとう柵を入って、塀の所に、黒々とうづくまっている人々の中に、一人の声がした。
「遅いが――さてはやったかな」
「俺ら、様子を見てくるぜ」
「曳船の、待ちねえ、誰かやろう」
「いいんにゃ、すぐだ」
 鋭い刃物で、切抜いた黒塀の穴を、もぐり出すと、手さぐりに、少し行くと――ととっと、廊下を走ってくる音がした。
「ええ、痛え」
 曳船屋は、立木にぶっつかって、呟き乍ら――躓きながら音の方へ走り寄ると、廊下の雨戸へ、どんとぶつかる音と、さわがしい叫び声とが、聞えた。
「右馬さん」
 と、叫んだ。どどんと、又、人が戸にぶっつかった。怒鳴る声と、叱る声とが入り乱れていた。刀の音が聞えないので
(何うしたのか)
 と、いぶかり乍ら、雨戸の所へ近づくと、廊下は、少し高く、渡り廊下のようになっていて、その狭い所で
「召捕れっ」
 とか
「何を恐れる」
 とか、村越の声がしていた。曳船屋が、雨戸へ手をかけた時
「女をっ」
 と、村越が絶叫した。
「待て」
「うぬっ」
 罵る声と共に、けたたましく廊下が轟いて、一人が雨戸にぶっつかり、一人が倒れたらしく、曳船屋の足へまで、地震きが感じられた。
「この場にかまわず――」
 それは、安堂の叫び声であった。曳船屋は、それを聞くと共に刀を抜いて、力任せに
「こん畜生っ」
 雨戸へ突込んだ。
「ああっ」
 と、叫んだ者があった。
「油断すなっ」
 曳船屋は、刀を戸から引抜いて
「馬鹿代官、恥を知れ。――助平。あんぽんたん」
 又、刀を突込んだ。そして
「開けろっ」
「親方っ」
「安堂さん、その野郎っ、叩っきれ、子分が七八十人来たぞっ」
「いけない。ならぬ、女を逃がしてくれ、この場は拙者が――」
「拙者も、役者も、あるものか」
 雨戸の開く音がした。
「来るかっ」
 と、曳船屋が叫んで、その方へ走り寄ると、二三人が、戸の開いた所に、手槍を突出して、暗黒の中をすかしていた。曳船屋は暗中から、それを見て、侍達が見当ちがいへ、穂先を向けているのをみると
(奴等も。おっかねえんだな)
 と、思ったが肚の中では
(闇にまぎれて、うまく逃げられたら)と、考えた。
「親方さん」
 女の声が、闇の中にした。
「おいの」
 こう叫ぶと、一人の侍が
「女動くなっ」
 と、叫んで、庭へ飛び降りた。提灯の灯が、戸口から差出された。誰彌の姿が、曳船の近くへ寄ってきた。

一七

「吾兵衛が吾兵衛が彼奴、何をしに)
 右馬之助は、一人の役人も斬らず、ただ叩き倒し、蹴倒して、誰彌だけを無事に逃して自分は召捕られるつもりをしていた。然し、吾兵衛が、その肚も知らずに、暴れて来たのを知ると共に
(これまでだ、吾兵衛を殺しては、済まぬ。武士の義が立たぬ)
 と思った。
 村越は自ら手槍を取っていたが、安堂の腕の冴えと、狭い廊下とで、何うする事もできなかった。誰彌が、戸の開いた所から、逃げ出すのを、歯がみしたが、安堂は一足も近づけなかった。だが
「女を押えろ」
 と、叫ぶと、二三人が
「心得ました」
 と、言って、二三人が方角ちがいの部屋の方へ走り出した。一人が、庭へ飛び降りた。二三人は走り乍ら
「危い」
 と、一人がいうと
「強い野郎だの。何うして、あれが、久保の腕でつかまったか」
 と、早口に言って、玄関が、忙しく、提灯をつけた。
 狭い廊下のように、有利では無いにしても、真暗であったから、庭へ出ても、戦えると安堂は思った。そして、じりじり戸口の方へ退いた。
「女子衆大丈夫だっ」
 と、吾兵衛の叫んだ声がした。
 と、同時に
「ええいっ」
「しゃっ、しゃらくせえ」
 誰かが、吾兵衛に、かかったらしかった。安堂は、雨戸の開いた所までくると、さっと飛降りると
「参れっ、出ろ、一人残らず、この上は、討取ってくれる」
 大声に叫んでおいて、足音を忍ばせると、素早く湯殿を廻って、広庭へ出た。
「誰彌」
「あい」
 声を目当てに近づいて
「逃げえ、その柵の外へ」
「いいえ」
「聞分けの無い――」
 口早に言って、手探りに手を取ると、誰彌は
「こ、殺されても――」
 と、言って両手で、安堂の手を握りしめた。それは、瞬間であったが、二人の手が一つになったように――血管と、血管とが、一つに流れ合ったように――それは、ただ手と手であったが、身体ぐるみ抱しめ合ったように感じた。
「拙者も、すぐつづく――吾兵衛を助けて、あの所に、紋七と申すのが待っている、それへ逃れて――」
 と、言った時、雨戸が、がらがらと、繰られると、提灯が幾つも、庭へ差出された。そして、その灯と共に人々が庭へ降りた。闇の中で
「何をっ」
 曳船屋の叫びであった。
「行けっ」
 安堂は、誰彌を突離すように離しておいて、吾兵衛の方へ走り出した。
「かかれっ」
 安堂が怒鳴った。役人が、棒を、さす又を、槍を、一度に、その声の方へ突出すのが見えた。吾兵衛は立木を背にして
「野郎」
 と、怒鳴っていた。元気はあったがすぐ召捕られそうな隙だらけであった。

一八

「こいつはいけねえや」
 紋七が呟いた。
「万吉、手前表門へ行ってのう。御城内から、火急のお使いって、怒鳴れ。そして、跫音がしたら、すぐ、御登城って言え、そして、逃げちまううんだ、まごまごしちゃならねえぞ」
「合点だ」
 万吉は、柵をもぐって走り出した。
「お前ら提灯を目懸けて、石を投げるんだ」
「提灯を消すんですかい」
「馬鹿っ、役人に目潰し喰わせるんだ。矢鱈に、早く投げろ。雨戸へ当ってもええ、大勢に見せかけるんだ」
「心得た」
 塀の穴をもぐった三人は、石を拾うと、手早く――それは、七八人か、十二三人か判らぬ位に投げた。
「油断すなっ」
 提灯が左右に分かれて、広く、庭を囲むように動き出した。三人は、三方へ石を投げつけた。
 安堂は、吾兵衛を守り乍ら、じりじりと退いた。役人は、片隅へ追いつめる手段をとっていたが、石を投げつける人々の人数と、そいつらが何うしているのかが判らなかった。
「旦那様、御城内から、お使が」
 と、門番が村越の所へ走ってきた。
「城内? 誰方か?」
「さあ、門の所で――」
「和田、聞いて参れ――いや、拙者が参ろう、今時分に――此奴らを、逃がすな」
 村越が、走って行くのを見ると
「吾兵衛、早く今の間に」
 口早に言った安堂は、刀を振りかざすと、役人の真中へ斬り込んだ。一人が、周章てて、立木にぶっつかって倒れた。一人が、すべって転んだ。四五人が、雨戸の所まで逃げた。その外の者は、左右に分れた。
「吾兵衛、早くっ」
 吾兵衛が、走り出した。役人が、追おうとすると
「寄るかっ」
 安堂は片手上段に、役人を脅かしつつ、暗い方へ暗い方へ逃げてきた。そして
「親方っ」
「おおい」
「女は逃げたか?」
「女? さあ、何うしたか」
 安堂が、叫んだ。
「誰彌っ」
 方角がちがった所で
「あい」
「早く、ここへ」
 と、言った時、その誰彌の声を目当に、役人が走ったらしく
「ああっ、誰かっ」
 誰彌の悲鳴が聞こえた。と同時に、安堂が走った。
「誰彌」
「ああっ――」
 安堂は、縄を、棒を、用心しながら、地を這うように、低く、近寄ると、二人のもつれた黒い姿があった。
「うぬっ」
 安堂が叫ぶと共に、男の影が周章てて走った。
「誰彌」
 誰彌は、倒れるように、手を延ばして、安堂の腕の中へ寄りかかった。
「何故、聞き分けぬ。早く逃げて」
 二人が、柵の方へ走りよると、提灯がだんだんと包囲の形をとるらしく、動いて来た。
「急ぐでない、じりじりと、追いつめえ」
 と、誰かが、指図していた。
「死ぬなら、二人で――」
 と、誰彌は、安堂に囁いて、手を握りしめた。安堂は、黙って、握り返した。

一九

「曳船の、女子を連れて、先へ――」
 紋七の声が、低く、口早に聞えた。
「おいの――頼んだぞ、あとを――」
「合点――」
 曳船屋は、闇の中に、ほのかに白く匂っている誰彌の着物を掴んで
「早く、早く――安堂さんは心配しなさんな」
 と、囁いて、引っ張った。
「ええ――」
 口では、そう言ったが、ここを自分が去った後に、安堂は何うするか? 何うなるか?
(もしかしたなら、自分が助けられて逃げたと知ったら、又、捕えられてしまいなさるか――斬死なさるか――)
 と、いうような気がした。
「紋七――」
 近々と、安堂の声がした。
「おおっ」
「女を、早く、江戸の方へ――」
「曳船のが、心得ている」
「頼むぞ」
 口早に、闇の中に、こう低く囁き合うと
「誰彌っ」
 と、安堂の声がした。誰彌が答えようとした瞬間
「何をっ」
 安堂が、絶叫すると同時に人の倒れる音と、叫び声とがした。誰彌は、はっとして、歩みをとめた。
(誰か斬られた)
 と、思った。役人は、じりじり迫ってくるらしく、懸声と、草を踏む足音と、提灯とが、間近に迫っていた。そして、その中に安堂の懸声が高く響いていた。
「誰彌、心配致すな、早く行けっ」
 安堂の声が、少し離れて聞こえてきた。
「はい」
 と、言おうとしたが、声が出なかった。
「誰彌」
 安堂は、返事がないので又呼んだ。
「はい」
 と、辛くも答えるのと同時に、曳船屋が
「安堂さん、心得たり、大船に乗ったつもりで――さあ、誰彌さん」
 誰彌は、曳船屋に手を取られて歩きかけた。一足歩き出すと、今迄何んとも無かった闇の中の足音が、自分を捕えるように聞えてきた。恐ろしくなってきた。早く、こんな怖ろしい所を逃げ出して、明るい所へ出たくもあるし、安堂の身の上も心配であるし――臆病のような、大胆のような、矛盾した気持ちで、引っ張られるままに歩き出した。
「提灯が廻った、曳船の――」
 吾兵衛が、その声に、振向くと、いつの間にか、別の手の役人らしく、ちらちら灯を揺がせながら近づいてきた。
「いけねえっ――安堂さんっ」
 紋七は、安堂がだんだん闇の中へ入って行くので、心配になるし、女を逃がした以上は、もう争う必要は無いし、役人に取巻かれて、捕らえられるのは無駄だと思った。それで、じりじり切穴の所へ寄って
「安堂さん」
 と、もう一度呼んだ。子分が
「親方、早く早く」
 と、叫んでいた。外の提灯は、だんだん近寄った。
「女は、逃げたかい」
「大丈夫ですよ」
 紋七は
「仕様が無えな」
 と、舌打ちをして、邸の外へ出た時、庭の中で、ちりぢりになっていた提灯が、一所に駈け集まってきた。
(安堂がやられたな)
 と、思った瞬間、わーっと、喚声が上った。
「親分、縄を喰ったらしゅう御座んすぜ」
「仕方がねえ。逃げろ」
 闇にまぎれて、そろそろと、提灯の灯の反対へ忍び足に退きかけた。

[# 遊侠心 おわり]