遊女堕ち

「千彌め、こいつ、姉仕込みで――」
 水城頼母は、酔をかりて、酔にまぎらせて、腕を、千彌の濃い化粧の頸へ巻きつけていた。千彌は、髪を乱すまいと、俯むいて、首を傾けながら
「御無体な――殿様」
「一寸、こう――」
 頼母は、肩をしっかり抱いて、片手を、袖口から差入れて、二の腕を握った。少し汗ばんでいる滑らかな、張切った腕を掴むと
「団七、羨ましゅうは無いか」
 と、笑った。
 千彌は、誰彌の居ない為の口惜さを、感じもしたが、嫌いな頼母でもなかった。団七組の人の前、力を込めて、身体を引いては居たが、強い力で、抱きしめられている肩の辺の肉は、血は、歓喜に固くなっていた。
 頼母の、酒臭い呼吸は好きでなかったが、汗の微な臭いに混って、鼻へ入ってくる男の臭いは、嫌なものでなかった。
 絹麻の青い地に、銀の縫いつぶしの帯をしめて、下に緋縮緬の湯巻をしめていたが、いつの間にか、裾が乱れて、脚が見えていたし、襟元がはだけて、乳の上まで塗った白粉の胸が、現われていた。
「殿様は――」
 と、言った団七の言葉は、柔かであったが、明かに嫉妬が含まれていた。
 千彌は、紅で薄く化粧して、白粉をすり込んだ素足を崩れたように投げ出して
「いけませぬ」
 と、頼母の胸を押した。
「いいや、今夜こそは――」
(姉さんの居ぬ間に、そんな事になっては――)
 と、思う一方で、身体は、頼母から離れるように力を入れながら、もっと、力強く、引つけて抱きしめて欲しいような気がした。
「これ、見ておらずに、余に加勢せぬか」
 一人の、団七組の踊子が、つかつかと立って行って、千彌の背をぐっと押した。
「あれっ」
 崩れていた身体が、頼母の膝へ雪崩れかかると共に、頼母は、両手で抱きしめた。千彌は、自分の血管と、頼母の血管とが触れ合っているように感じた。
「よいか」
 と、頼母が、人に聞えぬように、耳の所で囁くと、千彌はそのまま、頼母の腕の中へ凭れかかりたいように感じた。
「人が見ておりますのに、殿様」
 と、言って、下から見上げた眼には、情熱と、承諾との表情があった。二人の肌は、微かに汗ばんで、着物の上から、一つの肌に融け合うように感じられた。
 だんだん頼母の双腕の中へ、凭れかかって行く、自分の弱さを、引止めたいと思ったが、そう思いながら離れる事ができなかった。
 団七は、いつも一段下に見られて、頼母程度の人々には、可愛がられながら、本当には可愛がられていない、と思うと、反抗と、憎しみとが、灼けつくように起ってきた。
(誰彌は、いつか思い知らせてやるが、この千彌は、明日の間に)
 千彌と、頼母とは、頬と頬とを重なり合っていたが
「あはははは」
 と、頼母が笑って、手を放した。千彌の顔は真赤になっていて、濃い白粉の中に、うるんだ瞳は、人々の愛欲をそそるに十分であった。千彌は
「こんなに――」
 と、頼母を睨んで、裾を直し、髪へ手を当てた。

「待てっ」
  千彌の身体は固くなった。瞳も、唇も、手の先も顫えた。顔色が変った。
 頼母の邸を出て、眩しい朝の光りの中を小一町も、急ぎ足に行くと、背後から同心が呼び止めたのであった。
 踊子が、自分の家以外の所で泊ったなら、操を売ったものとして、新吉原の遊女へ下げてしまうというのは、当時の掟であった。
(見つかった)
 と、思うと、大地が裂けて、真暗な中へ堕ちて行くように感じた。
(此役人は何もかも知っている)
 と、思った。齢の行かぬ、生な千彌は、空空しく
「一寸、用事があって、今朝早く、水城様へ」
 と、言うような嘘が言えなかった。
「同道せい」
「いいえ、御免なされて」
 そういうと、涙が出てきた。
(姉さん、済みませぬ)
 と、頭の中で、絶叫した。
「参れと申すに」
 ぐっと、手を引っ張られた。通行の人々が、佇んで、じっと二人を見た。
「あの――」
「うるさい。訴人があって、昨夜から、張り込んでおるのじゃ。太い奴が――」
 千彌は、そう聞いた瞬間
(団七が、訴人した)
 と、感じた。
 夜明けまで、水城と話をして、少し眠ったかと思うと、水城は登城しなくてはならなかった。
 水城の乱れた髪をすきながら、鏡の中へ二人の顔を写して、もう一度二人が頬を合せたのが、見残した夢のように感じられた。
 立派な登城姿を、廊下へ送り出して、人々に見送られて出て行く後姿を、障子の細目からのぞいた事などが、砕けた硝子に写った影のように、ちらちらと、思い出された。
(もう逢えぬ)
 と、思うと、溢れるように、涙が、頬へ流れた。
「泣くな、地獄っ」
 地獄と、聞くと、口惜くなって、俯むいて泣きじゃくった。
(何故、好きな人と寝たのが悪い)
 そう考える一方
(悪い事をした)
 とも考えた。何故か、二つとも訳が判らなかった。悪くないようにも思えたし、悪いようにも感じた。
「おや、千彌さん」
 団七の声であった。
 消え入り度いような恥しさと、団七の髪の毛を掴んで引擦りたいような、憤りとを感じたが、顔も上げられなかった。何かしら、役人と、団七とが、顔を見合して、二人で、笑ったようにも感じたが、早く、何処かへ――役所へでもいいから隠れたかった。
 誰彌の妹分の千彌が、役人に引いて行かれる、と、人々の口に上りたくなかった。後悔だの、辱しさだの、悲しさだの、憤りだの、絶望だの――千彌の、小さい頭の中は、狂風のようなものが、吹き荒んでいた。
「何程、金子をもらうた」
 役人が聞いた。
「お鳥目など――」
 と、まで言うと、口惜さが、破裂するように、頭一杯になってしまって、半分、気を失ったように――何処を歩いているのかさえ判らなくなってしまった。

「青傘組の千彌が、吉原へ下げられた聞いたが――」
「そ、それは、近頃以て、耳寄りの話、何の家へ」
「それまでは決まらぬが――」
「あの器量では、十分、太夫であろうが下げられて早々そうも参るまいから、まあーず、格子という所か」
「格子で、銀五十、金一両――傘の骨を削ったり、料亭をいたぶっていた分にや、一生買えぬて――」
「貴公など、こみ局、銭百文で十分じゃ。拙者は、この刀を入質して一夜抱いて参る、一番乗りは、先祖代々鬼頭家の慣わしじゃって」
 渋川は、黙って、※「#※ 臣+頁 あご」の髯を、毛抜きで抜いていたが、
「確か、千彌は――」
 と、聞いた。
「確とも――」
「そうか」
「とか、何んとか、澄ました顔をして、※「#※ 臣+頁 あご」を撫でているが、抜けがけの一番乗りなど、嫌だぞ」
「あやつの姉の誰彌め、引っ捕まって、下げられんかのう。首を質に置いて――太夫は近頃?」
「一両二分の通り相場であろう」
「行った事は無いが、此奴、相場だけはよく存じておるのう」
「太夫が銀八十の一両二分、格子が銀子五十で一両。散茶女郎が一歩、うめ茶が五匁かの、昼夜揚げづめで、太夫が二両二分――」
「判った。千彌め、たしか、十八か、九か」
「何さ、二十一になりおる」
「ええと――のう、物も相談、有金を一同ここへ出して、籤を引いて、当ったものが、一同の代りに出かけると致そうではないか、そうして、戻顎ってきて、その話を、ゆっくり聞くと――何んと、名案であろうがな」
「えへん、有金残らず――」
 と、一人が、汚ない財布を、投出した。
「何程入っているかの」
「十二三文がとこは入っている」
「拙者は、二両出そう」
「二両?」
「袋に入れて、ここにぶら下げておる、ご入用の仁は、お使い下され」
「馬鹿っ」
「拙者は、話を聞くと致そう。話に聞くだけなら銭を出さずとよかろう。籤を引きとうない。生来、籤弱の性でのう」
「此奴も、無一文、次は」
「拙者が参ろう。金子は要らぬ。戻りに、千彌が、小使までくれて」
「無駄口を申すな。調西、貴公は?」
「拙者は、当り籤の供をして、顔だけ見に参ろう」
「ほほう、これも文無しかの」
「よく、揃って――六人集まって十三文とは――渋川、※「#※ 臣+頁 あご」髯ばかり抜かずと、懐中に何か無いか」
「ある」
「いくら」
「臍」
「何か、金目の――」
 と、一人が家の中を見廻したが、天井は破れていたし、壁は崩れていたし、畳は破れて――内職の提灯だけが転がっていた。
「甚三、よい事を教えてやる」
 と、渋川が、毛抜きを投出して
「よい機が」
 と、言った。

「おやっ、旦那――こりゃお珍しい」
 溜りに居た馬子が、立上って御叩頭したり、立上りかけて、微笑したり――
「白があるかえ」
「居ります」
「旦那にしちゃ珍らしい、北へ行らっしゃるんですかえ」
 一人の馬子が、燕のように、駈出ると、白い馬を引いてきた。吉原通いには、白い馬が伊達でもあれば、縁起がいい、ともされていた。
 一人は、新しい、馬乗蒲団を出してきて、鞍の上へ乗せた。大口屋は、編笠で、頭を包みながら
「御苦労」
 と、言って、華やかな馬に跨った。
 蔵前から、土手添いに、総泉寺田圃へかかると、吉原の灯が、漁火のように連なってみえた。馬をやる人もあったし、歩いて行く人もあった。人通りは途切れ途切れであったが、淋しい道では無かった。田圃の中に、月がきらきら砕けていた。少し肌には冷たすぎる秋風が渡っていた。吉原通いの人々は、この辺までくると、きっと、
「いい晩だのう。極楽通いにゃ、よう出来た晩だ」
 と、連れ衆に話かけた。
「綺麗な観音様が、白いお手々に、煙管をもって――こなさんに、惚れんした――」
「何を、何を――手前に惚れる観音さんなら、背中か、縫目の中にうじゃうじゃと鎮座ましましていやぁがるんだろう」
「おまはん痒ければ、掻いて上げんしょう」
「ば、馬鹿。人の背中へ、手を突込みゃがって――畜生っ、あっ――水溜りだっ――いやだなあ、折角の雪駄を、台無しにさせやがった。提灯をみせろ、泥まみれじゃ無いか」
「田圃の中へ落ちんでよかった。雪駄位、あの妓に買ってもらってやらあ」
「はい、御免よ」
「おっ、馬だ」
「通ってくれ、俺ら、只今、一本足だ。よ、ぴょん、ぴょん、ぴょん。さあ、通っておくんな」
「お先へ」
 男は、鈴を鳴らして、二人の側を通り抜けた。
「吉、堤は未だか」
「もう一二丁――近頃はめっきり小店がふえたので、職人衆まで、お詣りなさるんで、めっぽう中も賑やかになりましたよ。旦那、久しく行らっしゃいませんが、太夫衆が焦がれていなさるんでしょう」
「わしは、中に、誰も女は無い」
「だって、お一人で――」
「何あに、一寸した係り合いの女が踊子から、ここへ落とされてのう、可哀そうだから、客留にしてやろうと、いくつになっても女にゃ、親切者でのう」
 堤へ上って、柳の葉枝の、ざわめく音を快よく聞き乍ら、半町程行くと
「大口屋さん」
 後方から、男の声がかかった。
「誰方」
 馬子が振向いて、提灯を上げてすかしてみた。堤の柳の蔭から三人の侍体の者が出てきて
「一寸、馬を降りてもらい度い」
「誰?」
 大口屋は、馬の上で、警戒しながら、人影をすかしてみて、素早く、馬から滑り降りた。

「久々だのう」
 一人が言った。聞き慣れぬ声だった。大口屋は、人影が、素早く四方を取巻いたのを見て
「吉、わしは、すぐ行くから、大文字へ、わしの行く事を言っておいてくれ」
「へい、しかし――」
「よいから」
 馬子は、馬の手綱を引きながら人影に疑いの眼を向けて
「旦那に、何ういう御用事で」
「黙れっ」
 一人が、馬子の肩を突いた。
「大口屋、まさか、忘れても居るまい」
「余計な科白を聞きとう無い。命をとるのか。金子が入用か」
 大口屋は、雪駄を脱ぎかけた。覚悟をした。蔵前町人の面目を汚すまいと決心した。
 馬子は、黙って、馬を引いて、二三間歩むと――すぐけたたましく、蹄の音がした。馬が走り出したのだ。一人が、素早く馬へ追縋って、一刀を浴びせたが届かなかった。
「騒ぐな」
 と、渋川がその男へ叱った。
「命か?――はははは、命を取って見た所で腹がくちくなるものでは無し――」
「金が入用なら、ここに、三十両――」
「出せ」
 渋川の声と共に、二人の者が、大口屋の、両手を押えた。
「一刀組ともあろうものが、物盗りのような真似をするな」
 一人が大口屋の懐中へ手を入れて、金毛織の紙入れを掴み出した。
「脇差も」
 渋川が、頤を出した。一人が脇差を抜取った。
「大口屋、この金で、千彌を買いに参るが、口惜くないか」
 大口屋は、顫えてくる憤りを人々に悟られまいと、じっと押えていた。
「放せ」
 二人の手を押えていた男が、手を放した。
大口屋は、ほっとしたその刹那
「馬鹿者めっ」
 渋川の口から、夜の空気を、引っ裂いて響き渡ると――大口屋が躱わそうとする小鬢の辺へ、拳が――熱いと感じ、眼が、くらくらとした瞬間、又、横から突かれてよろめいた。
「覚えたかっ」
 足をからまれて、たじたじと泳ぐのを、又一突、堤の下へ、仰向きに、とっと転ぶと、一人が蹴った。大口屋は転げ落ちようとして草を掴んで、止まった腰を、背を力任せに蹴られて
「うぬっ」
「まだっ」
 一人が、起上ろうとする大口屋の肩を蹴ると、一人が腰を蹴った。堤の傾斜から、大口屋は、田圃の中へ、片手を突っ込んだ、動かなくなっていた。
「町人風情が生意気に――この事を忘れるな。口惜しくば、いつでも参れ」
 渋川は、落着いた声で、こういうと、雪駄を鳴らして引返しかけた。
 大口屋は、唇を顫わしながら、頭の中一杯に、毒瓦斯のように拡がって来る口惜さに、殺されても、畜生っ――と、思ったが、起き上ろうとすると、よろめいて、脚も、腰も、痛んだ。
 笑い声と共に、立去って行く足音が聞えた。大口屋は静かに、身体を起こしながら、手拭で、手の泥を拭いて、暫く、呼吸をついでいたが、立上ると、跛を引きつつ、堤を登りかけた。

「旦那っ」
 吉の声であった。遠くから、大声で呼んでいた。
「おいっ」
 馬上の人達は、馬の足音に聞えぬらしく、駆け抜けようとした。大口屋は、一杯の力で
「吉」
「旦那ですかいっ」
 と、いう叫びと共に
「旦那っ」
「旦那っ」
 と、人々が口々に叫んだ。
「ここじゃ」
 大口屋は、人々の声を聞いて、腰を上げようとしたが、上らなかった。
「あん畜生は?」
「御無事ですかい?」
「疵は?」
「お命に別状無うてよかった」
 人々は、提灯を出して、馬から降りてきた。走ってきた人々が、六尺棒を、刀を手にして
「お傷は?」
 と、四方から、提灯で照らした。大口屋は、元気を出して起上った、人々が、手を引き、脇の下を支えて堤の上へ上げた。
「疵はせんが――」
「野郎、何処へ行った?」
 と、大文字の若い衆が、刺青の肌を、裸のままで、叫んだ。
「叩きのめせっ」
 二三人が、走り出そうとした。
「旦那、あいつは、何っちへ」
「戻ったらしい。四人だ」
 大口屋は、人々の肩につかまり乍ら
「中へ行くから――」
「お帰りになって、手当をなすっちゃ」
「嫌だ、医者は中にもあるだろう」
「あっしが、おぶいやしょう」
「ひどく蹴りやぁがって――――」
 と、言った時
「おーい、居たぞっ」
 と、いう叫びがした。
「旦那を早くお連れ申して――畜生っ」
 と、若い衆は、馬子と、二人の者を残すと、駈出した。
「抜いたっ」
「気をつけろっ」
 提灯が、左へ、右へ、走った。通りかかった人々が、走って逃げてきた。
「物盗りか」
 と、出し抜けに、聞いた人があった。
「旦那?――あそこで?」
 と、指した時、刀の響きがした。
「お役人か?」
「ええ、余所の役人だが、一人や、二人来たって、始末がつかねえや」
 と、言い乍ら、大口屋を、肩にかけて、二人の若い衆が歩き出した。
「あいつらあ、何処のがらくたで」
「浅草の、ならず浪人だが、腕っぷしがきくのでのう」
「浅草の、と言やぁ、渋川では御座んせんか」
「そうだ」
「あん畜生っ――あいつら、うっかりすると、斬られやがるかも知れねえ、定っ、一っ走り行って、気をつけてきてくんねえか」
「頼むぜ」
 一人が走って行った。
「吉。大急ぎで中へ行って、狩出してきてくれっ」
「合点だ」
「えらい奴に、見込まれなすったねえ」
 と、言いつつ、大口屋を引ずるようにして、若い衆は吉原へ急いだ。

「命が惜しくないと見えるな」
 渋川は、冷たい眼をして、刀の柄へ手もかけずに
「浅草の一刀組だ」
「一刀組と知って、うぬら、来たか」
 三人は、刀へ手をかけていた。
「渋川でも、甘川でも、日本堤でふざけた真似をしやぁがる。手前らに、のさばられて、中の若い者の面がたつかえ」
「では、面を立ててやろう。かかれ」
「何を、この手下野郎」
 一人が、棒を打込むと、かんと音がして弾き返された。対手の手には、刀が光っていた。
「はははは、蛆虫――がちゃがちゃ虫、刀の光るのが恐うては、螢も掴めまい」
「何をっ、てんとう虫、げじげじ、おけら、蟷螂――」
「それから――」
「こらっ」
 一人が、近づいて、棒を振上げると
「馬鹿っ」
 渋川の手から、黒い固まりが、飛ぶと、一人は、顔を歪めて、手で押えた。
「野郎っ」
 一人がそれを真似て、堤の上の石を拾うと、抛げつけた。石は渋川の頭を越して消えた。
「待てっ」
 人々の背後に、声がした。振向くと、会所詰めの役人が、役提灯をもって
「待てっ、その方は?」
 渋川は、提灯を見ると
「会所詰か――支配ちがいじゃ、引込んでござれ」
「何っ」
「吉原の中さえ取締っておればよいのに、何をのこのこ出て参る。文句があらば、浅草まで参れ」
 渋川はくるりと、背を見せると歩きかけた。
「逃げるかっ」
 と若い衆が、叫んだ。
「くるか」
 と、渋川が、振向いた。
「おい、兄弟、うっかり手出しちゃ危ないぜ」
 と、一人が呼吸を切らして走ってきて囁いた。
「うん、対手が悪いからのう」
 会所の役人は、低い声で
「手出しすな、考えがある」
 と言った。
 渋川の組下の者は、振向き振向き歩き出した。
「畜生、吉原へ一足でも入ってみろ、脛の骨、叩き折るぞ」
「はははは、明日、参るから、褌をしめ直していろ」
「口惜いな、直助――」
 一人が、走り出そうとするのを
「よせっ」
 と、一人が、腕を掴んだ。
「鉄五郎でせえ、一目置いているんだ。七人や八人かかったって、何うにもなる対手じゃあねえ」
「大口屋も、飛んだ奴に、見込まれたもんだのう」
「命拾いをしたのが幸いさ」
「戻ろうか」
「何うも、虫が納まんねえが――」
 人々は、渋川が、闇の中へ消えて行くのをぼんやり眺めていた。

「旦那っ御無事で」
 大文字屋の亭主は、裾を端し折って、一人の浪人をつれていた。駕屋が、大口屋を見ると、すぐ垂れを上げた。
「御無事でよかった。この駕へ、旦那、旦那のお死骸をのせて戻らにゃならんかと、心配しましたぜえ」
「飛んだ目に逢ったよ」
 大口屋が、駕へ腰を入れようとして、顔をゆがめていると
「大口屋さん、対手は?」
 と、浪人が言った。大文字屋が
「此の人が、旦那、八寸鉄五郎で」
「ああ、初めて――」
「対手は?」
「一刀組――」
「渋川か」
「一刀組?――又、何うして、そんな代物と」
 大口屋は、駕へ入って
「駕屋、やりにくかろうが、脚が痛いから」
「へい、心得やした」
 大口屋は、半分駕へ入って腰へ手をやって脇差をとろうとして
「ああ、しまった」
「何うなさいました」
「脇差を取られた。そうだ、あの時――あん畜生っ」
「脇差まで取りましたかい」
「代々の国行だ――しまった、銭金に更えられん品」
 大口屋は又口惜さが、鉄瓶の湯気のように、吹き出してきた。
(安堂さえ居たら)
 大文字屋が
「八寸――何んとか、なるか」
「さあ――対手が」
 肩から背へ、八寸の深手を負いながら、喧嘩の対手の刀を奪って斬殺したというので、綽名を八寸鉄五郎という、浪人上りの、吉原の用心棒であった。
「旦那、金で済む事なら、お済ましなっすちゃ。対手が悪う御座んすぜ――」
「そりゃ、判っているが、こっちから、頭を下げて行きゃあ千両位の事は言うだろう、そいつが口惜いよ。叩きのめされて、千両とられて――」
「御尤も――」
 亭主は、小声で、鉄五郎に
「駄目か」
 と、聞いた。
「あいつが、暴れると、組一統で七八十人居るからのう。わしの下に十人や、十五人いても、歯が立たんで――然し、大口屋さんに、千両と言や、拙者が、頭を下げて行くなら半分で済まそうが――」
 大口屋が、駕の中から
「親方」
「へえ」
「千彌ってのが、落とされてきただろう」
「はい」
「あれを客止めにしておいてもらいたいのだが、金はすっかり奪られて、すってんてんだが、頼むぜ」
「承知しました。えらい意気筋で御座んすねえ」
「少し疝気筋だがの――それに、渋川が、目をつけているんだ、千彌にのう」
「あいつが? 図々しい」
「抜からぬよう頼む」
「心得ました」
 太鼓の音が聞えてきた。提灯が、いくつも駕の側を掠めた。
「御無事かえ」
 編笠茶屋の前までくると、大文字の女房が出迎えていた。
「良庵を、すぐ――」
「ええ。――」
「一寸、打身じゃ」
 一人の若い者が、走って行った。
 格子からは灯が、流れ出していて、人影は明るかった。籠屋が、威勢よく、懸声をかけ出した。

「右馬さん」
 曳船屋は、疲れた足を引ずっていたが
「いくらか持ってるかえ」
「銭か?」
「うむ」
「無い」
 すっかり、夜になっていた。道は、足さぐりで歩かなければ、判らない闇であった。
「畑の物でも盗むか? こうなっちゃ、恥も外聞もねえ」
「親方は、何んとか言うその貸元を頼よって行きなされ、拙者は――」
「馬鹿こくねえ、拙者でも、候でも、腹がへって、戦ができるけえ」
「然し、盗みは――」
「何を、言ってやがる。もう、此処の辺を通りすぎると、山ばかりで、喰う物は無くなってしまやがるよ」
 曳船屋は、闇の中に佇んだ。
 昼間は、追手の眼が有ったし、人目も多いし畑へ入って、畑の物を喰べる事もできなかった。百姓家へ頼もうにも、そこから、足のつく事を恐れて、社の床下に忍んでいたが、丸一日喰わずに、歩いていると、脚がおくれて、ふらふらした頭だけが、先へ行く位に、疲れてきた。
 曳船屋は、畑を足でさぐり乍れ、ごそごそ音を立てていたが、
「何れも、これも胡瓜――」
 と、独言を言って、戻ってきた。
「上がんなせえ」
 手さぐりに右馬へ胡瓜を渡した。
「精をつけて、これから急ぎゃ、三国街道へ暁方までに出られるだろう。そこまでの我慢だ」
「じゃによって、拙者は、食わずに参る」
「勝手になせえ」
 曳船屋は胡瓜を噛り乍ら、歩いた。
「夕飯の膳にゃ乙なものだが、河童じゃあるめえし、こうして食うと、いくら空腹でも有難えもんじゃねえな」
「一方ならぬお世話をかけた上、飛んだ災難にて、何んとも申上げようが御座らぬ」
「人間の運って奴は、こんな事にも成りゃ、又、開けてくる事もあらあ。とにかく一旦、松吉の所へ草鞋を脱いで、それから、越後へ行くなら越後、越前へ行くなら越前へ行っし。路銀ぐれえ、何んとかしてくれよう、悪い事は言わねえ」
 右手は、川で、底深く音が響いていた。風が、肌冷たく渡るし、露が降りて、草鞋はすっかり重くなっていた。
 「君は、深山の
  白雲よ
 って、唄あ、知ってますかい
  別れ、別れが
  ちりじりに
 って――」
「聞いた事がある」
 安堂は、そう答えて、誰彌の事を想い出した。
 女の匂いのする部屋。長い反った睫毛をしみじみ伏せて、話を聞いていた誰彌の瞳。その髪の香。その化粧した美しい襟元。じっと凝視めていた眼の意味――。
「江戸で、流行っているって、うちのごろ猫共が、唄っていたが、右馬さんとの別れにゃ――何んてんだろう。胡瓜を噛じり噛じりの別れなんて――」
 曳船屋は、又、快活になって、喋べり初めた。山の端に、白い明りが見えかけてきた。
「唄の通り。白雲が、別れ別れだ――もう三国街道だ」
 鳥が鳴いたり、飛びかけたりしかけた。

一〇

 後閑から、三国街道を、赤谷川に沿って行くと、湯宿へ出て、三国峠越に、越後へつづいていた。
 湯宿の貸元松吉は、街道切っての馬借であって、曳船屋とは、心安くしていた。二人は朝早い訪問に
「何を為すった」
 褌一つに浴衣を引っかけて出てきた。
「もし、これを――」
 と、妾が、袷の褞袍をもって、薄鼠になった襟白粉で
「御免なさいまし」
 と、寝間着の裾を押えながら
「あなた――」
「あはははは、褌だけは、これでも締めて出てきたが、曳船の、武士の嗜みって奴さ、手めえ、人にどてらを着せて、手前湯巻をしてるかえ、こん畜生っ」
「あれっ――まあ」
「そうれ見ろ――所で、お初に、お目にかかります」
 子分の馬子達は、馬の藁を運んだり、水を川へ汲みに行ったりしている。二人が、足を洗って、座敷へ上ると
「売って来たのかえ」
「お察しの通り」
「対手は紋七か」
「図星――」
「だろうと思うた。臭がしていたよ。何うせ一度は、売らなくっちゃ、男が立たねえ」
「所が、さあ、叩斬ったのなら男になるが、ずらかりだあ」
「と、いうと――」
「それがねえ、この右馬さんが――」
 曳船屋は、手短く、前後の話をした。
「恩を仇って奴か」
「恩を仇じゃやねえがそういう破目になっちまったんだ」
「お武家にゃあ、ならず者仲間の作法が判らんでのう」
 松吉は、安堂にに対して、冷淡な瞳をしていた。
「親方」
 二人が、安堂を見た。
「勝手な申分ながら、拙者は、これにて」
「もうこの上強いて止めはせんが、飯を喰べて――」
 曳船が、こういうと
「急ぐなら、弁当を作らせるぜ」
「忝う御座る」
「草鞋銭を少々貸してやってくんねえ」
「よし――所で右馬さんとやら、これは、いくらか出来るかい――」
 松吉は、刀を構える手付きをした。安堂は微笑した。曳船が
「そいつは達者だ、中々――」
「そうかい、それなら、猿ヶ京へ手紙をつけてやろう。庄屋で、好き者がいる。ここでも、いくらか包んでくれるだろう。握り飯さ、背負ったって、此日の短いのにはそうははかが行かねえや、まあ、行く先々で、草鞋銭をもらいなせえ。胡瓜を食おうなんて、そんな贅沢な事を言わずに――ここんちだって、麦飯の握り飯だぜ」
「結構で御座る」
「御座り、御座って、奉るか。野郎、握り飯をこさえろ。一っ包み」
 馬子上りの松吉に、安堂は耐えられなくなって来た。
「重ね重ねのご配慮、千万忝う御座る。何れ――」
 と、言いかけると、
「よしねえ、そいつあ――」
 と、松吉が、手でとめた。そして
「関所切手と一所に――」
 選別の金を包んでいる妾へ、松吉が振向いた。

[# 遊女堕ち おわり]

落し穴

 三国街道は、越後と江戸とをつなぐ重要な路であった。
 今日の日の短さを思わせるように、やっと太陽が、昇りかけた頃には、旅人が、徒歩で、馬で、往来していた。
 河岸に沿った温泉宿では、障子を開け放って、逗留の旅人達が、立ったり、坐ったりしていた。
 松吉の家の前には、荷鞍を置いた馬が、鞍置馬が、柱に繋がれていて、子分の番頭が、馬子を指図していた。
 平縞の袷に、簑笠を冠り、脇差をさし脚絆ごしらえで、急ぎ足に土間に入ってきた手先が 「居るか」
 と、言って汗を拭った。
「おやっ、旦那」
「曳船が参ったであろう」
「いいえ」
「隠すな、浪人者と―― 一寸、松吉に顔をかせと言ってくれ」
 初秋の事とて、奥の間まで、未だ見通しであった。松吉は番頭に話を聞くと、すぐ出て来た。
「松吉、手数をかけんように、一つ頼む」
「来ましたよ」
「ふむ」
「右馬って、浪人者あ、あっちへ――」
 と、※「#※ 臣+頁 あご」を、右の方へ――右馬の行った方角へ! しゃくった。
「曳船は?」
「こいつあ、旦那――」
 それは、役人とこの人々との習慣であった。役人に手柄をさせる代り、他の犯人を見逃すと言う事は、役人と、無頼仲間の交換条件であった。
「張本人は、あの浪人者でがんしょう」
「よし、判った。いつ頃立った」
「今朝早く――突っ走れば、法師までも行ってますかの。もしかしたら猿ヶ京辺に――」
「馬を貸してくれるか」
「さあさあ」
 馬子が、湯ざましをもってきた。一人が手拭をしぼってきた。妾が、煙草盆をもって出てきた。
「乙う、気取った二本差だねえ」
「候の、御座るの――旦那の前だが――これは出来るってねえ」
 と、剣術の真似をした。
「うむ、使えるらしい」
「大丈夫ですかいお一人で」
「猿ヶ京で手配致す」
 向いの湯で、疲れを休めていた曳船屋の所へ、子分がすぐ走って行って、手先がきたから顔を出さぬよう、と行った。
 腕に、桜の刺青を半分だけした中年の馬子が、褌一つに、襦袢をつけて、馬を牽いてきた。 「ゆっくりなせえ、旦那。あいつあ、今日は、何う急いだって、法師泊りでさあ、三国峠を、夜中に越えりゃ、狼の餌食だ」
「去年は、熊が、猿ヶ京まで出たと申すでないか」
「でっかい、二十貫もあったかのう。四万から、あの辺の山にゃ、まだ、うんといるらしいが」
 手先は立上って
「御苦労」
 と、馬子に言って、すぐ跨った。
「しっかり、旦那」
 と、妾が、声をかけた。
「危ねえ――もう来やがった。何んで早い手当だろう」
 手先の後ろ姿が見えなくなると、松吉は、そう呟いて
「曳船のう。もういいよう――」
 と、向いの湯へ、声をかけた。

 猿ヶ京の村は、断崖に面していた。その外れに聳立している一角は、信玄の築いた城跡であった。その険要を扼して、関所が設けられてあった。
 手先は馬から降りてづかづかと詰所へ入ってきた。そして役人に、何か話して、今朝から通った人々の切手を改めた。
「此奴だ――」
 手先は一枚の切手を取上げて
「齢の頃、二十七八、上背のある――」
「痩形の――」
「うむ、一刻程前に、通り越した」
「それでは、手利き三名拝借したい」
「心得た」
 旅人達はその間、縁外に待たされていた。薬売の行商人、猿廻しなどは、地上へしゃがんでいると、百姓、町人達は、樹の下で話合っていた。
 足軽が二人、柵の所に立って、柵の外に遊んでいる子守女と笑い合っていた。馬子だけは、通行鑑札を足軽に見せただけで、詰所の中へ、形ばかりのお叩頭をして、通って行った。
 足ごしらえをして、脇差を腰に、六尺棒をもった三人の足軽が、草鞋を踏んで、出てきて
「できまいた」
 と言った。
「首尾よく」
 役人が挨拶するのをお叩頭で受けて、手先が外へ出ると待ちくたびれていた人々が一齊に立上った。二人の関所役人が、縁側へ出て
「次の者」
 と、呼んだ。旅人は、一時に縁側の所へ走りよった。
 猿ヶ京を出ると、路は深い谷に沿って、山奥近くなってきた事を思わせた。六七軒の家しか無い吹路を越えると、風は急に冷たくなってきた。
「一刻前、浪人者が、通ったか」
 狭い畑地の、柿の木の下で、作物を手入れしていた百姓が
「通りましただよ」
 と、答えた。
 四人は、黙って、急ぎ足に歩き出した。それから先は、右に断崖を、左手に渓谷をつづける山地であった。
 三国峠の嶮を越えて、山下の法師湯へ入った旅人は、この渓谷の美しさに見とれて、猿ヶ京まで出てくるのを、知らぬ位であった。
 人々は時々往来していたが、二三町人影を見ない事もあった。行く手から、人がくると、手先は
「浪人者を見なんだか」
 と、聞いた。そして、旅人は
「さあ――」
 とか
「見た」
 とか答えた。行止まりと言っていい位の所にあった。そしてその背後には、三国峠がそそり立っていた。日暮迄に可成り時間があっても、法師まできて、その聳えた深い三国峠を見ると、旅人は
「あの峠越は明日にしよう」
 と、きっと、湯に浴した。
 自然石を底にした湯槽で、たった一軒の湯宿しか無かった。浅い、清い川が湯の側を流れて、山の中の湯らしい、幽しさと、淋しさと清らかさをもった湯であった。
「袋の鼠じゃが、手利き故、油断すな」
「何んの、四人と一人なら、この鹿島流の棒が」
 と一人は、振ってみた。
 山鳥が立ったり、向う山に、兎が走ったりするのが見えた。

「ここで――」
 役人は法師川の川岸へくると、足軽を止めた。
「人目につかぬようにここに隠れておれ、――合図をしたら出て参れ」
 手先は、川を草鞋のまま踏み渡って、宿の前へ着いた。
 薄暗い、高い天井に、大きい、真黒な梁の横たえられている下に、炉が切ってあった。主人が
「お疲れで――」
 手先は、主人が近づくと懐中の十手を見せた。
「へっ――へっ」
「浪人体の者が参ったか」
「はい、お着きになりました」
「部屋は?」
「此上――二つ目で御座います」
 階子がかかっていて、黒く光った柱、煤けた壁の二階に、幾百も部屋がつづいていた。
「今、部屋におるか?」
「さあ――見にやりましょうか」
「悟られぬように――某の隠れる所を――」
「それでは、こちらに――」
 主人は、奥の間へ案内した。炉の傍にいた猟師が
「何んだの」
「御用って奴だ」
 と、主人は、小声で言って、すぐ二階へ登って行った。
 湯から出た安堂は、浴衣のままで、風に揺れている樹々を眺めていた。
「ええ、御早う御座りますが、お宿帳を」
 安堂は、振向くと
「拙者は泊らぬ」
「へえ、すぐお立ちで」
「夜に入っても、越える所存じゃが――」
「危のう御座りますが、旦那様」
「いや、ちと、急ぐ旅故――静かで、よい湯故、暫く、足を止めたいが――」
 主人は
(成る程、急ぐのは尤もだ)
 と、思うと、自分の家に起る、始めての捕物に、興味と気味悪さとを感じながら
「では、お支度は?」
「はははは、痩浪人で、握り飯、御持参じゃで――」
「これは――」
 と、笑って、亭主は急いで降りてしまった。そして、手先に
「すぐ立つと、急いでおりますが一体、何うした人間で?」
「人を殺した奴じゃ」
 主人は
(手向いでもして、血でもみたら――壁へかかったとて、お上から塗代えてくれるものでは無し――)
「申兼ねますが――外へ出ました所を」
「黙れッ、その方の指図は受けぬ」
 手先は、裏手へ出て、足軽に合図をした。そうして走ってきた足軽へ
「あの橋の下」
 と、小さい、丸木橋のかかっている渓を指した。
「その方は、あれへ」
 そこには、小さい宮が祭られてあった。
「足を払うように――」
 足軽は旅人のように装って、定められた場所へ匿れた。役人は、引返すと
「外の客に、気取られぬよう――その方達、暫く、ここを動く事ならんぞ」
 と、主人と、炉辺の人々に言い渡した。

「御無事に、行っていらっしゃいまし」
 亭主は、安堂に挨拶して、安堂が軒下を曲ってしまうと
「見物だぜ」
 と、猟師の方へ振向いて、小声で言った。
「何い、しやがったんだろう」
「人殺しだ」
 猟師達が、炉辺から、立上ってそっと外へ出かかると、川淵の小さい土橋の所で、手先が、何か、安堂に言っていた。
「同道せい、とあれば――」
 安堂は、左右に、前後にいるのが、皆役人であると判ると
(こんな人間を斬った所で仕方が無いし、斬って逃げた所で、何れは捕えられるのだから――こう、不運つづきで、いろいろと、手違いを起すよりも、捕われてやろう、この小役人の手柄にも成ろう)
 と、思った。
 役人は、いつでも打ちかかれるように、準備していた。後方へ廻った仲間は、棒を構えて、脚を払おうと、身構えていた。安堂は静かに
「同道いたそう」
「神妙の至りじゃ。刀を――」
 手先は仲間に目配せした。仲間が手を出して
「刀を渡されい」
「刀?――」
「渡せぬか?」
「素直に、奉行所へ参ると申す上は、武士に二言無い。貴殿も武士なら、その上に、縄目をかけるなどと、無慈悲な事も申されまいが――大刀だけはお渡し申そう。脇差は、嗜みとして、お許し願い度い」
 役人は、暫く考えていたが
「よし――」
 頷いた。安堂は刀を渡した。
「急がぬと、日の暮れぬ内に着けんぞ」
 足軽が一人先に立って、次に安堂、すぐ役人とつづいて、人々の二階から見下ろしている中、軒下に立って見送っている前を、歩きかけた。役人は安堂が無抵抗で縛についたので、嬉しそうに微笑みながら
「手数をかけた」
 と、宿の人々へ挨拶して、川を横切って行った。
「斬合になるかと楽しんでいたら、なあーんでえ」
 一人の客が大声で言った。
「弱い侍だのう」
「ありゃ、侍の振りをした、こそこそ泥棒だろう」
「侍でも、四人かかっちゃあ、叶わねえからのう」
「あの先に立って行きよった足軽は強そうだのう。棒をもって、こう構えて――えいっ」  一人の男の頭を叩いた。
「――と、こういう具合に」
「馬鹿っ、痛えよ。本気に叩きぁがる」
「気がついたか――手前、いい気になって、二階の年増に見とれてやがるから、一寸、気をつけてやったのだ」
「だって、お前――それ見な、青縮緬の湯文字かなんかちらちらさせて、いやに気が悪くなるぜ」
「おっ、湯へ行くらしいぜ、おいっ」
 頭を叩いた男が、二階を見上げる隙に
「えいっ」
 一人が、その男の肩をついた。
「仕返ししたな」
「早く、ついて行つて来い――佐平さん、いつからあんな、まぶしい女が来てるんだい」
「昨日から――」
「隠しておかないで、早くお見せよ」
「はははは、又、湯槽で引繰返るかな。この人は、次々に女が入ってくるので、湯の中で見とれている内に泡を吹いちまったって言うからのう」

 吹路の急坂へかかると、猿ヶ京は、林の中に屋根を見せていた。桑と、柿畑の間を行くと、すぐ猿ヶ京であった。
 関所へ入ると、役人が、すぐ詰所へ入って行った。安堂は、足軽に取巻かれたまま、立っていた。
 詰所の役人と、何か話をしていた役人も、こっちへ来ると、すぐ七八人の足軽が、走ってきた。役人は、歩き乍ら、捕縄を出して、捌いた。
(縛る気だな)
 と、思うと、安堂は腹の底から、憤りが、起ってきた。
「縛る所存か?」
「拒むか」
 役人が、縄をもって、睨んだ。足軽が四方を取巻いた。
「素直にせい」
 関所役人が、縁側に立って
「これから先は、夜にも入ると、郡方一人じゃで、おとなしく縛られるがよかろう。顔を曝すのが嫌なら、笠を冠れ」
 と、怒鳴った。
 足軽は、この関所で借りたのであるから、これから先は役人と、安堂と二人づれにならなくてはならなかった。それが、役人には不安であったから、関所役人の手をかりて、無理にも安堂を縛ろうとした。
(仕方が無い)
 と、安堂は思った。そうして、黙って、手を背後へ廻した。縄が手早くかかった。一人の足軽が、脇差を抜き取ってしまった。
「いや、いろいろと、お手数をかけて、申訳が無い」
 役人は、縄尻をとって、関所役人へ挨拶をした。
「何の――いかい、お手柄で御座った。村越殿へ、よしなに――」
「御免――」
 足軽が挨拶をした。
「歩けッ」
 ぐっと、縄尻を引いた。縄は手首へ、しっかりと喰い込んでいた。
「編笠を――」
 と、安堂が振向くと
「ならぬ」
 と、役人が大喝した。そして、肩を突いた。安堂は、縛ってしまうと、急に変った役人の態度に、怒りがこみ上げてきたが、もう何うする事もできなかった。
「早く歩め、日が暮れる」
 縄を手強く引いて又肩を突いた。
「何をするっ」
 振向くと、足軽の一人が
「何?」
 と、叫んで、六尺棒を持って、づかづかと近づいた。安堂が、怒りに赤くなった顔を俯むきながら歩み出すと
「早く歩け」
 と、棒で、太股を突いた。
 遅がけからの旅を、急ぐ人々が振返り、振返り、安堂を眺め乍ら、追抜いて行った。
 赤谷川の、深い渓谷の音が耳についてくると、安堂は
(此奴を、道づれに渓へ飛び込んでやろうかしら)
 と、思った。役人は、流石にそれを用心して、ぴたりと、安堂の右へ添って、黙って脚を急がせた。
 山間の夕方は、急に迫ってきた。赤谷川が右へ外れて行くと、すぐ湯宿の灯が、正面口からちらちらとしかけた。

 湯宿へ入ろうとする少し手前へくると
「旦那」
 松吉の子分が、提灯をもって、出迎えていた。
「松吉の身内の若いもんで御座んすが―― 一寸、お耳を――」
 そう言って小腰をかがめた。
「何事じゃ?」
 役人は縄を延ばして、若い者の方へ耳をよせた。
「此奴を、御用になすったからにゃあ、吾兵衛を、何卒、大目に――」
「吾兵衛も居たのか」
「すぐに、ふけやすが、今日だけ、旦那、大目にみてやって下さいまし」
「明日、当所を退散するか」
「へえ――それから、此奴を、吾兵衛に見せぬように――親分にその、何う吾兵衛の野郎が喰ってかかるか判りませんから――」
「ふむ――」
「仲間の義理としまして――」
「然し、わしが、目星をつけて、捕えてきたと申しておけば、よいではないか――」
「左様で御座んすが、其処を――」
 若い者は、御叩頭した。
「よし、判った」
「有難う、御座えやす、では一寸吾兵衛さんの眼に触れぬように致してまいりますから、暫くここで――」
 二人が、ひそひそと、話をし終ると、子分は、走って行った。
(同じ、遊び人だが、吾兵衛と、松吉とは、ああも、人間のちがうものか)
 と、安堂は、薄闇の中で、二人の囁きを聞いて思った。通行の人々が、二人を避けて通りながら、じろじろと、安堂を見た。
 猿ヶ京の方から、急いで来た湯宿泊りの旅人は少し行きすぎると
「あれだ、今日の法師の捕物ってのは」
 と、声高に話合って行きすぎた。
 提灯が二つ走ってきて、遠くから
「旦那、お待たせ申しやして――」
 と、声をかけた。
「何も御座いませんが、御夕飯を」
 一人がいうと、一人が
「親分が、大層なお喜びで」
 と、安堂を、じろっと見乍ら、役人へ御叩頭した。
「そうか、済まぬのう」
「お供、致しやす」
 一人が、役人の手から、安堂の縄尻を取った。一人が、安堂の双刀を、役人の腰から、自分の手に移した。
 湯宿へ入ると、すぐ右側の川沿いの温泉へ子分が入って行った。安堂の縄尻をとっていたのが
「浪人衆、こっちへ」
 と、縄を引いて
「こいつあ、お預かりしておきやすから」
「逃がすな」
「見張っておりやす」
 二人の子分は、安堂を引立てて川原へ降りて行った。
「ここは涼しいねえ、御浪人」
 安堂は黙っていた。一人が
「お前さん、大層腕が立つって話だが、何うして、あんな木っ葉役人を、斬っ払って逃げなかったんかの」
「そりゃお前、役人となると、わしらでも足がすくむでのう」
 川原へ降りて、砂の中を川下の方へ、歩いて行った。川岸の上に赤々と、灯がついて、湯気が立昇っていた。粗末な浴槽の人影が、湯気の中に、ぼんやりと、板の間から見えていた。 「この辺から登ろうか、もう、曳船のにも見つかるまい」
 三人は又、街道の方へ、石ころ道を登って行った。

 新治村の安宿で、迎えの役人と二人になった。今日の内に、代官所まで急ごうと、早朝に宿を出た。
 昨日、法師で、湯に浸ったまま、汗にまみれている安堂は、着の身着のままのごろ寝の上に、一晩中蚊に刺されながら、掻く事もできなかった。
 埃にまみれ、髪の崩れたまま、寝不足の赤い眼をして、蚊ではれ上って、顔中に赤い斑点をつけながら、俯むいて、歩いていた。
 沼田へ近くなった時分、一人の旅姿の女が、急ぎ足にきた。その足と、脚絆と、裾とが、安堂の眼についた。擦れちがいかけると――俯むいている安堂の眼に、白い手と、赤い袖口とが、いきなり胸の方へ飛んでくるのが、見えた。はっとして顔を上ると
「あなた」
 と、叫びながら、誰彌が、蒼白な顔をして安堂の胸へ縋ろうとして、一人の役人の手に支えられていた。
「不届きなっ、除けっ」
 役人は、誰彌の胸を押していた。誰彌はよろめきつつ
「は、はい――」
 唇がぶるぶる顫えていたし、眼に涙が浮んでいた。
「何う――ど、何う、なされました?」
 安堂は答えなかった。答えられなかった。何んだか、女々しい涙が、胸から咽喉へつまってきていた。役人が
「除けっ」
 と、誰彌を叱って、押除けつつ、縄を引いた。一人の役人は、じいっと誰彌の顔を眺めていた。
「いいえ、暫く、――し、暫く――」
 誰彌は、役人の手へ縋った。
「ならぬっ」
 役人は、誰彌を突放した。誰彌は、たじたじとなって、ぼんやりと佇んでいた。役人は、埃の白く上る道を、どんどん歩いていった。
「ひ、一言――」
「申す事があらば、代官所へ参れ」
「はい、そ、それは、よく判っておりますが、何を為されましたか――」
「ここで、返答はならぬ」
「お慈悲で――」
「くどいっ」
 一人の役人は、口で叱り乍ら、誰彌の美しさに、じっと、眼を離さなかった。そして
「何者じや、貴様は?」
「身寄りの――」
「女房で無いのか?」
 誰彌は、何う答えていいか、判らなかった。いっそ女房と答えたなら?――同罪になるか? なってもいいが――いいや、模様によっては、すぐ江戸へ走り戻って、大口屋さんに、この話をして――
(何うした訳で、縄にかかったのか? 江戸のことが発覚したのか? 曳船屋の事か、それとも別の事でか? それを聞かなければ――)
「はい、身寄りの」
 と、答えながら、袖で涙を拭いて、三人のあとから歩き出した。村人が、ぞろぞろついてきた。
「話が聞き度くば、代官所へ参るがよい」
「お供仕りまする、この方は、縄目におかかりなされますようなそんな――そんな大それた――」
「惚れると、あばたも、えくぼと申すのう」
 役人は、笑った。通行の人々が、取乱した誰彌を、じろじろ眺めながら
「いかい、別嬪だのう。俺も、役人になってあんな女子に、袖を引かれたみたい」
 役人が、振向いて、睨みつけたのでその男は、急ぎ脚に、逃げながら
「別嬪別嬪」
 と、空を眺めた。旅人は、振返り振返り、誰彌を見ては、道を急いでいる。

「別嬪だったのう」
 と、湯槽の中で、一人が入ってきた友人に、声をかけた。
「思い出しても、ぶるぶるとする。そこで、一つ小便だあ」
 一人が、流し場へしゃがんだ。
「茶屋で聞いたら、あの浪人者は、この先の法師で、召捕になったんで、何んでも高崎辺で、人殺しをしたって話だよ」
 曳船屋は、朝湯に浸りながら、二人の話を聞いていた。
「御免なさい――」
「はい、これは――」
「只今の――」
「女の事ですけえ」
「いや、その浪人者は、二十七八の痩形の背の高い、眼の鋭い」
「さあ、女の方ばかり見とれていましたがのう。良公、男の方は、何うだったい」
「男かい――背は高かったのう」
「紋は、丸に剣花菱の――」
「ああそうそう、そう言ゃあ、そううだったのう、眼が鋭くって、ただの鼠じゃあるめえと――」
「あの女がくっつく位なら」
「いや、有難うよ」
 吾兵衛は、湯槽を出ると、褌一つで、浴衣をかかえたまま、向う側の、松吉の所へ、大股に入った。
「お戻んなさい」
 吾兵衛は、そういう子分に挨拶もしなかった。奥の間の襖の所に立って
「松吉の」
 答えが無かった。
「松吉の済まねえが、一寸起きてくれろよ」
 妾の声で
「親分かえ」
「お新さん、よく寝ていようが、一寸、起してくれろよ」
 吾兵衛は、そう言い乍ら、浴衣をきた。
「もし、もし――」
 女が、揺り起しているらしかった。
「うるせえ」
「曳船のが、一寸、用があるって」
「うう、吾兵衛さん、遠慮無しにお入りよ」
「あれっ――親分、一寸待って――」
 妾が周章てて、着物を着る音がした。
「ああ、眠い、よう寝た。手前が、夜っぴて寝かさねえもんだから――」
「いやな事、お言いでないよ」
「相変らず、仲がええ」
 吾兵衛はそう言って、襖を開けた。松吉が、床の上に座っていた。
「何んだい、早くから――」
「安堂さんが、御用になったってのう」
 吾兵衛は、こう浴びせて、松吉の顔を、じっと見た。松吉は、ちらっと、顔色を動かした。然し
「ええ?――本当かえ」
「知らねえかの」
 松吉の心は、流石に、すぐ
「知らん」
 とは、言わさなかった。
「うむ、お主や、又、何うして、それを知った」
「いろいろとお世話になったが、これからお暇だ」
「俺らを疑って居るんじゃなかろうな」
「松どん。俺ら、お前の知っての通り、ここ二日の間、この街道を安堂さんが戻って来なけりゃ、無事に、越後へ抜けたもんと思うと、昼も、夜も、店で張番していた。今朝も、早くから起きて、今日一日が大切と、今も湯に入っていると、召捕の噂だ。じっとしておれねえや、高崎へ戻るよ」
 松吉は、俯むいて、煙管をいじっていた。

[# 落し穴 おわり]