無頼一刀組

「おかしい」
 盃を置くと、首を傾けた。唇をなめて、眼を閉じつつ、暫く、何か思案していたが
「伝公――に一っ走り、斎木の所へ――うむ、口上は、のう、大口屋の剣術は、真心流じゃあねえか、俺はそう睨んだが、知らないか、と聞いて参るのだ――何うもおかしい」
 一人が、立上って出て行くと、渋川は盃を取上げた。
 荒壁のままの上に、所々、紙がはってあった。ごろついている七八人の浪人が内職にしている提灯が、床の間から、畳の上まで転がっていた。畳は、赤っちゃけて、へりが剥がれたり、襖はつぎはぎした所まで破れているし、柱には刀の傷が、生々しかった。
「兄貴が、睨んだのじゃあ、間違いはあるまい。それで、真心流なら?」
 綽名して、文覚の甚三、本名東寺甚三郎が、じっと、渋川の顔をみつめた。
「聞きこんだことがある」
「何を?」
 渋川は、微笑した。
「うむ? 誰か――安堂右馬之助と申す奴が――朋輩を斬って逐電致しておるがの。顔は知らぬが、名を聞いておる。紙屋門での手利きじゃで――今日の浪人者の身装から申せば、大した身分でもないが、手の内の冴えを考えると――大口屋の真心流の腕といい――」
 じっと考え込んで
「あれだけの腕は、そうそうあるものではない、だから、もしかしたなら、その安堂ではないかと――」
「ははは、こいつあ、耳よりだ。大口屋へ乗込みましょう」
「そうは行かねえ。町方でも呼ばれた日にや、こっちがもたぬ」
 立てつけの悪い、表戸を周章てて開けると、尻端折りのまま、伝公が
「まさしく、正真、真心流。まさしく提灯、ちんちん流」
 と、怒鳴った。
「拙者が、突留めて参ろう」
 甚三は、左手を延ばして、提灯の下から、大刀を取った。
「待て、――文覚、その代り、人違いの節は、歯の立つ対手でないぞよ」
 甚三は、立上ると、帯をしめ直し乍ら
「二度たあ、死なねえ」
「骨は、拾うてやる」
「ははは、拾うて、提灯を張るか、少し骨ばっていて、盆燈籠――」
「拙者も参ろうか」
 と、寝転んでいた一人が、見上げた。
「狐か――手前は、提灯張ってろ、河岸で、舟饅頭を値切るのと、少し、かけ合い方がちがうんだ」
 帯の前をぽんと叩いて、大刀を差した。
「えらい口だの――所で、褌は白いか」
「褌か?」
「へへっ、河岸へ行くにも、勇士は、心得て、褌だけは新に更える」
「何をっ――提灯と、どっちが長いってな面をしおって、褌をかえただけで、女にもてるか。面でも張りかえろ」
「それでは、君子危きに近寄らず、甚公だけに頼むとしようかな」
 一人は、白鳥を逆に、底に、叩きつけながら、
「文覚にゃ、熊野権現がついてらあな。帰ってきたら、うまい酒が、たらふく飲めますように。帰らないでも、飲めますように」
 甚三は
「たわけっ」
 と、怒鳴って、白鳥を、蹴とばして、出て行った。

 何うせ、あの渋川の無頼漢だから何んとか文句をつけに来るだろう、と大口屋は思っていた。
(それも、これも食えぬからだ――結局は、金だ)
 と、思うと、大口屋は
(早く来て、早く済ました方がすっとしていい)
 そう考えて、髪を直し、着物を着更え、帳面を調べていると
「旦那、参りましたよ」
「えらい早いの、一人か、二人か」
「一人で――手前、何んとか、捌きましょうで――」
「いや、わしが逢う――ここで、よかろう。万一の事もあるから、先生に、次の間へ来ていてもろうてな。ぽんと扇で畳を叩いたら出てきて頂くようにと。もう、わしは、自分から手出しするのは、懲りこりしたから」
「承わりました」
 番頭が出ると、すぐ、女中に案内されて甚三が入ってきた。挨拶がすむと、大口屋は、取引の時の手口と同じように、対手の機先を制して
「商売の事なら、大抵の大口にもぴくつきゃ致しませんが、根が気の小さい善人の事とて、すんでに殺されるかと存じまして。どうもつい、何うも――こちらから挨拶に出ようと、言った所で、手前は行く訳に行かず、番頭は尻込しますし――」
「浪人者に頼めばよい」
 甚三は、冷静に、煙草へ、火をつけた。
「ははは、あの方は、御遠方で、今、使を走らして――」
「黙れっ」
「そう、御立腹なさらずに――」
「黙れ。安堂右馬衛門いや、右馬左衛門――お手当中の者と睨んで参ったのだ」
 じろりと、大口屋の顔を睨んで様子を伺って、鼻から煙を吹出した。大口屋は、胸を、びっくりとさせたが、
「何を仰しゃいます。あの人は、和田隼人と申して、美濃様の御家中で御座ります」
 甚三は吐月峰で、吸殻を叩くと
「左様か」
 と、静かに言った。そして、左手に置いた刀を取ると
「兄分、渋川典膳に耻辱を与えられては、弟分として納めて置く訳には参らぬ。拙者の命は素より捨てる所存――直れ」
とんと、鐺を畳へ突立て、さっと、立上った。
(狂言――安堂の在否をさぐる狂言か――真実斬るつもりか」
 大口屋の頭の中が、熱くなって、二つの判断が、もつれ合った。
(畳を叩くか、叩くまいか。叩いて、安堂さんが出てきたなら、安堂さんの破滅になる)
 くるくると、狂気のように、こういう考えが、頭の中を、つむじ風のように、舞い走った。  大口屋は、半分立上って、蒼白な顔になった。甚三は
(この辺で、もう出て来るだろう)
 と、刀へ手をかけたが、誰も出て来なかった。
(居ないかな)
 と、思ったが、引っこみがつかなくなってきた。
(出入人足でも呼ぶであろう。それとも、助けてくれ、金を出すと、ぬかすか、――此奴、強情な)
 刀へ手をかけると、一足退って
「念仏を申せ」
 と、口早に言った。

(意地だ。蔵前町人の意地だ。殺されたって、ここへ先生を出してなるものか。誰か来てくれるだろう。それまでの防ぎなら)
 と思うと同時に、次の間へ来ている安堂を出すまいとして
「出ちゃいけねえ。――来いっ」
 算盤をもつと、立上って、ぴたりと襖へ背をつけた。そして、万一の時には、すぐ襖を開けて、奥へ逃げ込まれるように構えた。
「金なら、出して詫びようと思うたが、変な言いがかりをされちゃ」
 甚三は金も欲しかったが、こうまで切迫してくると、金よりも、町人風情の分際で、自分へ、ここまで盾ついてくる大口屋が憎らしくなって来た。彼の中に残っている武士の面目は、金に代えられないと、感じてきた。
(零落しても、甚三は武士だぞ)
 と、思うと、本気に斬る気になってきた。眼は、蛇が得物へかかるように、凄い殺気を放ってきて、唇が、への字形に曲った。そして、じりじりと、進んできた。
 さっと、襖を後ろ手に開けるのと、算盤を投げつけるのと同じであった。甚三は、躱した。その瞬間、襖から、奥の間へ半身を入れた大口屋へ
「ええいっ」
 どんと、畳を踏んで、手一杯、力一杯に抜き討ち――十分、と、思った右手の臂が、ぴ――んと、しびれて、二の腕から、手首へかけて手の筋が、引っつるように痛むと、次の瞬間 「うむっ」
 と、唸って、顔を歪めて、刀を取落とした。脇腹から、どかんと、胃の腑へ、肺臓へ、棒が勢いよく突上げてきて
(当てられた)
 と、思うと、咽喉がつまって、うむ、と唸ったまま、す――っと、畳の中へ吸い込まれるように感じると――家がおっかぶさってくるように――畳ごと、地の中へ落て行くように――そうして判らなくなってしまった。
 大口屋は、床の間の所まで、一飛びに走って、刀を取上げると
「御主人」
 と、安堂の声がした。振向くと、安堂が立っていて、浪人が倒れていた。
(斬ったか)
 と、ひやっとしたが、安堂の手に刀が無かったので
(早業)
 と、思うと、尊敬と、感心と、うれしさとが、こみ上げてきた。そして、口では物が言えないので、首を振った。
「やりましたね――旦那、御負傷は」
 と、番頭が、入って来た。手に棒をもっていた。廊下の外に、出入人足らしく、六七人も動いていた。
 大口屋は番頭へ、首を振って、眉をひそめた。廊下の人足を追出せという合図であった。重兵衛は頷くと
「さあ、行った。お旦那一人で、結構だ。行った、行った」
 と、押出してしまった。
「安堂様、暫く、お身体をお隠しなさいませんと、嗅ぎつけられました」
「うむ、旅にでも参るか」
「いえ、こういう事もあろうかと、もう一軒隠れ家が御座います。すぐ、お供致しましょう」
「これは――雷公が、後方からぶった事にして、辻番所へ引渡すか、駕で送らせるか」
「金子を添えて――斎木先生から一つ話をつけさせましょう。とにかく、その隠れ家へ」

 呼び立てられてきた斎木先生は急ぎ足に、奥へ入った。雷公は、店の土間で人足と、小僧を前にして「こう見えても、柔術は、うめえもんだ。どんと、こう突くと、ねえ、番頭さん、一遍に野郎すぐでんぐら返っちめやがったなあ」
「いつも、雷公め、やられつけてるからの」
「おや、妙なことを吐かしたな」
「河岸の地獄に、いつもこれだ」
 と、一人が臂で突く真似をした。
「笑あかしゃがる。一ぺん、拝みに来い、雷ちゃん、おまはんお臍がすきだろうって、臍までなめさしてくれらあ」
「手前が頭から、なめられた間違えだろう。うどの大木め、すっかり皮を剥がされて、しゃぶられてやあがる癖に」
「でっぷり肥って、色の小白い所あ、うど、そっくりだ。羨ましいか」
「ぷっ、色が小白いってやがらあ、手前なんざ、色のうちなら、ばば色だ」
「そうとも、ごぼう色で、中に穴があいてがらん洞だ」
「同じばば色でも、犬の糞の方だ」
「ちょっ、店先で、汚ねえ事を、大きな声でいうな」
 と、番頭が、睨んだ。小僧が
「来た、出てきたっ」
 と、口々に、呟いた。暖簾を分けて、斎木が、顔色の悪い甚三の横に添うて
「皆除けっ」
 と。怒鳴った。小僧が、走って逃げた。人足達は、一寸後方へ寄った。重兵衛は、土間へ降りて、斎木の蔭から
「何分、何うか」
 と、丁寧に、頭を下げた。
「とにかく、同道して参る」
「よろしく、お頼み申します。やいっ、雷公、謝罪れっ。此奴も、主人思いの一心から、御無礼を働きましたような次第で」
 重兵衛は、二人の背後から、つづけて叩頭した。
「雷公」
 と、甚三が睨みつけて言った。
「何?」
 雷公は、勢いよく、喧嘩腰であった。
「その方か」
 甚三が睨んだ。
「へっへ、この方だ。睨んだって、ぴくっともするもんじゃあねえ。旦那の様な弱い人をいじめずと、喧嘩するなら河岸の河岸人足としてみろ。お粥浪人のひいひいたもれと喧嘩して、退けを取るような――」
「黙れっ」
 と、斎木、怒鳴った。
「黙りやすがね――此奴ら、浅草辺で威張っているように、蔵前じゃ、通用しねえんだ。さあ、といや、命知らずの三百や、五百、立所に集まってくるんだ」
「雷公」
 番頭が叱った。
「へいっ」
 雷公が頭を下げた瞬間、甚三の手が、雷公の頬へ閃めいた。斎木が
「これっ」
 と、止めた。その途端
「このままじゃ戻れねえんだ」
 甚三はこう叫ぶと、土間へ仰向きに、寝てしまって、大の字になった。

 甚三が、土間の真中へふん反り返ったと同時に
「頼もう」
 と、侍が、声をかけて、表に群がっている人足の横から
「主人は、御在宅かな」
 と、押分けて出てきた。
(渋川?)
 と、重兵衛は、顔色を変えたが、言葉も、様子もそうらしくも無いので
「何誰様で御座りますか。只今、生憎と」
 斎木伝太左衛門は甚三の肩へ手をかけ乍ら
「これさ、ここはこのまま――」
 又、後に、手段があると、眼で知らせながら、
(受取った金の高を言えば、甚三め、おとなしく戻るであろうが、何んとかして、半分位は俺が胡魔化さんとて――)
「戻らねえ」
 と、甚三は、髻を、土まみれにして、裾も襟も乱し乍ら怒鳴った。
「如何――致した」
 と、侍が、聞いた。重兵衛は、揉手をして、笑った。雷公が
「へえ、野郎、言いがかりをつけに参りやしてな」
「誰奴でも――役人でも、何んでも呼んで来いっ」
 と甚三は、両手で大地を叩いた。
「人足の仕業などと――人を盲目だと思ってやがるか?――俺に当身を喰らわしたのが、お尋者の安養寺――じゃねえ。安――だ。馬だっ。出せっ、そいつを。人殺しの咎人をかくまった大口屋っ。さあ、だせっ――役人を呼べっ――こ、この家は欠所に成るぞ」
 甚三は、眼を閉じて一息に喋った。
「たたんじめえ、野郎っ」
 と、一人の人足が真赤になって絶叫した。斎木が、大手を拡げて
「待てっ」
 と、叫んだ。人足が、踏込んできて
「こん畜生っ」
 一人が甚三の頭を蹴った。
「うぬっ、何をする」
 斎木が、その人足の肩を突いた。
「手荒い事しちゃいけねえ」
 と、重兵衛が、店の間で、両手を振って人々を押えようと、怒鳴った時
「皆殺しだっ」
 甚三は、さっと立上ると、斎木が左手に抱えていた自分の刀を奪い取って
「用捨せぬぞ」
 狂的の眼。怒りに顫えた唇。人足共はどっと表へ、退くと共に、すぐ、口々に罵り乍ら、石を、棒を手にした。
 甚三は、刀を抜いた。斎木は
「待て、甚三」
 と、甚三の手を押えたが、甚三が力任せに振切る力に、手首を撲たれて、顔をしかめた。甚三は
「その人足っ」
 雷公は甚三の眼を見ると、棒を振上げた。
「うぬっ」
 真向から、甚三の刀が、雷公へ斬込もうとした横から
「待やれっ」
 左手が、肩を押えると、右手で、手首を握って
「静まりなされ」
 甚三は、その侍を睨みつけた。
「離せっ」
 手を振り乍ら、左足で、侍の股間を蹴り上げると
「無法な」
 手首を、内部へ、ぐっと折り曲げて、甚三が痛みに、身体を延ばした所を、左の跳腰、脚を払って、腰へかけて、一振するとどっと抛出した。
 人足が、わ――っと囃立てた。

 土間へ寝転んで、髻も、着物も土まみれになった甚三は撒水の中へ、又抛げつけられて、顔から、肩、背と、泥だらけになった。
 抛げつけられて一つ、はずみをつけて起上った甚三は、もう、凶暴な獣のようであった。人も、自分も、考えも、――何も無くしてしまって、一つの憤怒の固まりだった。
 その凄い顔色を見ると同時に、流石の荒くれた河岸人足も、どっと乱れ立った。番頭は、もう黙って、いつでも奥へ逃込めるようにしていた。
「近頃っ、無礼な」
 斎木が、唇を噛んで、怒鳴った時
「斃ばれっ」
 きえ――っと、風を切ってきた打下ろした甚三の刀、――斎木は
「危いっ」
 と、眼先へきたのを躱した瞬間、――いつ何うして持ったのか、その侍は、人足の棒を手にしていたが、さっと躱して、流れた甚三の刀の向背を
「此奴っ」
 かあーんと、響いて、からんと、折れた刀が地に落ちるのと、甚三の掌がしびれて、残りの刀を取落すのと、同時だった。
「来た、来た」
「お役人様だ」
 と、人足が叫んだが逆上している甚三には、気がつかなかった。よろめくと、歯を剥き出して、侍に両手を突出してつかみかかった。
 人足の開いた道を、急ぎ足に出てきた役人が
「待てっ」
 と、二人の間に十手を入れた瞬間、獰猛な、突を侍の咽喉へくれて、同時に跳びかかった甚三。役人が
「待たぬかっ」
 力任せに、一人が、甚三の肩を突飛ばした。甚三はよろよろと、よろめいて
「何をっ」
 もう侍も、役人も見堺がつかなくなっていた。
「甚三」
 と、斎木が叫んだ時、甚三と、二人の役人とは、地上へ転がっていた。泥水の中で、甚三に顔を引掻かれた役人が、つづけざまに甚三をなぐっていた。甚三の鼻が、頬が、擦り剥けて血が流れ出した。
「殺せっ、さあ、殺せっ、一刀組の文覚甚三を知らねえかっ――殺せっ」
 と、叫んでいる内に、手首に縄がかかった。甚三は(役人か?――しまった)
 と、思ったが
「立てっ」
 と、腰を蹴られると、見物の手前、弱根が吐けなかった。
「立てえ? 立てねえや。引擦って行ってくれ。うぬらに手込めにされて――」
 と、まで言った時、一人の役人が、甚三の髻を掴んで
「立たねえか」
 と、ぐいと引張った。
「痛てえ」
「立てっ」
「立たねえ」
 重兵衛が、
「お役人衆、車で」
 甚三は、血まみれになった顔で
「覚えてろ」
 と、重兵衛を睨みつけた。
「はははは、番頭に罪はない。拙者を恨め」
 恩地作十郎は微笑して、甚三を見下ろした。人足が、荷車をもってきた。

第二の隠れ家

「誰彌」
 と、大口屋が裏木戸を叩いた。すぐ
「旦那?」
 と、答えた。裏は名もない明神の境内で、子供の遊び場所で、左手は大泥溝、右は町家つづきになっていた。木戸を明けて、誰彌は、外をすかしてみて、大口屋へ御叩頭をすると、その後方に立っている安堂へ
「おや」
 と、笑って、小腰をかがめたが、思い出せぬらしく、一寸照れたように、大口屋に
「ま、裏から、仇し男のように」
 大口屋は、素早く入って
「頼みがあってのう」
「どんな?」
「二階は、誰も――」
「あい」
 庭から、座敷を抜けると、薄暗い所に、階段があった。階段を登ると、三部屋の二階になっていた。
 誰彌の部屋には、朱塗りの長持、金屏風、鏡、手函、火鉢などが、紅と、金とに彩られてあった。
 安堂を坐らせて、大口屋は、下で、何か言いつけているらしい誰彌へ、階段の隙間から、首を延ばして
「誰彌――内緒ごと」
 と、低く言って、手招きした。誰彌は振向いて
「まるで、色事のような」
 と、下から見上げた。そして笑い乍ら、登ってきた。部屋の中に安堂が、膝を揃えているので、廊下から
「お越しなされませ。何処かで、お見かけ申しましたが? 確に――」
 と、首をかしげた。化粧をしていない誰彌は、少し、色の小黒い肌をしていた。安堂は、微笑した。
「手前も、何っかで、見掛けたようだが――」
「誰彌、罰が当るぜ、おい」
 と、大口屋が言った時、誰彌の頬が、ほのかに赤くなって、膝を叩いた。
「まあ、飛んだ御無礼を――ほんにあの時には」
 と、丁寧に、両手を突いた。
「まあ、忘れて成らない方をお忘れ致しまして」
 と、誰彌は、理智的な、少し険のある、だが、大きい、色っぽい眼で笑った。
「こちらからお礼に参上致します所を、ようこそ――」
「急ぐから、誰彌――ここへ入るがよい。話ができん。――かいつまむと――これは、御前の気性を見込んで、わしが、頼む話じゃ。あの翌る日――」
 と、大口屋は恩地作十郎の殺人から、安堂右馬之助の友情、一刀組との喧嘩を話して
「ここなら、人も少いし、丁度よい隠れ家だと、実は、わしの家へお招きする時から、ここの方がよかあ無いかと、考えていた位だが――、何んとか、婆さんを胡魔化して」
 俯むいて、手を膝に、じっと聞き入っていた誰彌は、はっきりした二重瞼の眼をきっとさせて
「身にかえて」
 と、大口屋を凝視した。
「そう言ってくれれば安心――婆さんは?」
「妾の身に代えてで判りましょう。千彌も口止めしておけば堅い子、心配なさんすな」
 誰彌は、こう言った時、自分の招かれて行く邸――そこの誰よりも、安堂が武士らしいと思われた。
 誰彌を、手に入れようと、自分のえらさを誇張したり、金に飽かそうとしたり、いろいろな手段をとったすりる武士らしくない振舞をする人ばかりだのに広い士の仲間には、友人の殺人の身代りになる人もあるか、と思うと、胸を押されるようであった。

「つくづく踊子家業は嫌で御座んす」
 誰彌は、花菱の朧染の袷に、甚吾紅に八重橘の刺繍をした帯をしめていた。
「武家、町家の人は、踊子風情と頭から一口に卑しめるが――。然し何んな女でも、内心では亭主の外に、好きな男をもちたいと、一生に一度か、一年に一度か、一月に一度か、とにかく、時々思うものじゃ。然し世間の掟は、或は子供に、生活に縛られて、中々そうはようせぬ。それを御身達なら、自在にするから、半分は羨ましいし、半分は世間の教えを踏にじるのじゃから、卑しいとか、何んとか評判はするが、心へ入ってみると、誰しものろまの醜男の亭主より、働きのあるいい男がよいものじゃ。男と申すものは、幾人でも女子をこしらえるが、新しゅう出来た女は、大抵、前の女よりも、何処かよい所がある。女も、それと同じで、男を知り男を見る眼ができて参ると、男のあらも判り、今添うている夫より、もっと、値打ちのある男と暮したいと思うのは、人間自然の理前じゃ。踊子なら、それが自由にできる。わしは、踊子の方が仕合せだと思うのう。ただ、踊子には馬鹿が多くて、男の値打ちが分らぬて――大抵金に眼がくれてのう。わしらの貧乏侍は――」
「ほほ、あたしは、安堂様なら、五百石で召し抱えますがな」
「はははは大名、旗本などは又、御身達を、金と、力づくで、何うでもなるものと、思うているらしいが、これも嫌であろうな」
「さ、それが、何よりも辛う御座んす。世間並、人間並にお扱いにならず、何とか申せば、首を抱えたり、悪ふざけをなされまして、金で自由になるものとばかり――こちらに本当の恋心があっても誰も、踊子扱いにして、真実の恋などして下さる方が御座りませぬ」
「そうかのう。――時に踊は美事であった」
「恐れ入りまする」
 誰彌は、軽くお叩頭をして、笑った。
「いや、あの踊りの間少しも隙の無いのは武芸から見ても、余程、出来るものでないと、ああは行かぬものじゃ。感心した。ただ、惜しい事には、踊り終ると、八方隙だらけになる。ここが、武芸者とちがった所じゃ」
「そうで御座りましょうな。踊っておりまする間は、ただ夢中――踊りが済むと、やれやれと、思いまして」
「左様、武芸者は、いつも、その、やれやれを、思わぬ。こうしておっても、踊っている時の心――四方に敵がおる。いつ死ぬか判らぬ、と、そればかり考えておる」
「窮屈では、御座りませぬか」
「いいや――よし窮屈であろうとそれが人には大切じゃ。嬉しいにつけ、悲しいにつけ、苦しいにつけ、それを心にいつも受けてじっと考える、苦しい事があっても決して落胆せずに、明るい心をもって――、何故自分が苦しむのか、誰がこう苦しめるか、自分が悪いか、世間が悪いか、それを考えると、だんだん世の中の物事がはっきりと判って参る。当流の奥義もそれじゃ。剣の極意は外に見えた敵を斬るのではなく、内におる心の非を切って心眼を明かにする所にある。仮令ば、御身など、王侯、貴人の前では踊を踊っても恐れまいが、踊の上手に見ておられては踊れまい。即ち己の心に、技に、非があるからじゃ。剣では怯じると敗れるとしてあるが、踊も怯じては踊れまい。水城殿の前で誰一人眼中になく踊った意気。身共もああなり度いものじゃ」
 安堂は、誰彌の知っている誰よりも、誰彌に対しては、真面目であった。誰彌の心を知っていた。誰彌を踊子と軽蔑しなかった。誰彌は、安堂が、旗本の五百石取位ならと思った。だが、身分の低い安堂に対して、大身の旗本以上に、尊敬と、信頼とをもっていた。親切な、いい兄のように思った。
 安堂は、木剣を振りに庭へ出るのと、便所へ行くのの外、一日、黙々として、部屋の中に坐っていた。
 誰彌は、招かれて行く座敷の、何ういう話よりも、安堂と話をしている方が、快よかった。恋ではなかったが、親しみと、尊敬と、信頼とを、日増しに感じてきた。婆さんが
「いつまで、あの侍をあずかるんだい」
 と聞いた。誰彌は黙って返事もしなかった。

「ねえ――安堂様」
 と、誰彌は、少しばかり酔っていた。
「あたし達――踊子家業の女は、さぞ、卑しゅう見えましょうなあ」
「左様――そう見る人もあり――又、見えぬ女もあり――」
「あたしは?」
「見えぬ」
 誰彌は首を傾けて、微笑しながら、じっと、安堂の瞳を見つめて
「同じように、操を、破っておりましても?――妾は、どっちに見えましょうか?」
 半分は戯談であったが、半分は本気に、安堂の返事を聞きたかった。惚れているのではないが、そういう女の大事に対し何う考えているかを知りたかった。
「操?――操と申すよりも、生娘でない、と申した方がよいのかのう」
 安堂は、じっと、正面から、誰彌の顔を眺めた。何故か誰彌は、そうして見られると上気してくるような気がした。
「四十になっても、生娘である、と、自慢している女があるとして、世間では、よく、それまで、操を守っていたと称めるか、但しは馬鹿と申すか」
「さあ――」
「生娘としての値打ちは、二十四五歳までであろうがな」
「ええ、まあ、その位――」
「何故じゃ――何故、七十の婆になるまで、生娘を守っているのが馬鹿で、十七八に限って生娘でおらねばならぬのか」
「本当にねえ」
「つまり、男が、生娘を喜ぶからで、生娘そのものの値打ではあるまい。生娘そのものが尊いなら、七十の生娘も尊い筈じゃ、それに世間では小野ノ小町じゃと笑うであろう」
「では、――男が、勝手に、女の値打をきめたので御座りましょうか」
「左様」
「では、女が、勝手に破っても、よろしゅう御座いますか」
「よい」
 と、安堂は、大きく頷いた。
「でも、余んまり――」
「いいや、余んまりでも、何んでもない。齢頃になって、一番、娘心に感じる事は、男と、申すより恋の欲しい事じゃ。無闇に欲しゅうなって、手近い男だと、少々馬鹿とでもすぐ恋をする。対手を、十分に選ばずとすぐ、恋をする。男も同じじゃ。然し、それでは、男の悪い所も、よい所も十分とは判らぬ。だから、親が聟をきめてくれるが、きめてくれた聟の正体も、生娘では判るまい」
「全く――妾の、その頃も、こういう家業をしておりながら、本当に殿方の事は、心持ちさえ判りませんで御座んしたもの、ただ、好きか、嫌いかだけで」
「それの判ったのは?」
「さあ――だんだんと、男の数を経てくるにつれて」
「肌を許して?」
「はい」
 と、低く答えた。
「そこだ。肌を許さぬと、本当に、男と申すものは、正体を現わすものではなかろう。中にも、踊子通いをする奴は、狐、狸、むじなの類じゃから。肌も、一度や、二度では、中々現わさぬが、その内に、追々と、化の皮を現わして参るが――つまり、操を許さぬと、本当の事は判るものではない」
「貴下様も――」
「無論――肌を許してから、お互に、我儘も、出るし、醜い所も判るが、それで、一つ一つ利口になるのじゃ。踊子に操が無いと申すが、町方の女よりは、男だけは判っておろう。それでよいのじゃ」
 誰彌は、暫く、俯いて考えていた。

「では――浮気は」
「はははは、男がしてもよいなら、女もしてよいであろう」
「然し、殿方と、女とでは、ちがいましょう」
「拙者は、親代々四十石。人並の剣道を心得ておっても、知行の上ることがない。だから、思い切って、旅に出て、今少し、剣で、図抜けたい心願じゃが。つまり、男の浮気かな」
「それは、巧名心で、結構なものでは御座りませぬか」
「女の浮気は知らぬが、男の浮気と申すものは少し身勝手じゃが、一理がある。わしの知行は、親代々四十石じゃが、剣術は、いくらづつでも上手になる。所が、女と申す者は、男と一緒になった初めこそ、慎しんでおれ、男はいくらかづつ日が経つと、えらくなるが女はだんだん馬鹿になる。馬鹿にもならんが、男と同じように少しづつでもよくなって行かぬ。却て慎しみがなくなって、いろいろ化けの皮を現わす。それで、男が、えらくなれば、なる程女に愛想をつかして、他の女に心を寄せると、まあ、身共は、そう思うがのう」
「ほんに、踊子の内は日髪、日化粧していても、町家へ行くと汚くなったり――それに、女の浮気と申しますと、下らぬ端下ない男に惚れて――」
「はははは、立派な殿様が、腰元へ手をつける事もある。物のはずみでもあるが――女の浮気と申す物は、男より拙いのう。浮気するならば、まあ名のある人とでもして置けば無事か」
「名のある方は、恐ろしゅう御座んしょう。外の女子衆も又すてておくまいから――」
「人によろう。それよりも御身達の中で、一番恐いのは、ただ子が欲しい一念で、下らぬ男と一緒になりたがるんじゃのう。子が出来ると、その男とできぬ辛抱までしても、子の可愛さに男と別れないが、こういう子に限っていい子供は無いし、女の為にも、男の為にも、よろしゅうない。子のできてよい――この男の子なら立派な子が生れよう、出来てよいと思うまで、子を儲けてはならぬ」
「そう自由には――」
「いや、踊子共は、人一倍に、子を可愛ゆがるが、つまらぬ男の子をもつという事は、一生の不作じゃぞ。母もくるしむ、子も苦しむ、男も嬉しがらぬ。そして、あったら、男の盛りを、子供に苦労するが愚な事――だから、みだりに浮気はせぬがよい。いや、これなら、と思う男と添えるまで、せいぜいふわふわと浮気をして探すがよい」
「有難う存じまする」
 と、誰彌は、仰々しく、両手を突いて、礼を言った。安堂は、腕を撫でながら
「そろそろ、身も、旅に出ようかの」
 旅に出る、と、言われると、誰彌は、何んとなく、心の苦しく、淋しくなるのを、感じた。
(恋であろうか)
 と、身体中を、熱くした。
(いいや、そうではない。ただ、頼もしい、男の友達――)
 ただ、話をしていると、楽かった。添おうとか、共寝とか、そんな事は、少しも考えていなかったが、旅と聞くと、胸が、じんと高鳴りして、暗い蔭が、頭の中一杯に拡がってきた。少女が
「内藤様から――」
 と、までいうと
「病気だと、断っておくれな」
 と、答えて
「すっかり、意見をされて、酔いが醒めました――お酒を――」
 と、下へ降りて行く、少女へ、声をかけて
「少し頭が重いから、迎え酒を――」
 誰彌は、安堂に笑いかけた。

「旅に――未だ、危う御座んしょう」
「いや、いつまで経っても同じ事じゃ。世話をかけても済まぬ」
「此の家が、お嫌で御座んしょうか」
 誰彌は、盃をさした。
「此の家か――いつまで居ってもよいが、わしにも心願がある」
「江戸にも、名人、上手が居られましょう」
「江戸の方々へは出入出来ぬでなあ。わしは、越中へ参って、富田流を究めてみたいがの」
「富田流?」
「富田越後と仰しゃる。柳生様は、刀一本で一万三千石じゃが、この人も、刀一本で一万二千石じゃ、小太刀に精妙さがある」
 誰彌は、じっと盃を見乍ら、俯むいていたが
「いつまで居ってもよいと、仰せられましたが――」
 と、さぐる眼で、心持ち、唇を噛みながら、じっと、凝視めた。
「左様、偽りなく申さば」
「と、いうお心は――此の家とそれとも妾と一緒にいつまでもと――」
 安堂は微笑して
「さあ――その答えは、何んと申してよいやら」
「では――」
 と、誰彌は、笑いながら
「夫婦には?」
「はははは。青傘組の誰彌が痩せ浪人と一緒になったと申しては――」
「痩浪人?」
 誰彌は、片手で、打消して
「妾の眼からは全裸にしても、十万石の値打ち――」
「らちもない」
 誰彌は、俯むいて、笑いながら
「口説いて――それでは、振られましたのかえ」
「いいや、その心が真実なら、身共も、一つ考えねばなるまいが、武士として、知行一石さえ無く、女共に養われては、ちと、面目が立たぬでのう」
「そんな面目はお棄てなされませ」
「面目、痩我慢、意地――そなた程の女に惚れぬ男もあるまいが、惚れれば惚れる程、この身が苦しゅう成るからのう」
 幾人かの男を経て来た誰彌は、あまい言葉、悲しい言葉、憐みを乞う言葉に飽き飽きとしていた。
「では、安堂様、お訊ね申しまするが、妾を、信じて下されますか」
「何を?」
「旅の間――」
 と、言いかけて、流石に少し赤らんで、言い淀んだ。
「旅の間は?――身共には旅の間に、何んなよい女子ができるか知らんて、はははは」
「それなら、お祝申しまする」
「しかと」
「げんまん」
 と、酔っていた誰彌は、小指を出した。二つの指が、からんだ。二人の小指の先に、二人の全身の情熱が――、二人の一切の言葉が含まれていた。
 二本の指は、肌と、肌とを解け合わせてしまった。血管が、血管とつながって、二人の血が、一つに流れているようであった。
(じっと、抱きしめてほしい)
 と、思ったが、そんな事は言えもしないし、しも出来なかった。二人は、悪戯している子供のように、高く笑って、指を離したが、指と指とは、完全に二人をつないでしまっていた。 「とにかく、大口屋にも、話し、恩地にも逢って、旅に出よう」
 と、しんみりと、安堂が言った。そして、お互に、ちらっと眼を合わすと、すぐ外らした。

「一寸、ここへ参れ」
 と、恩地作十郎は、女房の、真弓を呼び入れた。
「もし、わしに、万一の事のあった時――」
 こう言い乍ら、女房の眼、唇、頬――少しでも動いたなら、それを読もうと、じっと見ていた。
「見苦しく、取り乱さぬようにしてもらいたい」
「心得ております」
「不意の口論、喧嘩――又、果し合い、乱暴者、いつ果てるか、武士の命程計られぬものはない」
 真弓は、夫と同じように、夫の表情を眺めていた。そして
「御自首なされますか」
 作十郎の顔に、驚愕の陰が閃めいた。
「存じておるのか」
 と、言葉は、然し、静かであった。
「はい、その日の御様子、その日から、いろいろと物の御処置。とうから、さてはと、存じておりました。その時から――」
 じっと、俯むくと
「もしか、子の可愛さに引かされて――」
 と、言うとだんだん声が、細くなって行った。
「武士らしからぬお心根と、幾度か、申そうかとも存じましたが――坊が、可愛ゆう御座りまして――坊が、何うなることかと、それを考えますと、つい、心が鈍り」
 涙ぐんだ声になってきた。
 作十郎は、子供への愛よりも、母親への不憫さよりも、それを知り乍ら、今日まで黙ってきた女房の心に対して、尊敬と、不憫さとを、しみじみと感じた。
「よく申した」
「蔭ながら――お手伝い申上げました」
 殺人の日から、諸道具を売ったり、僅かの衣類を金にしたり――それに対して、作十郎は、いろいろな理由をつけていたが、何一つ聞かずに、高く売ろうと――自身で知人へ、道具を売りに行ったりした真弓の態度が、始めて判った。
「苦労をさせた」
 と、作十郎は俯むいた。抱きしめて、その涙に濡れている頬を愛撫してやりたかった。
「そして、安堂様は、只今――」
「大口屋と申す所に居ろう。未だ旅には出まいが、番頭共にも秘してあると見えて、此の間も訊ねたが、存ぜぬ、知らぬで――まさか踏込めず、只今から、もう一度参ってみるが、安堂が、旅にでる、出ぬに拘らず、お重役方へは、わしの仕業と、申し上げる所存じゃが――」
「左様遊ばしませぬと、小身ながらも、恩地の家が汚れまする」
「安心したぞ。真弓」
 作十郎が涙を浮べて、じっと、唇を噛んでいるのを見ると、真弓の胸の中から、湯のたぎるように、悲しさと、涙とが、喉咽へこみ上げてきた。
「はい」
「国許へ、三人の事を、くれぐれも、それとなく申して置いた」
「いえ。妾にも、子供を育てるだけの手立ては御座ります。御安心なされませ。もしもの時には、お国許のお邪魔にも上りまするが、貴下様が御最期を遂げなされて、すぐ、世間から後ろ指をさされるようなことは、決して致しませぬ。立派に、江戸で――家中の方々の前で、坊を育てて参ります」
 口ごもりながら、固い、明かな決心を聞くと共に、作十郎は、いつ死んでもいいと思った。いい友人と、いい女房とをもった自分の幸――又は、不幸に就いて、満足と、名残おしさと、矛盾したものを感じた。

 夜は、遅くも無かったが、早い方でも無いらしかった。鐘も、太鼓も聞かなかったので、刻限は判らなかったが、町家は、飲食店の外、戸を卸ろしていた。
 飲食店も、油障子から、薄暗い灯影が洩れているだけで、人通りが無かった。夜鳴うどんの呼び声――それから、野良犬の吠える声だけは、町中の方々に起っていた。
 蔵前の河岸は、真暗で、すかして見ると、帆柱だけが、星明りの、ほのかな空に、見残した夢のように、ぼんやりと、その影を立てていた。そして艚音と、船べりをうつ水の音だけが、その闇を破っていた。
「頼もう」
 答えが無かった。
「頼もう」
 軽く、戸を叩いた。小窓の障子が開いて
「誰何?」
 と小僧が言った。
「大口屋が御在宅なら、恩地作十三郎が、お眼にかかりたいと、取次いでくれい」
「はい暫く、お待ちを――」
 恩地は、窓が閉まると同時に、街路の方へ振り向いた時、すぐ、二三間の所に、黒い影が、自分を目ざして、居合腰に寄ってくるのを見た。
 足構えを直して、戸へ鐺を当てまいと、一足踏出して、身構えると
「覚えてたか」
 聞慣れぬ声、見覚えのない姿――ではあったが、この前、一人の無頼漢を懲らしめた事が、すぐ、閃いた。
(あの痩腕で――)
 と、思うと
(彼奴なら、恐ろしくはない)
 じりじりと、音もなく、刃を迫らせてくる人影へ
「無頼め、未だ懲りぬか」
 と、低く、言いつつ――じっと、気合いを計っていた。
「甚三、手間取るな」
 と、すぐ、横の軒下から、ちがった声がした。
(二人?)
 と、思った時
「お待たせ致しました。何うぞ」
 と、小僧が叫び乍ら、ぴたぴた草履の音をさせて、大戸の鍵を外すらしく、かたかた鳴らした。
「お出か」
 と、口で答えたが、全身は、敵に対して、警戒していた。戸が開くと
「ああっ」
 と、小僧が叫んで、そのまま、走り込んでしまった。家の中に、急に、人の足音と、物音とがしてきた。
「人を斬るのはこうだ。甚三」
 と、落ついた声がすると――閃めいてくる白光――躱した刹那、眼前の一閃、電光の如く瞬間に消えると、その次の瞬間には、頭の左を、がんと、撲られたように感じた。
(斬られた)
 と、思うと、急に、四辺が真暗になった。背中が、どんと戸に当って、戸口から、土間へ転げ込んだ――然し、土間に倒れたのは、もう感じがなかった。恩地は、遠くなって行く頭で
(真弓――、安堂)
 と、二人の顔を、ちらっと、させたが、すぐ、一切が判らなくなってしまった。

「旦那様、只今、お目にかかりたいと参られたお武家衆が、表口で、お斬られなさいました」
 番頭がい廊下から、障子を開けて、首を突込んだ。
 奈良の古寺にあったという、唐物の古机の上で、香を聞いていた大口屋は、すぐ立って
「傷は?」
 と、言いながら、廊下へ出た。
「何うも――駄目らしゅう後座んすが」
 大口屋は、小走りに、母屋を抜けて、店の間へきた。
「お医者は?」
「今、走らせました」
「履物――馬借で一疋、早い所――斬った奴は誰だ?」
 恩地は半分外に、上半身を土間に――頭から頬へ血に染んで、白い眼を微かに開け、口を少し開いて倒れていた。
「さあ、誰で御座んすか――常吉」
「へい」
 常吉は、まだがたがた震えていた。下から、おずおず大口屋を見上げて
「刀が、旦那様、きらっとしたので、夢中で、こう眼をつむって」
 大口屋は、苛々しながら
「人足は?」
「追っかけて行きました」
 馬の鈴が、忙しく鳴って、
「参りました」
 と、小僧が、死骸の脚下を、恐ろしそうに跨いで入った。大口屋は、開けた格子戸から外へ出ると
「丁度よい折で」
 と、馬子が、馬の口を引いてきた。真っ白な馬であった。
「牝じゃあねえ」
 白い馬が、吉原通いに、喜ばれている時代であった。
「何うなさいました」
「何んでもない」
 足音と、人影が入乱れて近づいてきた。
「雷公」
 と、大口屋が叫ぶと、一人が、急いで、走り抜けてきた。
「判ったか」
「あいつらで御座んす。一刀組」
「渋川か」
「何うも、この暗さで判りにくう御座んすが、それより外に御座んすまい」
 と、答えた時、人足が七八人、お叩頭をしながら
「お一人では、危う御座んすよ」
「二三人、ついて走ってくれるか、一寸、行かねばならぬ所がある」
 小僧二人の後方から、米斎が、薬箱らしいものを小脇に抱えて、走ってきた。
「米斎先生、頼んますぞ」
「おお、これは――えらい騒ぎで」
 と、立留まった時、近所の人々、他の人足、町内の若衆達が、だんだん表口へ集まってきた。大口屋は馬を急がせて、人足と共に、南の方へ走り出した。
「野郎めっ」
 と、雷公も、外の者も、棒をもって、馬の横を走った。犬が、七八疋も、吼えながら、ついてきた。
「こん餓鬼」
 と、雷公が、一番大きい犬を、力任せになぐった。犬は悲鳴をあげて、くるくる廻ると、倒れてしまった。
「無茶するな」
 と、馬上から、大口屋が振返った。

「安堂様、恩地様が、やられました」
 安堂は、睨むような瞳で、大口屋を見た。
「やられたとは?」
「手前の家の前で――何うも、渋川一味らしゅう御座んすが、こう――これから」
 と、頭から耳の上へ手で、傷所を示して見せた。
「死んだか」
 と、落ついて言い乍ら安堂は、琴を立てかけてある床の間、人形と、玩具とを、いろいろ座蒲団に座らせ飾りつけてある床の間から、刀を取った。
「行かっしゃる、おつもりで?」
 安堂は、刀をさして、立上った。
「安堂様、検視役人が参りまする。医者も、大丈夫――とにかく、死ぬか、生きるか、手前ももう一度戻りまして、お知らせ致しますから、今、行っては役人が、何処で何うお顔を知っていて――」
「息は?」
 と、安堂は、立った儘であった。
「絶えておりまする」
「脈は?」
「さあ、触るも、触らぬも、すぐさま飛んで参りました次第」
 安堂は黙って、部屋を出た。
「危う御座りませぬか」
 安堂は、段梯子を下りながら
「大口屋、二度とは死なぬ」
「然し見す見す」
 と、大口屋が、中段で、言った時、足早の安堂は、土間へ降りていた。
「おや、もう、御戻り――只今、お茶を」
 と、婆さんが、段簾を分けて、首を出した。大口屋は、追いすがったが、安堂が、外へ出てしまっているので
「安堂さま」
 と、叫びながら、跣足のまま、土間から、入口をくぐって往来へ出ると、もう乗ってきた馬は、安堂をのせて走り出していた。
 大口屋は、舌打ちして
「止めねえかっ、間抜けっ」
 と、怒鳴った。
「おやっ、あん畜生っ――泥棒で」
 と、叫ぶと、雷公が、走り出して
「泥棒っ」
 と、吼えた。
「馬鹿っ、雷公っ」
 と、大口屋は、雷公に、追いつくと、背中を突きとばした。
「ええ?」
「何を吐かす」
「へえ」
「間抜けっ」
 と、雷公を睨みつけておいて、大口屋は、裾を端折端折、走り出した。雷公が
「妙な晩だ――野郎っ、ついて来ねえか」
 人足が、走った。
「何んだい、あの二本差しゃ」
「止めねえか、間抜け、と、来たので、てっきり泥つくだと思ったら、これが又、間抜けっ、ときやがらあ。へへん間抜けが二つで、ふた間抜け、ちょん髷結うのが、頭の毛ってんだ、なあ、馬子」
「洒落がうめえな、見かけに似ず」
「何を、こきゃがる、馬の糞、今の侍は、安堂ってんだ。往来が暗いから、真先に、行燈が走ったんだ。往来安堵の為にな――」
 四人は、大口屋のあとから喋り乍ら――だが、大口屋の身を大切に考えて、棒を握りしめ乍ら、走りつづけた。

兇変来

(死なしてはならぬ――死んでくれるなっ)
 と、馬上で、安堂は絶叫した。
 今、人手にかかって殺されるとしたなら、自分が犠牲になった事が反故になってしまうし、万一の時のものが、無くなってしまう。罪は、一生自分が負うていてもいいが、恩地を殺しては、恩地の為にも、自分の為にも何の為にも成らぬ。
(死ぬなっ)
 と、頭の中で、絶叫した。
 人々は、馬の走ってくる素晴らしい足音に、振り返った。暗闇の中に、真白な形が、怪物の如く、音立てて、急速度に近づいてきた。
(誰?――役人?)
 と、人々が、馬をゆるめて、降り立った侍を眺めた。そして、道を開いた。
 土間に、裸蝋燭の灯が、ちらちら動いて、天井へ、人々の頭の影を、大きく揺らめかしていた。
 恩地を囲んで、医者が二人と、人足と、番頭と、手桶と、薬函と、布切れとが、並んでいた。
 安堂の姿を見ると、番頭が、お叩頭をして、立上って、蒼白になった顔に、笑を浮べながら
「これは、さあ、何うか」
 と、言った。安堂は頷いただけで、すぐ、医者の横へうづくまった。
「脈は?」
「うむ?」
 と、医者が、振向いて、そのまま、返事もしないで、頭の傷を洗っていた。
 安堂は、土間へ腰をつけると、医者の邪魔にならぬよう、脈をとった。微に、生気がうごめいていた。然し、眼は、細く、凄い白眼を見せ、唇は少し歪んで開いていたし、蒼白いというよりも、灰色の顔色であった。
 突いていた膝を立てると、着物へ、べったりとつくものがあった。手をやってみると、血らしく、粘っていた。蝋燭で、指をみて
「一寸、こちらへ」
 と、一人の手から、蝋燭をとった。
「暗い、何をなさる」
 と、一人の医者が言った時、ちらっと、土間を照して、血のたまり、流れ具合をみると、すぐ、着物を調べかけた。
「ここじゃ」
 と、呟くと、手の指でさぐった。突傷の肉が、はぜ返っていて、未だ血液が、ねとねととしていた。
「ここ――ここから血を、出してはいけぬ」
 と、安堂が口早に言うと
「何うれ――」
 と、医者が、眉をひそめて、蝋燭を、突きつけた。
「成る程」
 安堂は、傷口へ指を突込んだ。肉がしまっていたが、十分に深かった。
(死ぬなっ)
 と、祈った。そして
「見込みは?」
 と、聞いた。
「脳を打っての気絶じゃで、傷は大した事はないが、ここの傷が――」
 安堂は傷口を、しっかりと押えて、血を止めていた。頭の傷の手当を、急いで、終ると
「手伝って、着物を脱がさぬと」
 と、医者が言った時
「退けっ」  と、役人らしい声が、往来でした。

 それは、確かに、御用提灯を持った役人であった。
「退いだ」
 と、別の方から、大口屋の声がした。人々は、動揺して道を開いた。大口屋は、御用提灯と、土間にしゃがんでいる安堂の後ろ姿とを素早く見較べると
「お役人」
 表口をくぐろうとした役人に声をかけた。
役人は、黙って、振向いた。
「手前は、当家の、大口屋で御座ります」
「うむ、主人か?」
 それは、ここから、一番近い、浅草橋に詰めている役人であった。大口屋とは、顔見知りであった。
(手前達が、意気地無くって、一刀組を取締らねえから、こういう事も出来るのだ)
 と、役人の顔を見ると、反感と、憤怒とが起ってきた。
「一寸、お待ち――」
 一人の役人は、それを聞き流して、中へ入ってしまった。一人の役人が
「用か」
 と、微笑した。
(待て)
 と、言ったが、何を言っていいか、判らなかった。
「そちらの方と、御一緒に、一寸其処まで――いろいろと、訳が御座んして――」
 大口屋は、何を置いても、二人の役人を、引出してしまわなければならないと、思っていた。然し、役人は
「後で聞こう」
 と、言いすてて表戸を入った。大口屋も、つづいてくぐった。
 医者は手を洗っていた。安堂は、役人を見ても、落付いて、微かに、呼吸を返してきた恩地の眼へ、自分の生命を、眼から吹っ込むように、じっと眺めていた。
 恩地の眼瞼は閉じられていた。繃帯の白さが、土間の暗さの中に、くっきりと目に立った。大口屋は、安堂に声をかけていいか、何うか判らぬので、顫える心を押えながら立っていた。
「何処の者じゃ――家中は?」
 役人は、灰色の恩地の顔をのぞきつつ、懐中から控帳を出して、腰の矢立を抜いた。誰も答えなかった。番頭は、大口屋の顔を眺めて、眼で
(何うしたら?)
 と、合図した。
「存じよりの無い仁か」
 と、役人は、素早く大口屋から、番頭達を見廻した。
「手前の朋輩で御座る」
「貴公の?――家中は?」
「大久保加賀守」
 大口屋は、安堂が、平然と嘘を吐いたので、とにかく、この場さえ、胡魔化しておけば、後は何うにでも成る、と思って安心した。
「町方だ」
 と、一人が呟いた。奉行直属の役人が来たらしかった。浅草橋番所の役人とはちがって、事が面倒であった。
「手前の部屋にて、お話を――」
 と、大口屋が、安堂へ言った時 「検分に参ったが――」
 と、もう、町方役人の声が、その背後でした。大口屋は、背中へ凍った風が当ったよに感じた刹那
「お手前は?」
 と、一人の役人が、安堂を見つけたらしく、安堂が、大口屋の肩越しに、その声の方を、じっと見ていた。

「同道――」
 と、――言葉が、終るか、終らぬかに、大口屋の横を通る影の如く、擦り抜けた一人が、素早く、安堂の手首を掴んで
「――して貰いたい」
 大口屋は顔色を変えて、膝頭を、がくがく顫わせた。
「仕るが――暫時、御猶予を――」
 一人の役人が、捕縄をしごいた。
「成らぬ」
 浅草の役人は、誰だか、何んな罪だか判らぬが、自分達が知らなかった咎人を、町方が発見したという面目無さを、胡魔化す為大声を出した。
「此の者の生死の文明致すまで――」
「たわけた――」
「長い間では御座らぬ。ここ半刻――」
 役人は、安堂の腕を押えて、引立てようとしたが、安堂は動かなかった。
「背く所存ならば縄にかけても、引立て申すぞ」
「逃げも、隠れも仕らぬ。このままにて、暫くの御容赦を、お願い仕る」
 手首を取られたまま、安堂が、お叩頭をした。
「強情なっ」
 と、役人が、安堂の襟を掴んだ。その時、恩地の眼が、微に開くと、
「ま、待て」
 と、呟くように、言って、役人の着物を掴んだ。中腰になっていた役人は、着物を掴んで引かれると、よろめいて、土間へ、手を突いた。そして、突いたまま、真赤になった顔を、恩地の方へ振り向けると
「無礼者っ」
 何気なしに、振ったのであろうが、拳が、恩地の頭の傷所へ当った。
「うむ」
 と、息がつまるように、唸って、恩地は、顔中を、苦しそうに歪めた。その刹那
「何をなさる」
 安堂は取られていた片手を、さっと捌くと、起ち上ろうとしている役人の肩を、どんと突いた。
「手負いの――しかも、傷所をっ」
 立上った安堂は、憤怒に光った眼をしていた。
「手向いをっ――」
 と、恩地の向う側にいた役人が、恩地を跨ごうとした時
「暫く――」
 と、大口屋が、止めた。番頭も、小僧も、人足も、自分のことのように、心臓を喘がせて、拳を握っていた。
 一人の役人が、安堂の横から、組ついて、押倒そうとした。安堂に突倒された役人は、蒼くなって十手を抜くと
「奇怪なっ」
 と、叫んで一人の組付いているのを幸いに、打ってかかった。
(恩地の所から、遠ざからぬと――)
 と、安堂は、躱しておいて、一人を組ましたまま、表戸の方へ二三歩寄った。
「御用だっ」
 と、三人の役人が、同じように叫んだ。

(恩地は助かるらしい――捕えられて切腹はしたくない、とにかく、この場を逃げるのが――)
 と、安堂は、判断した。
「役人様、訳のあること――これには、訳のある事」
 と、大口屋が、表戸を出た安堂と、役人とへ叫んだ。
(大口屋が、自分を助ける為、もし恩地の香東殺しをべらべら喋っては、万事が、水の泡になってしまう)
 安堂は、全身の力を出した。組ついている役人の手首を、力任せに引離すと、掌を、逆にとって、苦しさに、力を弱めた所を、蹴り倒した。
 群衆は、どっと四方へ乱れ立った。一人の役人が、呼子笛を鳴らした。一人の役人は、蹴倒している隙へ、十手を打込んだが、紙一枚の差で、躱されてしまった。
 安堂は、素早く、群衆の薄い所と、何の方面へ逃げるのが安全であるかを、見たり、考えたりした。
 大口屋は、一人の人足の耳へ、何か囁いた。
人足は頷くと
「太え野郎だ」
 と、叫んで、役人の背後から、その前へ出た。
「邪魔なっ」
 と、役人がその肩を突いた。
「おやっ、俺あ、手助けするだに」
 と、人足は、役人の方へ、ぐるりと向直って、肩へ手を当て乍ら
「痛え」
「馬鹿っ」
 役人は、睨んでおいて、走り出した。
安堂は刀を押えて走った。群衆と、役人と、人足と――雷公は、大きな身体で、真先に走り乍ら、役人が、走り抜けようとするとその前を走って邪魔をした。
 一丁余り走った時、安堂の横へ、一人の浪人者らしいものが、走りよると
「曲者っ」
 声、姿――ちらっと、した瞬間、さっと脚を払った早業――それは、追っかけている役人でさえ
「斬った」
 と、思わず叫んだ位であった。だが、安堂の黒い影は雲雀の飛立つように、さっと斜に、飛び上ると、何うして抜いたか
「えいっ」
 夜の静かな空気を引裂くような鋭い叫びと、燕のような、身体の閃き――対手は、躱けたが、構がくずれて、安堂の刀を受けながら、仰向きに、どっと転がってしまった。
「待てっ」
 軒下から、七八人の浪人姿の者が、安堂へ迫ってきた。安堂は、眼もくれないで、角を右へ曲った。
「捕えろ」
 と、役人が叫んだ。夜の静かな町を走る大勢の足音に、人々も、犬も騒ぎ出した。火消人足、辻所の人々が、得物を取って走り出した。蔵前河岸を離れると、もう、雷公の努力も役に立たなかった。群衆はだんだん増してきた。横町からも、行く手からも、人が走り出すようになった。
(川へ――川の外に、道が無い)
 と、安堂が思案した。
 河岸を走り降りて、一艘の船へ飛び込んだ。身体の中心がとれないで、ぐらっと、揺れたのをそのまま、次の船へ飛び移ると、すぐ次の瞬間、手早く刀を納めると、川の中へ躍り込んでしまった。