[#河上肇「貧乏物語」(下編)2/2]

十一の一

 これを要するに、人と境遇との間には因果の相互的関係がある。すなわち人は境遇を造り、境遇もまた人を造る。しかしながらそのいずれが本《もと》なりやと言えば、境遇は末で人が本である。それゆえ、社会問題の解決についても、私は経済組織の改造という事をば、事の本質上より言えば、根本策中の根本策とはいい得られぬものだというのである。

 しかし私はそう言ったからとて社会の制度組織が個人の精神思想の上に及ぼす影響を無視せんとする者ではない。否むしろ私は人並み一倍、経済の人心に及ぼす影響の甚大《じんだい》なるものなることを認めつつある者の一人で、その点においては私は十九世紀の最大思想家の一人たるカール・マルクスに負うところが少なくない。

 今私はここにマルクスの伝記をくわしくお話しする余裕ももたなければ、またその必要も感じない。しかしいつ読んでもおもしろいのは豪傑の伝記である。すなわちもし諸君が許さるるならば、私はマルクス伝の一鱗《りん》を示すがために、ここにマルクスの細君の手紙の一節を抄訳しようと思う。

「……嬰児《みずご》のために乳母《うば》を雇うというがごときはもちろんできがたきことにて候《そうろう》ゆえ、わたしは胸や背《せな》の絶えず恐るべき痛みを感ずるにかかわらず、自身の乳にて子供を育てることに決心いたし候。しかるに哀れむべき小さなる天使は、不良の乳を飲み過ぎ候いしために、生まれ落ちたる日より病気にかかり、夜も昼も苦しみおり候。彼はかつて一夜たりとも二三時間以上眠りたることこれなく候。……かかるところへ、ある日のこと、突然家主参り……屋賃の滞り五ポンドを請求いたし候いしも、われらはもとよりこれを支払うの力これなく候いしかば、直ちに二人《ふたり》の執達吏入りきたり、わずかばかりの所有品は、ベッドも、シャツも、着物もすべて差し押え、なお嬰児《みずご》の揺床《ゆりどこ》も、泣き悲しみつつそばに立ちいたる二人の娘のおもちゃも、すべて差し押えたることに御座候《ござそうろう》。」

 これはマルクスの細君が一八四九年にある人に与えた手紙の一節であるが、ここにマルクスの細君というは、マルクスの父の親友なるルードウィヒ・フォン・ウェストファーレンという人の娘である。当時その人がプロシアの官吏としてザルツウェーデルという所からマルクスの郷里のトリエルに転じて来たのは、今からちょうど百年前の一八一六年のことであるが、その時に連れていた二歳になる女の子は、後にマルクスの細君となった人で、すなわち先に掲げた手紙の主である。この手紙の主は幼にして容色人にすぐれ、かつ富裕なる名家に人となりしがために、名門の子弟の婚を求むる者少なくなかったのであるが、たまたまマルクスのせつなる望みにより、四歳年下のこの貧乏人の子にとつぎ、かくてこの女は、かの恐るべき社会主義者として早くより自分の祖国を追い出され、またフランスからもベルギーからも追放されて、ついには英京ロンドンに客死するに至りしところの、世界の浪人にしてかつ世界の学者たるカール・マルクスにその一生をささげ、つぶさに辛酸をなめ尽くしつつ、終始最も善良なる妻として、その遠き祖先の骨を埋めつつある英国に流れ渡り、ついに自身もロンドンの客舎に病死するに至りし人である。前に掲げた手紙もすなわちこのロンドン客寓中《かくぐうちゅう》にしたためたものである。

十一の二

 さて私がここにマルクスを持ち出したのは、彼が有名なる唯物史観または経済的社会観という一学説の創設者であるからである。

 彼が一八五九年に公にしたる『経済学批判*』の巻頭には同年二月の日付ある彼の序文があるが、その一節には次のごとく述べてある。
* Karl Marx, Zur Kritik der politischen Oekonomie.

「余はギゾーのためフランスより追われたるにより、パリーにて始めたる経済上の研究はこれをブリュッセルにおいて継続した。しかして研究の結果、余の到達したる一般的結論にして、すでにこれを得たる後は、常に余が研究の指南車となりしところのものを簡単に言い表わさば次のごとくである。」

「人類はその生活資料の社会的生産のために、一定の、必然的の、彼らの意志より独立したる関係、すなわち彼らの物質的生産力の一定の発展の段階に適応するところの生産関係に入り込むものである。これら生産関係の総和は社会の経済的構造を成すものなるが、これすなわち社会の真実の基礎にして、その基礎の上に法律上及び政治上の上建築が建立され、また社会意識の形態もこれに適応するものである。すなわち物質的生活上の生産方法なるものは、社会的、政治的及び精神的の生活経過をばすべて決定するものである。」

 右はマルクスの※牙《ごうが》[#※は上側:敖+下側:耳]な文章を——しかもわずかにその一節を——直訳したのであるから、これを一読しただけでは充分に彼の意見を了解することは困難であるが、今これを詳しく解説しているいとまはない。それゆえ、しばらくその原文を離れて、簡単に彼の意見の要領を述ぶるならば、これを次の数言にまとめることができる。

 経済上社会の生産力すなわち富を作り出す力が増加して来ると、それに連れて社会の生産関係または経済組織が変動して来る。しかるにこの経済組織なるものは社会組織のいちばん根本となっているものであるから、この土台が動いてくると、その上に建てられていたもろもろの建築物が皆動いて来なければならぬのであって、すなわち社会の法律をも政治も宗教も哲学も芸術も道徳も皆変動して来る。さらに簡単にいえば、経済組織がまず変わってしかるのちに人の思想精神が変わるので、まず人の思想精神が変わってしかるのちに社会の組織が変わって来るというわけのものではない。これがマルクスの意見のだいたいである。

 今私はマルクスの議論をたどってそれを一々批評して行くというようなめんどうな仕事をばここでしようとは思わぬ。しかし幸いにも彼の経済的社会観に似た思想は、古くから東洋にもあるので、すでにわれわれの耳に熟している古人の句を借りて来れば、私はそれで一通り自分の話を進めて行くことができる。

 その句というは、論語にある孔子の言である。すなわち子貢が政《まつりごと》を問いし時、孔子はこれに答えて、

「足、足、使ヲシテ一レ矣。〈食を足し、兵を足し、民をして之《これ》を信ぜしむ〉(顔淵第十二)

と言っておられる。しかしてわが国の熊沢蕃山《くまざわばんざん》はこれを注釈して次のごとく述べている。

「食足らざるときは、士貪《むさぼ》り民は盗《とう》す、訴訟やまず、刑罰はたえず、上《かみ》奢《おご》り下《しも》諛《へつろ》うて風俗いやし、盗をするも彼が罪にあらず、これを罰するは、たとえば雪中に庭をはらい、粟《あわ》をまきて、あつまる鳥をあみするがごとし。……これ乱逆の端なり、戦陣をまたずして国やぶるべし。兵を足すにいとまあらず。いわんや信の道をや。」(集義和書、巻十三、義論八)

 これらの文章を読む時は、われわれはすでに幕府時代においてロイド・ジョージの演説を聞くの感がある。

 孟子《もうし》またいわく

「恒産なくして恒心あるは、惟《ただ》士のみ能《よ》くするを為《な》す。民の若《ごと》きは即《すなわ》ち恒産なくんば因って恒心なし。苟《いやし》くも恒心なくんば、放辟《ほうへき》邪侈《じゃし》、為《な》さざるところなし。已《すで》に罪に陥るに及んで然《しか》る後《のち》従って之《これ》を刑す。これ民を罔《あみ》する也《なり》。是《こ》の故《ゆえ》に明君は民の産を制し、必ず仰いでは以《もっ》て父母に事《つこ》うまつるに足り、俯《ふ》してはもって妻子を畜《やしな》うに足り、楽歳には終身飽き、凶年には死亡を免れしめ、然《しか》る後駆《か》って善に之《ゆ》かしむ。ゆえに民の之《これ》に従うや軽し。今や民の産を制して、仰いでは以て父母に事うまつるに足らず、俯しては以て妻子を畜うに足らず、楽歳には終身苦しみ、凶年には死亡を免れず、これ惟《ただ》死を救うて贍《た》らざらんを恐る。奚《いずく》んぞ礼義を治むるに暇《いとま》あらんや。」(梁恵王《りょうのけいおう》章句上)

 ここに恒産なくんば因って恒心なしとあるは、これを言い換うれば、経済を改善しなければ道徳は進まぬということなので、そうしてこれがいわゆる経済的社会観の根本精神の一適用なのである。

[# この節にマルクスの肖像画あり。省略]

十一の三

 私は上編において今日多数の人々が貧乏線以下に沈淪《ちんりん》していることを述べたが、これらの人々は孟子《もうし》のいわゆる恒産なきのはなはだしきものである。しかるに民のごときは恒産なくんば因って恒心なく、すでに恒心なくんば放辟《ほうへき》邪侈《じゃし》なさざるところなし。いずくんぞ彼らをしておのおのその明徳を明らかにし、相親しみて至善に止《とど》まらしむることを得ん。これ経済問題が最も末の問題にしてしかも最初の問題たるゆえんである。

 試みにこれを現代経済組織の人心に及ぼす影響について述べんに、すでに説きしがごとく、金さえあれば便利しごくな代わりに、金がなければ不便この上なしというが、今の世のしくみである。すでに世のしくみがそうである。そこで世間無知の輩《ともがら》は、早くもいっさい万事これ金なりと心得、義理も人情も打ち捨てて互いに金をつかみ合うさま、飢えたる獣の腐肉を争うがごときに至る。あにただに世間無知の輩とのみ言わんや。時としては一代の豪傑も金のためには買収され、一時の名士も往々にして金のためには筋を売り、かくのごとくにしてついには上下こぞって、極端なる個人主義、利己主義、唯物主義、拝金主義にはしるに至る。

 思うに這個《しゃこ》の消息は、私がここに今さららしく書きつづるまでもなく、早くより警眼《けいがん》なる社会観察者の看取し得たるところである。今しばらくこれをわが国の古書について述べんか、たとえば、かの『金銀万能丸《きんぎんまんのうがん》』のごときは(後に『人鏡論』と改題され、さらに『金持重宝記《かねもちちょうほうき》』と改題さる、今は収めて『通俗経済文庫』にあり)、今をさる約二百三十年前、貞享《じょうきょう》四年[#1687年]に出版されたものだが、それを見ると、僧侶《そうりょ》と儒者と神道家とが三人寄り合ってしきりに世の澆季《ぎょうき》を嘆いている。それをば道無斎《どうむさい》という男が、そばから盛んに拝金宗を説きたててひやかすという趣向で、全編ができているが、その道無斎がなかなかうがったことを言っている。

 まず四人同道で伊勢《いせ》参宮《さんぐう》のために京都を出る時に、道すがら三人の者がそれぞれ詩や歌を詠《よ》むと、道無斎がそれを聞いて、滔々《とうとう》として次のごとき説法を始めるのである。

「おのおののやまと歌、から歌、さらに道理にかに候《そうら》わず、ただおもしろくもありがたくも聞こえはべるは、黄金にてぞはべる。ひえの紅葉《もみじ》も長柄《ながら》の錦《にしき》も横川《よかわ》の月を見やりたまいしも、金がなくてはさらにおかしくもおもしろくもあるまじ、ただ世の中は黄金にこそ天地もそなわり、万物みなみなこれがなすところにして、人間最第一の急務にてはべるなり。さればにや仏も種々なる口をききたまいし中にも、ややともしては金銀《こんごん》瑠璃《るり》とのべられて、七宝の第一に説かれしなり。十万の浄土も荘厳《しょうごん》なにぞと尋ぬれば、みなみな黄金ずくめなり、孔子も老子も道をかたりひろめし中には、今日の禄《ろく》を第一に述べられしなり。」……

道無斎は勢いに乗ってさらに次のごとき物語をする。

「このちかきころにさる大福長者とおぼしき人を打ちつれて、黒谷《くろだに》もうでしはべりけるに、上人《しょうにん》出合い、この道無をば見もやらで、かの金持ちの男をあながちにもてなし、……さてさておぼしめし寄りての御参詣かな、仏法の内いかようの大事にても御尋ね候え、宗門のうちにての事をば残さず申しさずけんとて、まことに焼け鼠《ねずみ》につける狐《きつね》のごとくおどり上がりはしりつつ色をかえ品をかえて馳走《ちそう》なり。この道無かねて金の浮世と存ずれば、すこしも騒がず、ちと用あるていにもてなし門前にいで、小石を銀ならば二まいめほどに包んで懐中し、元の座敷に居なおりつつ上人に打ちむかい、ふところより取り出しさし寄り申しけるは、近きころ秘蔵の孫を一人失い申しけるまことに老いの身の跡にのこり、若木の花のちるを見て、やるかたなき心ざしおぼしめしやらせたまえ、せめて追善のために細心《ほそこころ》ざしさし上げ申すなりとて、一包さし出しはべれば、上人にわかに色をなし、さてさて道無殿は物にかまわぬ一筋なる御人にて、御念仏をも人の聞かぬように御申しある人なりと、常々京都の取り沙汰《ざた》にてはべるよし、一定《いちじょう》誠に思いいらせたまえる後世者《ごせしゃ》にてわたらせおわしますよな、またかようの御人は都広しと申すとも有るまじきなり。やれやれ小僧ども、あの道無殿の御供の人によく酒すすめよ、さてまた道無殿へ一宗の大事にてはべれども、かようの信心者に伝えねば、開山の御心にもそむく事にて候えばとて、念仏安心を即座に伝え申されぬ。この時道無おもいしは、さて金の威光功徳の深さよ、たちまち石を金に似せけるだに、かように人の心のかわりはべる事よ、いよいよありがたく覚えはべる。金もてゆく時は極楽世界も遠からず、貧しき者はたとえば過《あやま》りて極楽に行くとても、元来かねずきの極楽なれば、諸《しょ》傍輩《ほうばい》の出合《いであい》あしくなりて追い出されぬべし。これをもて見るに、とかく仏道の大事も金の業《わざ》にてなる。」

 怪しむをやめよ、当世の人のしきりに利欲にはしることを。二百三十年前すでにこの言をなせし者がある。

十一の四

 わが国でもすでに二百三十年前に『金銀万能丸』が出ている。思うに社会組織そのものがすでに利己心是認の原則を採り、だれでもうっかり他人の利益を図っていると、「自分自身または自分の子孫があすにも餓死せぬとも限らぬ」という事情の下に置かれおる以上、利他奉公の精神の大いに発揚せらるるに至らざるもまたやむを得ざることである。

 私は先に、利己主義(個人主義)者を組織するに利他主義(国家主義)の社会組織をもってするは、石を包むに薄帛《うすぎぬ》をもってするがごときものだと言った。しかしそれならば、個人の改良を待ってしかるのち社会組織の改造を行なうべきであるかというに、以上述べきたりしごとく、個人の改造そのものがまた社会組織の改良にまつところがあるのだから、議論をそう進めて来ると、たとえば鳶《とび》が空を舞うように、問題はいつまでも循環して果てしなきこととなる。しかしこの因果の相互的関係の循環限りなきがごときところに、複雑をきわむる世態人情の真相がある。それゆえ私は、社会問題を解決するがためには、社会組織の改造に着眼すると同時に、また社会を組織すべき個人の精神の改造に重きを置き、両端を攻めて理想郷に入らんとする者である。

 思うに恒産なくして恒心を失わず、貧賤に素《そ》しては貧賤に処し、患難に素しては患難に処し、いっさいの境に入るとして自得せざるなきは君子のことである。志ある者はよろしく自らこれを責むべし、しかもこれをもっていっさいの民衆を律せんとするは、薪《たきぎ》を湿《しめ》してこれを燃やさんとするがごときもの、経世の策としてはすなわち、一方に偏するのそしりを免れざるものである。されば悪衣悪食を恥ずる者はともに語るに足らずとなせし孔子も、子貢の政《まつりごと》を問うに答えてはすなわちまず食を足らすと述べ、孟子《もうし》もまた、民の産を制して、楽歳に身を終うるまで飽き、凶年にも死亡を免れしめ、しかるのち駆《か》って善にゆかしむるをもって、明君の政なりと論じているのであって、私が今、社会問題解決の一策として経済組織の改造をあぐるもまた同じ趣旨である。

 しかしながら、丈夫な土台を造らなければ立派な家はできぬということはほんとうであっても、丈夫な土台さえできたならば立派な家が必ずできるというわけのものではない。人はパンなくして生くるあたわず、しかしながら人はパンのみにて生くる者にあらず。それゆえ孟子は、恒産なくんば因って恒心なしとは言ったが、恒産ある者は必ず恒心ありとは言っておらぬ。否孟子は、恒産なくんば因って恒心なしということを言い出す前に、「民の若《ごと》きは即《すなわ》ち」と付け加えており、なおその前に「恒産なくして恒心ある者は惟《ただ》士のみ能《よ》くするを為《な》す」と言っておる。しかして世の教育に従事する者の任務とするところは、社会の事情、周囲の風潮はいかようであっても、それに打ち勝ちそれを超越して、孟子のいわゆる「恒産なくして恒心ある」ところの「士」なるものを造り出すにある。

 実はそういう人間が出て社会を指導して行かねば、社会の制度組織も容易に変わらず、またいかに社会の制度や組織が変わったとて、到底理想の社会を実現することはできぬと同時に、そういう人間さえ輩出するならば、たとい社会の制度組織は今日のままであろうとも、確かに立派な社会を実現することができて、貧乏根絶というがごとき問題も直ちに解決されてしまうのである。この意味において、社会いっさいの問題は皆人の問題である。

 さて論じきたってついに問題を人に帰するに至らば、私の議論はすでに社会問題解決の第三策を終えて、まさに第一策に入ったわけである。

十二の一

「さんらんの翡翠《ひすい》の玉の上におく
つゆりょうらんの秋はきにけり
「秋ふかみこごしく雨の注げばか
こころさぶしえとどまりしらず

 きょう友人がくれた手紙の端にはかような歌がしるしてあった。げに心に思うことども次々に語りゆくうちに、いつしか秋もいよいよ深うなった。この物語を始めたおりは、まだ夏の盛りを過ぎたばかりで、時には氷を呼んだこともあったが、今ははや炉に親しむの季節となった。元来が分に過ぎた仕事であったために、やせ馬が重荷を負うて山坂を上るよう、休み休みしてようやくここまでたどって来たが、もうこれで峠も越した。これよりはいっそ[# 「いっそ」に傍点]のこと近道をして早くふもとにおりようと思う。

 私は、前回において、私の議論はすでに社会問題解決の第三策を終えて、まさに第一策に入ったと言った。論思いのほか長きに失し、読者もまたすでに倦《う》まれたるべしと信ずるがゆえに、余のいわゆる第二策は、論ぜずしてこれをおくつもりなのである。——第二策とは「貧富の懸隔のはなはだしきを匡正し、社会一般人の所得をして著しき等差なからしむること」で、いわゆる社会政策なるものの大半はこれに属する。もとより穏健無難の方策であるが、しかもこれを徹底せしむるならば、多くは第三策に帰入するに至るもので、かのロイド・ジョージ氏の社会政策がしばしば社会主義なりと非難されたるも、社会政策の実施は多くは社会主義の一部的または漸進的実現と見なし得らるるがためである。

 社会組織の改造よりも人心の改造がいっそう根本的の仕事であるとは、私のすでに幾度か述べたところである。思うにわれわれの今問題にしている貧乏の根絶というがごときことも、もし社会のすべての人々がその心がけを一変しうるならば、社会組織は全然今日のままにしておいても、問題はすぐにも解決されてしまうのである。

 その心がけとは、口で言えばきわめて簡単なことで、すなわちまずこれを消費者について言えば、各個人が無用のぜいたくをやめるという事ただそれだけの事である。私が先に、富者の奢侈《しゃし》廃止をもって貧乏退治の第一策としたのは、これがためである。

 思うにこのぜいたくということについては、今日一般に非常な誤解が行なわれているようである。たとえば巨万の富を擁する富豪翁が、自分の娘のために千金を投じて帯を買うというがごときは、無論当然《とうぜん》のことと考えられているのであって、その事のために自分らは飢えている貧乏人の子供の口からその食物を奪っているなどということは、彼らの全く夢想だもせぬところであろう。おそらく彼らも普通人と等しく、また普通人以上に人情にあつい善人であろう。そうして自分の娘の衣装のために千金を費やすというがごときは、自分の身分に応じて無論当然のことで、自分らがそういう事に金を使えばこそ始めて世間の商人や職人に仕事もありもうけもあって、彼らはそのおかげでようやくその生計をささえつつある。というくらいに考えているのが普通であろう。しかしながらこれは全く誤解であるのである。そうしてこの誤解のためにどれだけ世間の貧乏人が迷惑しているかわからぬのである。

 なぜかというに、今日一方にはいろいろなぜいたく品が盛んに作り出されているに、他方には生活必要品の生産高がはなはだしく不足していて、それがために多数の人間は肉体の健康を維持して行くだけの物さえ手に入れ難いということになっているのは、すでに中編にて述べたるごとく、ひっきょう余裕のある人々がいろいろな奢侈《しゃし》ぜいたく品を需要しているからである。もしさし当たって事の表面を見るならば、商人がいろいろな奢侈ぜいたく品を作り出してこれを販売すればこそ買う人もあるというように考えられるけれども、それは本末転倒の見方なので、実は、そういう奢侈ぜいたく品をこしらえて売り出す人があるから買う人があるのではなく、そういう物をこしらえて売り出すと買う人があるから、それで商売人の方ではそういう品物を引き続きこしらえて売り出すのである。もちろん売ると買うとこの両者の間には互いに因果関係があるのであるから、生産者の責任のこともいずれのちに説くつもりであるが、しかしいずれが根本的かといえば、生産が元ではなくてむしろ需要が元である。もしだれも買い手がなかったならば、商人は売れもせぬ物を引き続きこしらえていたずらに損をするものではない。いくらでも売れるから、次第に勢いに乗じて、さまざまの奢侈ぜいたく品を作り出すのである。そこで田舎《いなか》にいて米を作るべき人も、都会に出て錦《にしき》を織るの人となる。農事の改良に費やさるべき資金も、地方を見捨てて都会にいで、待合の建築費などになる。かくて労力も資本も、その大半は奢侈ぜいたく品の製造のために奪い取られて、生活必要品の生産は不足することになるのである。

十二の二

 考えてみると、今日起こさなければならぬ仕事で、ただ資金がないために放棄されている仕事はたくさんある。手近な例を取って言えば、農事の改良のためにも企つべき仕事はたくさんあるであろう。しかし資本がない、借ろうと思えば利子が高くてとても引き合わぬ。そういうことのためにいろいろな有益な事業が放棄されたままになっている。しかしながら、今日余裕のある人々が奢侈《しゃし》ぜいたくのために投じている金額はたいしたものである。そうしてかりにそれらの人々が、もしいっさいの奢侈ぜいたくを廃止したとするならば、これまでそういう事に浪費されていた金は皆浮いて出て、それがことごとく資本になるのである。それからまた、そういう奢侈ぜいたく品を製造する事業のために吸収されていた資本も、皆浮いて来るのである。そうなって来れば、いくら資本の欠乏を訴えている日本でも、優に諸般の事業を経営するに足るだけの資本が出て来るはずである。私は、日本の経済を盛んにするの根本策は、機械の応用を普及するにありという事を、年来の持論にしているが、実はその機械の応用には資金がいるのである。機械の応用の有益にして必要なることはだれも認めるけれどもこれを利用するだけの資本に乏しいのである。しかし以上述べきたりたるがごとく、皆が奢侈ぜいたくをやめれば、その入用な資本もすぐに出て来るのである。今日では資金の欠乏のために農事の改良も充分に行なわれぬというけれども、すでに資本が豊富になれば、その農事の改良なども着々行なわれることになるであろう。そうすれば米もたくさんできるであろう。米もたくさんできればおのずから米価も下落するが、しかしそれと同時に他の生活必要品もすべて下落するのであるから、米を買うている人々が仕合わすと同時に、米を売る農家の方もさらにさしつかえないわけである。米価の調節などといって、しいて米の値を釣り上げるために無理なくふうをする必要もなくなるのである。

 今日ドイツが八方に敵を受けて年を経て容易に屈せざるは何がためであるか。開戦当時においては、ドイツは半年ももたぬうちに飢えてしまうだろうと思われた。しかも今に至ってなお容易に屈せざるは、すでに述べたるがごとく、驚くべき組織の力により、開戦以来、上下こぞっていっさいの奢侈ぜいたくを中止したからである。たとえばこれを食物についていえば、今日ドイツでは、パンや肉の切符というものがあって、上は皇室宮家をはじめとし、各戸とも口数に応じて生活に必要なだけの切符を配布されることになっている。万事こういう調子で、すべて消費の方面はこれを必要の程度にとどめると同時に、働く方面はすべての人がおのおのその能をつくすとうことになっている。だから容易に屈しない。過去数年の間、世界一の富国たるイギリスが、今では参百億円以上に達する大金を費やして攻め掛けているけれども、とにかく今日まではよくこれに対抗し得たのである。これをもって見ても、皆が平生の奢侈ぜいたくをすべて廃止したならば、いかにそこに多くの余裕を生じ、いかに大きな仕事を成し得らるるかがわかる。私は日本のごとき立ち遅れた国は、ドイツが戦時になってやっていることを、平生から一生懸命になってやって行かねば、到底国は保てぬと憂いているのものである。

 奢侈ぜいたくをおさゆることは政治上制度の力でもある程度まではできる。しかし国民全体がその気持にならぬ以上、外部からの強制にはおのずから一定の限度があるということは、徳川時代の禁奢令《きんしゃれい》の効果を顧みてもわかることである。それゆえ私は制度の力に訴うるよりも、まずこれを個人の自制にまたんとするものである。縷々《るる》数十回、今に至るまでこの物語を続けて来たのも、実は世の富豪に訴えて、いくぶんなりともその自制を請わんと欲せしことが、著者の最初からの目的の一である。貧乏物語は貧乏人に読んでもらうよりも、実は金持ちに読んでもらいたいのであった。

十二の三

 さてここまで論じてきたならば、私はぜいたくと必要との区別につき誤解なきようにしておかねばならぬが、元来今日まで行なわれて来た奢侈《しゃし》またはぜいたくという観念には、私の賛成しかねるところがある。けだし従来の見解によれば、ぜいたくとしからざるものとの区別は、もっぱら各個人の所得の大小を標準としたものである。たとえば巨万の富を擁する者が一夕の宴会に数百万円を投ずるがごときは、その人の財産、その人の地位から考えて相当のことであるから、その人たちにとっては決してぜいたくとは言われないが、しかし百姓が米の飯を食ったり肴《さかな》を食ったりするのは、その収入に比較して過分の出費であるから、その人たちにとってはたしかにぜいたくである、こういうふうに説明して来たのである。しかし私がここに必要といいぜいたくというは、かくのごとく個人の所得または財産を標準としたものではない。私はただその事が、人間としての理想的生活を営むがため必要なるや否やによって、これを区別せんとするものである。

 ただし何をもって人間としての理想的生活となすやについては、人の見るところ必ずしも同じくはあるまい。しかして今私は、自分の本職とする経済学の範囲外に横たわるこの問題につき、自分の一家見を主張してこれを読者にしうるつもりでは毛頭ないけれども、ただ議論を進むる便宜のためにしばらく卑懐を伸ぶることを許さるるならば、私はすなわち言う。人間としての理想的生活とは、これを分析して言わばわれわれが自分の肉体的生活、知能的生活《メンタルライフ》及び道徳的生活《モーラルライフ》の向上発展を計り——換言すれば、われわれ自身がその肉体、その知能《マインド》及びその霊魂《スピリット》の健康を維持しその発育を助長し——進んでは自分以外の他の人々の肉体的生活、知能的生活及び道徳的生活の向上発展を計るがための生活がすなわちそれである。さらにこれをば教育勅語中にあることばを拝借して申さば、われわれがこの肉体の健康を維持し、「知能《ちのう》を啓発し、徳器を成就し」、進んでは「公益を弘《ひろ》め、世務を開く」ための生活、それがすなわちわれわれの理想的生活というものである。否、私は誤解を避くるためにかりに問題を分析して肉体と知能と霊魂とを列挙したけれども、本来より言わば、肉は霊のために存し、知もまたひっきょうは徳のために存するに過ぎざるがゆえに、人間生活上におけるいっさいの経営は、窮極その道徳的生活の向上をおいて他に目的はない。すなわちこれを儒教的に言わば、われわれがその本具の明徳を明らかにして民を親しみ至善にとどまるということ、これを禅宗的に言わば、見性成仏《けんしょうじょうぶつ》ということ、これを真宗的に言わば、おのれを仏に任せ切るということ、これをキリスト教的に言わば、神とともに生くということ、これをおいて他に人生の目的はあるまい。しかしてこの目的に向かって努力精進するの生活、それがすなわちわれわれの理想的生活であって、またその目的のために役立ついっさいの消費はすなわち必要費であり、その目的のために直接にもまた間接にもなんら役立たざる消費はことごとくぜいたくである。

 私のいうところの必要及びぜいたくはかくのごとき意味のものであって、毫《ごう》も個人の財産または所得のいかんを顧みざるものである。思うに今の世の中には、かくのごとき意味の必要費を支弁するに足るだけの財産なり所得なりのないものはたくさんにある。たとえば非常な俊才で今少し学問させたならば、他日立派に国家有用の材となりうるという青年でも、もし不幸にして貧乏人の子に生まれて来たならば、到底充分に学問するだけの資力はあるまい。それをしいて学問するというのは従来の考えからいうと、それは過分のぜいたくだというのである。しかし私はそれを必要だと見るものである。その代わり百万長者が一夜の歓楽に千金を投ずるがごときは、たといその人の経済からいえば、蚤《のみ》が刺したくらいのことで、ほんのはした金《がね》を使ったというだけのことであっても、もしかくのごとくにして一夜の歓楽をむさぼるということが、ただにその人の健康に益なきのみならず、かえってその人の徳性を害するというだけの事であれば、私はそれを真にぜいたくだというのである。

十二の四

 私がぜいたくを排斥するのは以上のごとき趣意である。もしこれを誤解していっさいの物質的生活の向上を否認するものとせらるるならば、著者のはなはだ迷惑するところである。たとえば食物にしても、壮年の労働者には一日約三千五百カロリーの栄養価を有する食物を摂取することがその健康を維持するために必要だとするならば、そうして日本の労働者は現にそれだけの食物を摂取しておらぬとするならば、私は彼らの食物につきすみやかにその品質を改良しその分量を増加せんことを希望する者である。きのうまでまずい物を少しばかり食べていたものが、きょうからにわかにうまい物を腹一杯に食べることにしたからとて、もしその事が彼らの健康を維持し増進するに必要であれば、私は決してこれをぜいたくだといわぬのである。ただ古人も一日為《な》さざれば一日食わずと言ったように、無益に天下の食物を消費することを名づけてぜいたくといい、いっさいを排斥せんとするのである。

 私はこの趣意に従うて、たとえば自動車に乗るがごときことをも、これをぜいたくとして一概に排斥せんとするものではない。その人の職業ないし事業の性質によっては、終日東西に奔走するの必要あるものがあろう。その場合にもし自動車の利用が、その人の時間を節約し、天下のためにより多くの仕事をなしうるゆえんとなるのであれば、自動車に乗るもまた必要であってぜたくではない。ただ私はなんらなすなき遊冶郎輩《ゆうやろうはい》が、惜しくもない時間をつぶすがために、妓《ぎ》を擁して自動車を走らせ、みだりに散歩の詩人を驚かすがごときをもって、真に無用のぜいたくとなすのである。

 またたとえば学校の講堂にしても、もし教育の効果をあぐるがために真に必要だというならば、ただ雨露をしのぐに足るばかりでなく、相応に広大な建物を造っていっこうさしつかえない事だと思う。簡易生活を尊べる禅僧輩が往々にして広壮なる仏殿を経営するがごときも、同じようなる趣旨にいずるものとせば、あえてとがむるに足らぬ事である。

 元来われわれは全力をあげて世のために働くを理想とすべきである。それがこの五尺のからだにしても、実は自分の私有物ではない。天下の公器である。なるべくこれをたいせつにして長く役に立つようにするという事は、それはわれわれの義務である。だから遊ぶのも御奉公の一つで、時によってはこのからだにも楽をさせぜいたくをさせてやらねばならぬ。しかしそれは私のいわゆるぜいたくなるものではない、必要である。遊ぶのではなくてお勤めをしているのである。

 私のいうぜいたくと必要との区別はほぼ以上のごときものである。してみると、貧乏人は初めからさしてぜいたくをする余裕をもたぬ者である。それゆえ私は、倹約論は貧乏人に向かって説くべきものではなく——少なくとも貧乏人に向かってのみ[#「のみ」に傍点]説くべきものではなくて、主として金持ちに向かって説くべきものだと信じている。貧乏人はそれでなくとも生活の必要品が不足して、肉体や精神の健康を害しているのに、そのうえへたに倹約を勧めると、全くしかたのないものになる。されば私がぜいたくをもって貧乏の原因であると言うのも、ぜいたくをする者はやがて貧乏になるぞという意味ではなくて、富裕な人々がぜいたくをしているということが他の多数の人々をしてその貧乏なる状態を脱することあたわざらしむる原因であるという意味である。この点から言っても、私の勤倹論は従来の勤倹論とその見地を異にしている。従来の勤倹論は自分が貧乏にならぬために勤倹しろと言うのであって、その動機は利己的であるが、私の勤倹論は他人の害になるからぜいたくをするなというのであって、その動機は利他的である。

 蓮如上人《れんにょしょうにん》御一代《ごいちだい》聞書《ききがき》にいう「御膳《おぜん》を御覧じても人の食わぬ飯を食うよとおぼしめされ候《そうろう》と仰せられ候」と。思うにこの一句、これを各戸の食堂の壁に題することを得ば、恐らく天下無用の費《つい》えを節する少なからざるべし。

十二の五

 私の倹約論は主として金持ちに聞いてもらいたいのだと言ったが、しかし私のいう意味のぜいたくは、多少の差こそあれ、金持ちも貧乏人も皆それ相応にしていることである。

 徳川光圀《とくがわみつくに》卿《きょう》が常に紙を惜しみたまい、外より来る書柬《しょかん》の裏紙長短のかまいなくつがせられ、詩歌の稿には反古《ほご》の裏を用いたまいたる事はよく人の知るところである。現に水戸の彰考館《しょうこうかん》に蔵する大日本史の草稿はやはり反古《ほご》を用いある由、かつて実見せし友人の親しく余に物語りしことである。

 また蓮如上人御一代聞書を見ると、「蓮如上人御廊下を御通り候て、紙切れの落ちて候いつるを御覧ぜられ、仏法領《ぶっぽうりょう》の物をあだにするかやと仰せられ、両の御手にて御いただき候としかじか、総じて紙の切れなんどのようなる物をも、仏物《ぶつもつ》とおぼしめし御用い候えばあだに御沙汰《ごさた》なく候うの由、前々住上人御物語候いき」という記事がある。紙切れ一片でもむだには使わぬという立場から見れば、平生貧乏をかこちつつあるわれわれも相応にぜいたくをしていると言わなければならぬ。

 峨山《がざん》禅師言行録にいう「侍者師の室前なる水盤の水を替えけるに、師はそのそばにありて打ち見やりたまいしが、おもむろに口を開き、なんじも侍者となりて半年もたつから、もう気がつくだろうと思っていたが、言っておかぬと生涯知らずに過ごす。物はなァ、大は大、小は小と、それぞれ生かして使わねばならぬ。水を替えるときは元の水をそこらの庭木にかけてやるのさ。それで木も喜ぶ、水も生きたというものだ。因地の修行をするものは、ここらが用心すべきところだ。また洗面の水なども、ざっと捨てずに使うたあまりは竹縁に流して使うのだ……。うむ水一滴もそれで死にはせぬ、皆生きて働いたというものだ。陰徳陰徳と古人がたがやかましく言うのもほかではないぞ」。水一滴もむだにしてはならぬという這般《しゃはん》の消息になると、もはや経済論の外に出た話で、本来はこの物語の中に採録すべき記事ではないのであるが、私は事のついでに峨山《がざん》和尚《おしょう》のお師匠に当たる滴水和尚の逸話もここに簡単にしるしておこうと思う。

 滴水和尚かつて曹源寺《そうげんじ》の儀山《ぎざん》禅師に師事されいたるころのことである。ある日禅師風呂《ふろ》にはいられると、熱すぎるので、滴水和尚を呼んで水を運ぶことを命ぜられた。そこで和尚は何心なくそこにあった手おけを取って、その底にわずかに残っていた一すくいの水を投げ捨てて立ち去ろうとせらるると、浴槽《よくそう》に浸りおられたる儀山禅師、その刹那《せつな》に大喝《だいかつ》一声、ばかッとどなられた。和尚この一喝の下に始めて大いに感悟するところあり、すなわち改めて滴水と号し、爾来《じらい》斯道《しどう》に刻意すること久しく、いよいよますます一滴水の深味を体得す。和尚後年、生死《しょうじ》代謝《たいしゃ》の際に臨みて一偈《いちげ》を賦するに当たり、偈中に「曹源一滴水、一生用不尽《そうげんのてきすい いっしょうもちうれどもつきず》」の一句を残されたのもこれがためであるという。

 話が自然に横道にそれたきらいがあるが、しかし私がここにこれらの話を引き合いに出してきたのはほかでもない、裏棚《うらだな》に住まう労働者でも水道の水などはずいぶんむだに浪費しうるのであるが、それもやはり一種のぜいたくだということを、読者に考えていただきたいためのみである。私は今一々その場合を例示せぬけれども、おそらく多数の読者は、「私のいう意味のぜいたくは多少の差こそあれ、金持ちも貧乏人も皆それ相応にしていることである」という私の先の断案をば、否定せらるる事はあるまいと思う。

十二の六

 私は議論を公平にするために、もし話を厳密にすれば、貧乏人といえどもむだに物を費やしている場合はあるという事を述べた。しかしどうせ余裕のない彼らの事であるから、むだをしたとて貧乏人のは知れたものである。そこで私は再び金持ちの方に向いて、——あまりくどいので読んでくださるかたもあるまいが——今少し倹約の話を続ける。

 昔孔子は富と貴《たっとき》とは人の欲するところなりと言われたが、黄金万能の今日の時勢では、富者すなわち貴人である。されば人の欲するところのもの試みに二個条をあげよと求めらるるならば、今の世の中では、むしろ富に加うるに健康をもってするが適当である。英米両国にては富のことをWealthと言い、健康のことをHealthと言うが、げにこのWとHのついた二個の ealth こそ万人の欲望の集中点で、だれも彼も金持ちになって長生きをしたいと思い煩っているのである。そこで普通の人は、身代は太るほどよく、身体も肥《ふと》るほどよいように思っているけれども、しかしそは大きな間違いで、財産でもからだでもあまり太り過ぎてはどうせろくな事はないのである。

 貧乏な上に恐ろしくやせている私がこんな事をいうと、それこそほんとうのやせがまんというものだと笑わるるかたもあろうが、もしそう言わるるならば、しかたがないからめんどうでも統計表を掲げて、私の議論の証拠にする。まず次に掲ぐるところのものは、四十三の米国生命保険会社が一八八五年より一九〇八年にわたるの間、総人員十八万六千五百七十九人について調べた結果で、平均以上の体重を有するものの死亡率を表わしたものであるが*、これによって見ると、太った人の成績は思いのほかよくないのである。
* Fisher, How to Live, 1915, p.213.

 右の表によって見れば、平均より少しでも肥えている者は、四十五歳以上は例外なく、並みの人に比べてすべて死亡率が多いのであるが、ことに平均より二十五ポンド(一ポンドは約百二十匁)以上太っている者になると、二十歳以上ことごとく死亡率が多いことになっているので、たとえば平均体重より五十ポンド以上太っている者などは四十歳より四十四歳の間においてその死亡者数は平均数を超過すること百人につき七十五人の多数に上りつつあるのである。

 これに比ぶれば、やせ過ぎている者のほうがむしろはるかに安全である。試みに次に掲ぐる一表を吟味せよ。こは前と同じ会社が同じ期間に、総人員五十三万百八人について調べた結果で、この方は平均以下の体重を有する者の死亡率を表すものであるが*、その成績は太りすぎた者よりもはるかによいのである。
* Fisher, Ibid., p.219.

 右の表によりて見れば、最もやせた人すなわち平均より二十五ポンドないし四十五ポンドも体重の少ない者にあっても、三十代を越して四十歳以上になるとすべて平均よりも死亡率が少なくなるのである。

 表を掲げたついでにすぐ引き続いて述べたい事があるが、余白がなくなったから残りは明日に回す。

十二の七

だれもが長生きがしたいがために、肥ゆれば喜びやすれば悲しむけれども、前回に証明したるごとく、実は太り過ぎているよりもやせている方がはるかに安全なのである。財産もまたかくのごとし。その乏しきこと度に過ぐるはもとより喜ぶべきことにあらざれども、その多きこと度に過ぐるもまたはなはだのろうべきことである。ことに肥えたと言いやせたと言うもからだだけのことならばその差もおおよそ知れたものであるが、貧富の差になると、すでに上編に述べたるごとく、今日は実に驚くべき懸隔を示しておるのであるから、経済学者という医者の目から見ると、貧の極におる人も、富の極におる人も、いずれも瀕死《ひんし》の大病人なのである。たとうれば、今日の貧乏人は骨と皮とになって、血液もほとんどかれ果てたる病人のごときもので、しかもそういう病人の数が非常に多いのである。しかし金持ちはまた太って太ってすわれもせず歩けもせず、顔を見れば肉が持ち上がって目も口もつぶれてしまい、心臓も脂肪のためにおさえられてほとんど鼓動を止めおるがごとき病状にあるものである。貧乏人に比ぶればその数は非常に少ないが、しかしこれもなかなかの重病患者である。

 人は水にかわいても死ぬがおぼれても死ぬものである。しかるに今や天下の人の大多数は水にかわいて死んで行くのに、他方には水におぼれて死ぬ者もある。それゆえ、私はここに回を重ねて富者に向かいしきりにぜいたく廃止論を説く。奢侈《しゃし》の制止、これ世の金持ちが水におぼるるの富豪病より免るる唯一の道なるがためである。

 貧乏人は割合に気楽である。衣食給せざるがためにおのれが身心を害する事あるも、これがためおおぜいの他人に迷惑を及ぼすという事はまれである。しかし金持ちはぜいたくをするがためにただにおのれが身心を害するのみならず、同時に世間多数の人々の生活資料を奪うのであるから、その責任は重大である。自分が水におぼれて死ぬのみではなく、自分が水におぼれて死ぬがために、天下の人を日射病にかからすのであるから、その責任は実に重大である。古人も「飲食は命を持《たも》ちて飢渇を療するの薬なりと思うべし」と言っておられる。ただその薬なきために一命を失うもの多き世に、薬を飲み過ぎて死んでは申し訳なきことである。一夜の宴会に千金を投じ万金を捨つる、愚人はすなわち伝え聞いて耳をそばだつべきも、ひっきょうはなんの世益なくやがては身を滅ぼすの本《もと》である。

 ひそかに思うに、世の富豪は辞令を用いずして官職に任ぜられおるがごときものである。私はすでに中編において、今日社会の生産力を支配しつつあるものは一に需要なる旨を説いた。しかるにその需要、その購買力を有すること最も大なるものはすなわち富豪なるがゆえに、ひっきょう社会の生産力を支配し指導する全権はほとんど彼らの掌中にゆだねられているのである。貧乏人もおのおの多少ずつの購買力は有しているが、もちろんそれはきわめて微弱なもので、たとえば衆議院議員の選挙権のごときものである。これに比ぶれば、富豪の購買力は、議会の多勢に擁せられて内閣を組織しつつある諸大臣の権力のごときもので、かつその財産を子孫に伝うるは、あたかも天下の要職を世襲せるがごときものである。古《いにしえ》より地獄の沙汰《さた》も金次第という。今この恐るべき金権を世襲しながら、いやしくもこれを一身一家の私欲のために濫用するがごときことあらば、これまさに天の負託にそむくというもの、殃《わざわい》その身に及ばずんば必ず子孫に発すべきはずである。このゆえに、富を有する者はいかにせば天下のためその富を最善に活用しうべきかにつき、日夜苦心しなければならぬはずである。ぜいたくを廃止するはもちろんのこと、さらに進んではその財をもって公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬと思う。

十三の一

 私はすでに前回の末尾において、富者はその財をもって公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬと言ったが、かく言うことにおいて、私の話はすでに消費者責任論より生産者責任論に移ったわけである。

 私はかつて、需要は本《もと》で生産は末であるから、われわれがもし需要さえ中止したならば、ぜいたく品の生産はこれに伴うて自然に中止せられ、その結果必然的に生活必要品の供給は豊かになり、貧乏も始めて世の中から跡を絶つに至るであろうと述べた。それゆえ私は消費者——ことに富者——に向かってぜいたくの廃止を説いたのであった。しかしさらに考えてみるといかに需要はあっても、もし生産者においていっさいのぜいたく品を作り出さぬという覚悟を立 つるならば、それでも目的は達し得らるべきはずである。

 世間にはいくらでも需要のある品物で、それを作って売り出せば、たやすく一※《いっかく》千金[# ※は「てへん+國」]の金もうけができるにもかかわらず、いやしくもその品物が天下の人々のためにならぬ性質のものたる以上、世の実業家は捨ててこれを顧みぬという事であれば、私の言うがごとき現代経済組織の弊所もこれがため匡正《きょうせい》せらるること少なからざるべしと思う。それゆえ私は論を移して、消費者責任論より生産者責任論に進むのである。

 私は今具体的に商品や商売の名を指摘して、多少にても他人の営業の邪魔をする危険を避けるつもりであるが、ただ一つ、今年の夏四国に遊んだおり、友人から聞いた次の話だけ、わずかにここに挿入《そうにゅう》することを許されたいものだと思う。

 このごろ婦女子の間に化粧品の需要せらるることはたいしたもので、これを数十年前に比ぶれば実に今昔の感に堪えざる次第であるが、ある日のこと、自分は所用あって田舎町《いなかまち》の雑貨店に立ち寄っていると、一人の百姓娘が美顔用の化粧品を買いに来た。見ていると、小僧はだんだんに高い品物を持ち出して来て、なかんずく値の最も高いのを指さしながら、これは舶来品だから無論いちばんよくききますなどとしゃべっていたが、その田舎娘はとうとういちばん高い化粧品を買って帰った。いわゆる夏日は流汗し冬日は亀手《きしゅ》する底《てい》の百姓の娘が美顔料など買って行く愚かさもさることながら、私はかかる貧乏人の無知なる女を相手に高価なぜいたく品を売り付けて金もうけすることも、ずいぶん罪の深い仕事だと感じた。

 友人の話というはただこれだけの事である。そうして私はこれ以上具体的の話をするつもりはないが、ただひそかに考うるに、いかに営業の自由を原則とする今の世の中とはいえ、農工商いずれの産業に従事するものたるを問わず、すべて生産者にはおのずから一定の責任があるべきはずだと思う。

 私は金もうけのために事業を経営するのを決して悪い事だと言うのではない。多くの事業はいかなる人がいかなる主義で経営しても、少なくとも収支の計算を保って行く必要がある。損をしながら事業を継続するという事は、永続するものではない。それゆえ私は決して金もうけが悪いとは言わぬ。ただ金もうけにさえなればなんでもするという事は、実業家たる責任を解せざるものだ、と批評するだけの事である。少なくとも自分が金もうけのためにしている仕事は、真実世間の人々の利益になっているという確信、それだけの確信をば、すべての実業家に持っていてもらいたいものだというのである。

 思うにすべての実業家が、真実かくのごとき標準の下にその事業を選択し、かくのごとき方針の下にその事業を経営し行くならば、たとい経済組織は今日のままであっても、すべての事業は私人の営業の名の下に国家の官業たる実を備え、事業に従う者も名は商人と言い実業家と言うも、実は社会の公僕、国家の官吏であって、得るところの利潤はすなわち賞与であり俸給《ほうきゅう》である。 かの経済組織改造論者はすべて今日私人の営業に属しつつあるものをことごとく国家の官業となし、すべての人をことごとく国家の官吏にしようというのであるが、個人の心がけさえ変わって来るならば、たとい経済組織は今日のままであっても、組織を改造したるとほとんど同じ結果が得らるるのである。

 他人との競争について考えても同じことである。私は決して競争を否認するものではない。もし自分の売り出している品物の方が、同業者のよりも実際安くてよい品物であり、また自分の方が他人よりもそのもうけた金をば真実社会のため、事業そのものの発達のため、より有効に使用しうるという確信があるならば、いくら他人を押しのけ自分の販路を拡張したとて毫《ごう》もさしつかえはない。日々新聞紙に一面大の広告をして世間の耳目をひくもよかろうし、それがため他人の金もうけの邪魔をする事になっても、それはいたしかたのない事である。またたくさんの金をためているということも決して悪い事ではない。これは天下の宝である。みだりに他人の手に手に渡す時は必ずむだな事に使ってしまうから、自分が天下のために万人に代わってその財産を管理しているという信念の下に、金をためているならば、少しもさしつかえないことだと思う。その代わりかかる信念を有する人々は、いくら金をもうけ、いくら財産をこしらえても、これを一身一家の奢侈《しゃし》ぜいたくには使わないはずである。思うにかくのごとくにして始めていっさいの社会問題は円満に解決され、また始めて実業と倫理との調和があり、経済と道徳との一致があり、われわれもこれによりてようやく二重生活の矛盾より脱することを得、銖錙《しゅし》の利を争いながらよく天地の化育を賛《たす》けつつありとの自信を有しうるに至るのである。よってひそかに思う、百四十年前自己利益《セルフ・インタレスト》是認の教義をもって創設され、一たび倫理学の領域外に脱出せしわが経済学は、今やまさにかくのごとくにして自己犠牲《セルフ・サクリファイス》の精神を高調することにより、その全体をささげて再び倫理学の王土内に帰入すべき時なることを。もしそれ利己といい利他というもひっきょうは一のみ。今曲げてしばらく世間の通義に使う。高見の士、請うこれを怪しむことなかれ。

十三の二

 頭脳の鋭敏なる読者は、私が貧乏退治の第一策として富者の奢侈《しゃhし》禁止を掲げておきながら、その第一策を論ずる中に、私の話は一たびは富者を去って一般人のぜいたくに説き至り、さらに消費者責任論より生産者責任論に移りしを見て、ことに私の脱線を怪しまれたであろう。しかしこれはただ論を全うするためで、私の重きを置くところは飽くまで、富者の奢侈廃止である。

 すなわちこれを生産者の責任について論ぜんか、すでに述べしがごとく、需要と生産との間にはもとより因果の相互関係ありといえども、しかもそのいずれが根本なりやと言わば、需要はすなわち本《もと》で、生産はひっきょう末である。されば社会問題の解決についても、消費者の責任が根本で、生産者の責任はやはり末葉たるを免れぬ。何ゆえというに、極端に論ずれば、元来物そのものにぜいたく品と必要品との区別があるのではなくて、いかなる物にてもその用法いかんによって、あるいは必要品ともなりあるいはぜいたく品ともなるからである。

 たとえば米のごときは普通には必要品とされているけれども、これを酒にかもして杯盤狼藉《ろうぜき》の間に流してしまえば、畳をよごすだけのものである。世の中には貧乏人の多いのは生活必要品の生産が足りぬためだという私の説を駁《ばく》して、貴様はそういうけれども、日本では毎年何千万石の米ができているではないかと論ぜらるるかたもあろうが、実はそれらの米がことごとく生活の必要を満たすために使用されているのではない。徳川光圀《とくがわみつくに》卿《きょう》の惜しまれた紙、蓮如《れんにょ》上人《しょうにん》の廊下に落ちあるを見て両手に取っていただかれたという紙、その紙が必要品たるに論はないけれども、いかなる必要品でも使いようによっては限りなくむだにされうるものである。たとえばまたかの自動車のごときは、多くの人がこれをぜいたく物というけれども、しかし医者が急病人を見舞うためなどに使えば、無論立派な必要品になる。

 かくのごとくすべての物がその使用法のいかんによって必要品ともなればぜいたく物ともなりうるものであるから、いくら生産者の方で必要品を作り出すように努めたからといって、消費者が飽くまでも無責任に濫用《らんよう》すれば、到底いたしかたのない事になる。それゆえ、私は生産者の責任よりも消費者の責任を高調し、一般消費者の責任よりも特に富者の責任を力説したのである。しかし富者も貧者も消費者も生産者も、互いに相まっておのおのその責任を全うするに至らなければ、完全に理想的なる経済状態を実現するを得ざること言うまでもなきことである。

 私が貧乏退治の第一策というは以上のごときものである。思うにもしここまで読み続けられた読者があるならば、中には実につまらぬ夢のごときことを言うやつじゃと失望されたかたもあろうが、私は自叙伝の作者たるゼー・エス・ミルになろうて、それらの読者には、ひっきょうこの物語は自分らのために書かれたものではないのだと思って勘弁してください、と申すよりほかにしかたがない。しかも万一前後の所論につきこの物語の著者と多少感を同じゅうせらるる読者があるならば、それらの読者を相手に私は今少し述べたいことがある。

 私は先に消費者としてまた生産者として各個人の責任を述べ、ひいて経済と道徳との一致を説いたが、これにつけて思い出さるるは、中庸の「道は須臾《しゅゆ》も離る可《べ》からず、離る可きは道に非《あら》ざる也《なり》」の一句である。思うに世の実業界に活動するもの往々道徳をもって別世界の事となし、まれにこれを口にするも、わずかに功利の見地より信用の重んずべきを説くの類に過ぎずといえども、もし余の説くところにして幸いに大過なからんか。朝《あした》より夕《ゆうべ》に至るまで、※屎送尿着衣喫飯《あしそうにょうちゃくいきっぱん》[# ※は「屈の字の出を阿に置き換えた文字]、生産消費いっさいの経済的活動を通じて、すべてこれ道ならざるはなく、経済の中に道徳あり、経済すなわち道徳にして、はたして道は須臾も離るべからず、離るべきは道にあらざることを知るに足る。余大学の業を終え、もっぱら経済の学に志してより今に至って十有四年、ようやく近ごろ酔眼朦朧《もうろう》として始めて這個《しゃこ》の消息を瞥見《べっけん》し得たるに似るがゆえに、すなわちこの物語に筆を執りいささかの所懐の一端を伸ぶ。しかりといえども、この編もし過《あやま》りて専門学者の眼《まなこ》に触るることあらば、おそらく荒唐無稽《こうとうむけい》のそしりを免れざらんか。

十三の三

 ありがたい事には、この物語も今日《こんにち》で無事終わりを告げうることとなった。私は最後の一節に筆を執るに臨み、まず本紙(大阪朝日新聞)の編者が、休み休み書いたこの一学究の随筆のために、長く貴重なる紙面をさき与えられしことを深く感謝する。

さて私は最後に世界の平和について一言するであろう。思うに欧州の天地は今や大乱爆発して修羅《しゅら》のちまたと化しつつあるが、何人もこの大戦の真の当局者が英独二国なることを疑う者はあるまい。しからばなんのためのこの両国の葛藤《かっとう》ぞというに、ひっきょうは経済上における利害の衝突、これが両国の不和の根本的原因である。

 今私はその利害の衝突についてくわしく説明する余暇をもたぬけれども、要するに英独両国はすでに製品輸出の競争時代を経て資本輸出の競争時代に入りしこと、これがそもそも不和の根元である。

 けだし一国の産業がある程度以上の発達をなす時は、商工業上の利潤が次第に集積されて資本が豊富になるために、これを国内の事業に投ずるよりも、むしろその余分の資本はこれを海外の未開国に放下する方、はるかに高率の利益をあげうることとなる。かくて貨物の輸出と同時に資本の輸出が経済上きわめて重大な問題になって来るのである。しかしてかの英国は今より五六十年前早くもかかる時代に到達せしもので、爾来《じらい》英国は南北両アメリカを始めとし、その他世界の諸地方に向かって盛んにその資本を輸出せしもので、現にその資本の利子のために毎年巨額の輸入超過を見つつありし事情は、人のよく知るところである。

 英国に次いで資本輸出の時代に入りしものは仏国であった。しかしながら、仏国は次に述ぶるがごとき二個の理由によって、資本の輸出に関してはさして有力なる英国の競争者となり得ざりしものである。その第一理由は、同国における人口増加の停止である。これがため人口一人当たりの富は無論増加せしも、全国における資本増殖の速度は到底英国のごとく盛んなることあたわざりしものである。その第二の理由は、一般にフランス人は保守的なりということである。かかる事情にもとづき、同国の資本は主としてスペイン、ベルギー等の隣国に放下され、世界の資本市場においては到底有力なる英国の競争者となり得ざりしものである。されば久しき間世界の資本市場はほとんど英国の独占に帰していたのである。しかるに近時ドイツはにわかに産業上の大進歩を遂げ、まもなく資本輸出の時代に入りしのみならず、ことに今世紀に入るに及びては、年を追うてますます大規模の資本輸出を試むることとなり、これがため従来ほとんど英国の一手に帰属せし世界の資本市場は、ここに有力なる競争者を加え、英国の利益は日に月にますます脅迫せらるることとなった。かくのごとくにして英独両国の葛藤《かっとう》は結びて久しく解けず、ついに発して今次の大戦となるに至りしものである。

 以上はしばらくセリグマン教授の解釈に従ったものであるが(同氏著『現戦争の経済的説明*』による)、私が今この事をここに引き合いに出したのは、これらの諸国が資本輸出の競争のために幾百万の生民の血を流さなければならぬという事が、ある意味においていかにも不思議であるからである。
* Seligman, The Economic Interpretation of the War, 1915.

 今英国人にとっては縁もなき異国人たる私が、改めて彼らのために説くまでもなく、たとえば『エコノミスト』主筆ウィザース氏がその近業『貧乏とむだ*』の中に詳論せるがごとく、今日英国の本土内においても起こすべき仕事がなおたくさんにあるのである。私はこの物語の上編において、いかに英国民の大多数が貧乏線以下に沈落して衣食なお給せざるの惨状にあるかを述べたが、これら人々の生活必要品を供給するだけでもすでに相当な仕事が残っていると言わなければならぬ。さるにもかかわらず、最も資本に豊富な世界一の富国たる英国において、それらの仕事が皆放棄されたままになっているのは、それら貧乏人の要求に応ずべき事業に放資するよりも、海外未開地の新事業に放資する方がもうけが多いからである。かくて世界一の富国たる英国は同時に世界一の貧乏人国として残りつつ、しかも資本の輸出の競争のために国運を賭《と》してまで戦争しなければならなくなったのである。
* Withers, Poverty and Waste, 1915.

 思うにもし英国の富豪ないし資本家にして、消費者としてはた生産者としての真の責任を自覚するに至るならば、ただに国内における社会問題を平和に解決しうるのみならず、また世界の平和をも維持しうるに至るであろう。

 これをもって考うるに、ひっきょう一身を修め一家を斉《ととの》うるは、国を治め天下を平らかにするゆえんである。大学にいう、「古《いにしえ》の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先《ま》ず其《そ》の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉《ととの》う。其の家を斉えんと欲する者は、まず其の身を修む。身修まって後《のち》家斉い、家斉うて後国治まり、国治まって後天下平らかなり。天子より以《もっ》て庶人に至るまで、一に是《こ》れ皆身を修むるをもって本《もと》を為《な》す。その本乱れて末治まる者は否《あら》じ矣《い》」と。嗚呼《ああ》、大学の首章、誦しきたらば語々ことごとく千金、余また何をか言わん。筆をとどめて悠然《ゆうぜん》たること良《やや》久《ひさ》し。

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底本:「貧乏物語」岩波文庫、岩波書店
   1947年9月5日発行、1965年10月16日第30刷改版発行、1975年12月10日第43刷による