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[#河上肇「貧乏物語」(下編)1/2]

八の一

 今や天高く秋深くまさに読書の好時節なりといえども、著者近来しきりに疲労を覚え、すこぶる筆硯《ひっけん》にものうし。すなわちこの物語のごときも、中絶することすでに二三週、今ようやく再び筆を執るといえども、駑馬《どば》に鞭《むちう》ちて峻坂《しゅんぱん》を登るがごとし。

 それ貧乏は社会の大病である。これを根治せんと欲すれば、まず深くその病源を探ることを要す。これ余が特に中編を設け、もっぱらこの問題の攻究にあてんと擬せしゆえんである。しかもわずかに粗枝大葉の論を終えたるにとどまり、説のいまだ尽くさざるものなお多けれども、駄目《だめ》を推さばひっきょう限りなからん。すなわち余はしばらく以上をもって中編を結び、これより直ちに下編に入らんとす。下編はすなわち貧乏退治の根本策を論ずるをもって主題となすもの。おのずからこの物語の眼目である。

 今論を進めんがため、重ねて中編における所論の要旨を約言せんか、すなわちこれを左の数言に摂することを得《う》。いわく、

  • (一)現時の経済組織にして維持せらるる限り、
  • (二)また社会にはなはだしき貧富の懸隔を存する限り、
  • (三)しかしてまた、富者がその余裕あるに任せて、みだりに各種の奢侈《しゃし》ぜいたく品を購買し需要する限り、

貧乏を根絶することは到底望みがない。

 今日の社会に貧乏を絶たざるの理由すでにかくのごとし。されど吾人《ごじん》にしてもしこの社会より貧乏を根絶せんと要するならば、これら三個の条件にかんがみてその方策を樹《た》つるのほかはない。

 第一に、世の富者がもし自ら進んでいっさいの奢侈《しゃし》ぜいたく品を廃止するに至るならば、貧乏存在の三条件のうちその一を欠くに至るべきがゆえに、それはたしかに貧乏退治の一策である。

 第二に、何らかの方法をもって貧富の懸隔のはなはだしきを匡正《きょうせい》し、社会一般人の所得をして著しき等差なからしむることを得《う》るならば、これまた貧乏存在の一条件を絶つゆえんなるがゆえに、それも貧乏退治の一策となしうる。

 第三に、今日のごとく各種の生産事業を私人の金もうけ仕事に一任しておくことなく、たとえば軍備または教育のごとく、国家自らこれを担当するに至るならば、現時の経済組織はこれがために著しく改造せらるるわけであるが、これもまた貧乏存在の一条件をなくするゆえんであって、貧乏退治の一策としておのずから人の考え至るところである。

 さてわれわれが今、当面の問題をば単に机上の空論として取り扱うつもりならば、われわれは理論上以上の三策に対してはほぼ同一の価値を下しうる。しかしながら、採ってもって直ちにこれを当世に行なわしめんとするにあるならば、おのずから別に周密なる思慮を加うるを要する。

 たとえば、難治の大病にかかって長く病院にはいっていた者が、近ごろ次第に快方に向かったというので、退院を許され、汽車に乗って帰郷の途についたとるする。しかるに不運にも汽車が途中で※覆《てんぷく》して[# ※は「眞+頁」]その人もこれがために重傷を負うて死んだとする。今この一例について考うるに、もし汽車が※覆[# ※は「眞+頁」]しなかったならば、この人はたしかに死ななかったはずである。しかしたとい汽車は※覆[# ※は「眞+頁」]しても、もしその病気が快方に向かわなかったならば、この人は退院も許されず、従って帰郷の途につくはずもなかったのであるから、やはり死をまぬがれたはずである。すなわちこの人の死を救わんとすれば、われわれはこれら二条件のいずれか一をなくすればよいのであるが、しかし汽車をして※覆[# ※は「眞+頁」]せしめざるの方策を講ずるのはさしつかえないけれども、その人の病気をして快方に向かわしめざるの方策を講ずるというは間違いである。もし引き続きさような事をしたならば、その人は汽車でけがをして死ぬることこそなくとも、ついには病院の床の上で医者に脈をとられつつ死ななければならぬのである。思うに以上述べたる貧乏根治策のうち、あるいはこれに類するものなきやいかん。けだし上記三策の是非得失ならびにその相互の間における関係連絡に至っては、おのずからさらに慎重なる考慮を要すべきものならん。請う余をして静かにその所思一端を伸べしめよ。

八の二

 余は前回において貧乏根絶策として考えうべきもの三策あることを述べ、すでにその大要を説きおえたりといえでも、なおいささか尽くさざるところあるがゆえに、本日は重ねてまた同一事を繰り返す。

 今日経済上の技術はすでに非常なる進歩を遂げたるにもかかわらず、何ゆえ生活必要品の生産が充分に行なわれずして、多数の人々はその肉体の健康を維持するに足るだけの衣食さえ、これを得《う》ることあたわざるの状態にあるかといえば、それはすでに述べしごとく、富者がその余裕あるに任せ、みだりに各種の奢侈ぜいたく品を需要するがゆえに、天下の生産力の大半がこれら無用有害なる貨物の生産に向かって吸収され尽くすがためである。さればもし世間の金持ちがいっさいの奢侈ぜいたくを廃止するならば、たとい社会には依然としてはなはだしき貧富の懸隔を存し、また社会の経済組織もすべて今日のままに維持せらるとも、私のいうがごとき貧乏人(すなわち金持ちに比較していう貧乏にあらず、肉体の健康を維持するだけの生活必要品をさえ享受することあたわざる状態にあるという意味の貧乏人なり)は、すべて世の中から跡を絶つに至るべきはずである。これ余が、富者の奢侈《しゃし》廃止をもって貧乏退治の第一策となすゆえんである。

 しかしたとい今日の富者が自ら進んで倹素身を持するに至らずとも、もしなんらかの方法をもって、一方には富者のますます富まんとするの勢いをおさえ、他方には貧者(金持ちに比較していう貧乏人)をして次第にその地位を向上せしめ、かくて貧富の懸隔のはなはだしきを匡正《きょうせい》し、一般人の所得をして比較的平等に近づくを得せしむるならば、われわれはその方法のみによっても、貧乏退治の目的を達することができる。けだしすでに一般人の所得にしてはなはだしき差異なからんか、一国の購買力はおのずから社会の最大多数の人々の必要品に向かって振り向けらるべきがゆえに、たとい社会の経済組織は全く今日のままにて、すなわち貨物の生産者はすべて自己の営利をのみ目的とし、もっぱら需要ある貨物、言い換うれば金を出して買い手のある貨物をのみ生産するしくみとなりおるとも、今日のごとく無用有害の奢侈ぜいたく品のみうずたかく製造され、多数人の生活必要品の生産は捨てて顧みられざるがごとき悲しむべき状態は、幸いにしてこれを免れうるからである。これ余が、貧富懸隔の匡正をもって貧乏退治の第二策となすゆえんである。

 しかるにさらに考うれば、たとい第一策にして行なわれず、まだ第二策にして行なわれずとするも、もし今日の経済組織を改造すれば、やはり貧乏退治の目的を達しうるがごとくである。少なくともそういう事を考え浮かぶ人がありうるはずである。何ゆえというに今日多数人の生活必要品が充分に生産されぬのは、貨物の生産というたいせつな事業が私人の金もうけの仕事に一任してあるからである。一国の軍備でも教育でももしこれを私人の金もうけの仕事に一任しておくならば、到底その目的を達し得らるるものではない。しかるに軍備よりも教育よりもなおいっそうたいせつなる生活必要品の生産という事業をば今日は私人の金もうけの仕事に一任しているから、それで各種の方面に遺憾な事が絶えいないのである。ゆえに今日の貧乏を退治せんとすれば、よろしく経済組織の改造を企て、私人の営利事業のうち、国民の生活必要品の生産調達をつかさどるものは、ことごとくこれを国家事業に移すべしなどいう思想が出て来るのである。これ余が経済組織の改造をもって貧乏退治の第三策となすゆえんである。今余は便宜のため、以下まずこの第三策より吟味するであろう。

九の一

 「経済学は英国の学問にして、英国は経済学の祖国なること、たれ人も否むあたわざるの事実なり」(福田《ふくだ》博士の言)。今その英国に育ちたる経済学なるものの根底に横たわりおる社会観を一言にしておおわば、現時に経済組織の下における利己心の作用をもって経済社会進歩の根本動力と見なし、経済上における個々人の利己心の最も自由なる活動をもって、社会公共の最大福利を増進するゆえんの最前の手段なりとなすにある。しかるに、元来人は教えずして自己の利益を追求するの性能を有する者なるがゆえに、ひっきょうこの派の思想に従わば、自由放任はすなわち政治の最大秘訣《ひけつ》であって、また個人をしてほしいままに各自の利益を追求せしめおかば、これにより期せずして社会全体の福利を増進しうるということが、現時の経済組織の最も巧妙なるゆえんであるというのである。すなわち現時の経済組織を謳歌《おうか》し、その組織の下における利己心の妙用を嘆美し、自由放任ないし個人主義をもって政治の原則とすということが、いわゆる英国正統学派の宗旨とするところである。さればいやしくも現時の経済組織の下において、多少にても国家の保護干渉を是認し、利己心の自由なる発動になんらかの制御を加えんとするかの国家主義、社会政策のごときは、これを正統学派より見れば、すなわちいずれも皆異端である。

 個人主義者はすなわち説いていう。「試みにヨーロッパの世界的都市にきたりて見よ。そこには幾百万の人々が毎朝種々雑多の欲望をもって目ざめる。しかるに大部分の人々はなお深き眠りをむさぼりつつある時、はや校外からは新鮮なる野菜を載せた重い車をひいて都門に入りきたる者があるかと思えば、他方には肥えたる牛を屠場《とじょう》に引き入れつつある者がある。パン屋ははや竈《かまど》をまっかにして忙しそうに立ち働いているし、乳屋は車を駆《や》って戸々に牛乳を配達しつつある。かしこには馬車屋が見も知らぬ客を乗せて疾走しているかと見れば、ここには来るか来ぬか確かでもない顧客を当てにして、各種の商店が次第次第に店を開き始める。かくて市街はようやく眠りよりさめ、ここにその日の雑踏が始まる。今この驚くべき経営により、幾百万の人々が、日々間違いなく、パンや肉類や牛乳や野菜やビールやぶどう酒の供給を受けて、無事にその生活を維持し行くを得《う》るは、そもそも何によるかと考えて見よ。ひっきょうは皆利己心のたまものではないか。いかに偉い経営者が出て、あらかじめ計画を立てたとて、数百万の人々の種々雑多の欲望をば、かくのごとく規則正しく満たして行くということは、到底企て及ぶべからざる事である。」(ランゲ氏『唯物主義史論』中の一節を借る*)。個人主義者はかくのごとく観ずることによりて現代の経済組織を謳歌《おうか》するのであるが、げに今の世の中は、金ある者にとりてはまことに重宝しごくの世の中である。
 * Lange, Geschichte des Materialismus. Bd. II. S. 475.

 

九の二

 げに今の世のしくみは、金ある者にとっては、まことに便利しごくである。現に私のごとき者も、多少ずつの月給をもらっているおかげで、どれだけ世間のお世話になって便利を感じておるかわからぬ。まず手近な食物について考えてみても、何一つ私は自分に手を下して作り出した物はない。私は春が来ても種子《たね》をまく心配もせず、二百十日が近づいても別に晴雨を気にするほどの苦労もしておらぬのに、間違いなく日々米の御飯を食べることができる。その米は、私の何も知らぬうちに、日本のどこかでだれかが少なからぬ苦労を掛けて作り出したものである。それをまただれかさまざまのめんどうを見て、山を越え海を越え、わざわざ京都に運んで来てくれたものである。また米屋という者があって、それらの米を引き取って精白し、頼みもせぬに毎日用聞きに来てくれるし、電話でもかければ雨降りの日でもすぐ配達してくれる。かくのごとくにして、私はまた釣りもせずに魚を食い、乳もしぼらずにバタをなめ、食後には遠く南国よりもたらせし熱帯の香り高き果実やコーヒーを味わうことさえできる。呉服屋も来る、悉皆屋《しっかいや》も来る。たとい妻女に機織りや裁縫の心得はなくとも、私は別に着る物に困りはせぬ。今住んでいる家も、私は一度も頼んだことはないが、いつのまにか家主《やぬし》の建てておいてくれたものである。もちろんわずかにひざを容《い》るに足るだけのものではあるが、それでも庭には多少の植木もあり、家には戸締まりの用意までしてある。考えてみると、私は私の一生を送るうちに,否きょうの一日《ひとひ》を暮らすにつけても、見も知らぬおおぜいの人々から実に容易ならざるお世話をこうむっているのである。しかしこれは私ばかりではない。私よりももっとよけいの金を持っている者は、広い世間に数限りなくあるが、それらの人々は一生のうち、他人《ひと》のためには一挙手一投足の労を費やすことなくとも、天下の人々は、争うて彼に対しさらにさらに多くの親切を尽くしつつある。そこで金のある人は考える。今の世の中ほど都合よくできているものはない。だれが命令するでもなく計画したのでもないのに、世界じゅうの人が一生懸命になって他人のために働くという今日のしくみは、不思議なほどに巧妙をきわめたもので、とても人知をもって考え出すあたわざるところであると。ここにおいてか、いやしくも現代の経済組織を変更し改造せんとする者ある時は、彼らは期せずしていっせいにかつ猛烈にこれを抑圧する。

 しかし気の毒なのは金のない連中である。ことわざに地獄の沙汰《さた》も金次第というごとく、金さえあれば地獄に落つべきものも極楽に往生ができるが、金がなくては極楽にゆくべきものも地獄に落ちねばならぬのが、今の世の中である。先ほども私は世界じゅうの人が集まって私を親切にしてくれるとお話ししたが、しかしそれは私が多少ずつなりとも月給をもろうて金を持っているからである。家賃を滞らせば、ただ今の親切な家主も、おそらく遠からず私を追い出すであろう。一文もなくなったら、私は妻子とともに、この広い世界に枕《まくら》を置くべき所も得られぬであろう。私の寝ているうちに、毎朝早くから一日も欠かさずに配達してくれた新聞屋も牛乳屋も、もし私が月末にその代価を払わなくなったら、とてもこれまでのように親切にしてくれぬであろう。げに金のある者にとっては、今の世の中ほど便利にしごくのしくみはないが、しかし金のない者にとっては、また今の世の中ほど不便しごくのしくみはあるまい。

九の三

 今の世の中は、金さえあればもとより便利しごくである。しかし金がなければ不便またこの上なしである。それが今の世のしくみである。それゆえ、一方にはその肉体の健康を維持するに必要なだけの衣食をさえ得ておらぬ者がたくさいんいるのに、そんな事にはさらにとんじゃくなく、他方には金持ちの人々の需要する奢侈《しゃし》ぜいたく品がうずたかく生産されつつある。これをば単に金持ちの利己心の立場からのみ見たならば、誠に勝手のよい巧妙なしくみだといえるであろうが、もし社会全体の利益を標準として考うるならば、はたしてこれをこのまま放任しておいてよいものかという疑問が起こるのである。

 しかし不思議にもわが経済学は、現代経済組織の都合よき一面をのみ観察することによりてこれを謳歌《おうか》し、その組織の下における利己心の活動をば最も自由に放置することが、やがて社会公共の利益を増進するゆえんの最善の手段であるという主張をもって、創始せられたものである。

 思うに個人の私益と社会の公益とが常に調和一致するものなりちょう正統経済学派の死蔵の泉源は、遠くこれを第十八世紀の初頭に発せしもののごとくである。回顧すれば今より二百十余年前、一七〇五年、もとオランダの医者にして後英国に移住せしマンダヴィルという者は、自作の英詩に『不平を鳴らす蜂《はち》の群れ』という題をつけ、これを定価わずかに六ペンスの小冊子に印刷して公にした事がある。そうしてこの詩編は、それより八年後の一七一四年に、著者自らこれに注釈及び論文等を加え、『蜜蜂《みつばち》物語』*と改題して再版するに及び、はなはだしく世間の攻撃を受け、従ってまた著しく世人の注意をひくに至ったものであるが、これがそもそも英国における利己心是認思想の権與《けんよ》である。
 * Manderville, Fable of Bees.

 『蜜蜂物語』は一名『個人の罪悪はすなわち公共の利益なり』と題せるによっても明らかなるごとく、各個人がその私益私欲をほしいままにするという事がやがて公共の利益、社会の繁栄を増進するゆえんであると説いたものである。大正のみ代のかたじけなさには、二百十余年前遠き異国でものされたこの物語も、今日は京都大学の図書館にその一本が備え付けられてある。すなわち試みに蜜蜂の詩の末尾に置かれたる「教訓」と題する短詩を見るに、その末句は次のごとくである。

「さらば悲しむをやめよ、
正直なる蜜蜂の巣をして、
偉大ならしめんとするは、
ただ愚者のなす業《わざ》である。
「大なる罪悪なくして、あるいは
便利安楽なる世の貨物を享受し、
あるいは戦争に勇敢にしてしかも
平時安逸に暮らさんとするは、
ひっきょうただ脳裏の夢想郷である。
     *
「かくのごとく罪悪なるものは、
そが正義もて制御せらるる限り、
誠に世に有益なる泉である。
否国民にして大ならんとせば、
罪悪の国家に必要なるは、
人をして飲食せしむるに
飢渇の必要なるがごとくである。」

 私は今この蜜蜂物語の内容をここにくわしく紹介する余白をもたぬけれども、以上の一二句によりて見る時は、個人の私欲はすなわち社会の公益をもたらすものなりちょう思想が、おおよそいかなる調子で説き出されてあるかがわかるであろう。

 ともあれ、今より二百十余年前、英国に帰化したオランダの一医者が歌い出したこの一編の悪詩は、奇縁か悪縁か、後に至っては正統経済学派の根本思想を産むの種子《しゅし》となったものである。はなはだあわれな出発点だが、わが経済学の素性《すじょう》を洗えば、実はかくのごときものである。

九の四

 一たびマンダヴィルによって創《はじ》められた利己心是認の論は、その後ヒューム、ハチソンその他の倫理学者の手を経て、ついにアダム・スミスに伝えられた。

 アダム・スミスはもとグラスゴー大学の道徳哲学《モーラルフィロソフィー》の教授であったが、のち職を辞して仏国に遊び、それより帰国ののちは、自分の郷里なるスコットランドの小都市カーコゥディーに蟄居《ちっきょ》し、終生ついに妻を迎えず、一人の老母とともに質素平和の生活を営みつつ、黙々として読書思索に没頭すること幾春秋、ようやく一七七三年の春になって、彼は一巻の草稿をふところにしてロンドンに向け出発した。しかしてこの草稿こそ、その後さらに三個年間の増補訂正を経、一七七六年三月九日始めて世に公にさるるに至ったところの有名なる『国富論《ウエルス・オブ・ネーションズ》』であって、わが経済学はまさにこの時をもってこれとともに生まれたものである。

 スミスが仏国遊学後、自分の郷里なる田舎町《いなかまち》のカーコゥディーに引っ込んで送り得た約六年の歳月は、外から見ては誠に平静無事な六年であったが、彼自身にとっては実に非常なる大奮闘の時代であって、すなわち彼はこの間においてその肉を削りその血を絞りつつ、彼が終生の大著たる『国富論』の完成に熱中したのであった。されば稿ようやくなるののち、一七七三年の春、これをふところにしてロンドンに向かって立つや、彼は精力気力すでにことごとく傾け終えたるがごとき気持ちであった。その時彼は、ロンドンにたどり着く途中、いつどこの客舎で死ぬかもしれぬと思ったほど、気力の衰えを感じたのである。されば彼がまさにロンドンに向かって出発せんとする時、同年三月十六日の日付をもって、エディンバラより友人ヒュームにあてたる手紙の中には、万一の場合の後事を委託し、かつ「もし私がきわめて突然に死ぬるような事のない限り、私は今私の持っている原稿をば(それがすなわち『国富論』の草稿である)間違いなくあなたに送らすように注意するつもりである」とさえ言ってあるのである。

 私はスミスの伝を読んでこれらの章に至るごとに、古人の刻苦力を用うるの久しくしてかつ至れる、その勝躅遺蹤《しょうちょくいしょう》、大いにもって吾人《ごじん》を感奮興起せしむるに足るあるを磋嘆《さたん》するに耐えざる者である。しかしこの年代におけるスミスの衰弱の原因については、私は久しく多少の疑いをたくわえていた。元来スミスは浦柳《ほりゅう》の質であった、それが数年間引き続いて過度の勉強思索にふけったのであるから、はなはだしくその健康を害するに至ったのは、自然のなりゆきのようでもあるが、しかしそれにしても、彼は当時毎年充分の年金を得ていて、衣食のためにはかつて心を労する必要がなかった上に、おいおい年をとって来たとはいえ、ロンドンに向かって出発する時はまさに五十歳に過ぎなかったのである。いくら過度の勉強思索にふけったとはいえ、旅中にいつ死ぬかもしれぬと感ずるまでに弱り果てたというのは何ゆえであるか。これがすなわち私の疑問であって、私はこれに一応の解釈はつけながら、今日までなお充分の満足を得ざりし者である。しかるに近ごろになって私はようやくこの疑問を全く氷釈し得たるがごとくに思う。

けだしスミスは元来倫理学者である。その倫理学者が倫理学者として経済問題の攻究に従事しておるうちに、彼は経済上における利己心の活動を是認することにより、ある意味において、経済上におけるいっさいの人の行為を倫理問題の埒外《らちがい》に推し出したものである。かくて彼は倫理学以外に存立しうる一個独立の科学としてわが経済学を建立し、自らその初祖となったものである。すなわちカーコゥディーにおける蟄居《ちっきょ》六年間の彼の仕事は、倫理学者としての殻《から》を打ち割り、自己多年の面目を打破し、自己の力により自己の身を化して有史以来いまだかつて有らざりしところの全く新たなる種類の学者たる経済学者なるものを産み出さんがための努力であったのである。この意味においてアダム・スミスはわが経済学の創設者である。正統経済学の第一祖である。

九の五

 アダム・スミス以前にも、貨幣、商業及び土地の改良等につき有力なる論者は少なからずあった。しかしながら、これらのものは皆当面の事件をただ時事問題として取り扱ったのであるから、いずれも一時的のかつ離れ離れの、相互の間になんらの連絡統一なきものであった。それをばスミスは利己心是認の思想をもって連絡統一し、これに向かって組織的の解釈を下したので、それが彼の生命の大半を奪った仕事であった。しかし彼自身の生命が失われたために、死んだ離れ離れの材料に生命が流れて、始めて経済学という一個独立の学問が産まれたのである。彼が今日に至るもなお経済学の父と呼ばるるはこれがためである。

 彼は各個人が各自の利益を追求することを是認し、これになんらの束縛を加えず、自然のままにこれを放任することによりて、始めて社会の繁栄を期し、最大多数の幸福を実現するを得《う》べしとしたのである。しかしてかの経済上における自然主義、楽天主義、自由主義、個人主義ないし自由競争主義等、およそ英国正統経済学派の特徴と見なすべき許多の色彩は、多くは皆如上《じょじょう》の根底より発しきたれるものである。

 スミス論じていわく「人間はほとんど耐えず他人の助力を必要とするが、しかしただ単に他人の恩恵によりてこれを得んとするも、決してその望みを達することはできぬ。これに反し、もしこれを他人の自利心に訴え、自己が他人に向かって要求するところのものを、他人が自己のためになしくるるは、すなわち彼ら自身の利益なることを知らしむるならば、容易にその目的を達し得らるるであろう。……われわれの飲食物は、肉屋、酒屋、パン屋等の恩恵にまつにあらずして、ただ彼らが彼ら自身の利益を重んずるがためにととのえらるるのである。われわれは彼らの慈善心に訴うるにあらず、ただ彼らの自利心に訴う。われわれは彼らに告ぐるに、決してわれわれ自身の必要をもってするにあらずして、ただ彼らの利益をもってするのみである。」(『国富論』キャナン校訂本、巻一、十六ページ*)。
 * Wealth of Nations, Cannan's ed., vol.1, p.16.

 彼はかくのごとく、産業上社会万般の経営は皆これを各個人の利己心の活動にまつと観ぜしがゆえに、経済政策上においては、一二の例外を除くのほか、すべて官業に反対して民業を主張し、保護干渉に反対して自由放任を主張したものである。すなわち論じていわく「さればいっさいの保護干渉を取り去り、かくて自然的自由という明白簡単なる制度をして自然に樹立するところあらしめよ。しかしてこの制度の下においては、各人は、正義の法を犯さざる限り、自己の欲するがままにおのれ自らの利益を追求し、各個人は、他の何人の事業及び資本に対しても、自己の事業及び資本をもって競争することにつき全然その自由に放任さるるであろう。」(同上巻二、一八四ページ)。

 私はスミスの思想についても、これをここに詳しく語るの余裕を有せぬが、わが賢明なる読者は、以上掲げし一二の抄録によって、その個人主義のほぼいかなるものなるかを推知せらるるであろう。

 思うに個人主義、放任主義の広く人心を支配すること久し。しかれども、今や『国富論』の公刊をさることまさに百四十年、たまたま世界未曾有《みぞう》の大乱起これるを一期として、諸国の経済組織はまさにその面目を一変せんとしつつある。

 これそもそも何がゆえぞ。吾人《ごじん》にしてもし個人主義の理論的欠陥を知るを得ば、自ずから時勢の変のもとづくところを知るを得ん。請う吾人をしてその一斑を説くところあらしめよ。

九の六

 余ひそかに思うに、アダム・スミスの誤謬《ごびゅう》の第一は、氏自ら「経済学の大目的は一国の富及び力を増加するにあり」(『国富論』キャナン校訂本、巻一、三五一ページ)と言えるによっても明らかなるがごとく、もっぱら富の増加を計ることのみをもってすなわち経済の使命なりとなせし点である。けだし富なるものは元来人生の目的——人が真の人となること——を達するための一手段にほかならざるがゆえに、その必要とせらるる分量にはおのずから一定の限度あるものにて、決して無限にその増加を計るべきものではない。これと同時に、これを社会全体より見れば、富の生産が必要なると同じ程度において、その分配が当を得ていることが必要である。もしその分配にして当を得ず、ある者は過分に富を所有して必要以上にこれを浪費しつつあるにかかわらず、ある者ははなはだしくその必要を満たすあたわざるの状態にありとせば、たとい一国全体の富はいかに豊富に生産されつつあるも、もとより健全なる経済状態といい難きものである。しかも富の生産をばその分量及び種類に関しこれを必要なる程度範囲に限定し、かつその分配をして最も理想的(平等というと異なれり)ならしめんとするがごときことは、現時の経済組織をそのままに維持し、すべての産業を民業にゆだね、かつ各事業家をしてもっぱら自己の利益を追求するがままに放任しおきたるのみにては、到底その実現を期しうべきものではない。

 アダム・スミスの誤謬の第二は、貨幣にて秤量《ひょうりょう》したる富の価値をば、直ちにその人生上の価値の標準としたことである。氏は一国内に生産せらるる貨物の代価を総計した金額が多くなりさえすれば、それが社会の繁栄であって、これよりよろこぶべき事はないと考えたのである。しかして世間の事業家は、別に国家から命令し干渉することなくとも、ただ自己の利益を追求するがために、互いに競争してなるべく値段の高く売れる貨物を作り出すに決まっているから、もしわれわれが社会の経済的繁栄を計らんとするならば、すべてこれを私人の利己心の最も自由なる活動に一任しておくに限ると考えたのである。

 しかし、すでに中編にて説明したるがごとく、最も高く売れる物が生産されて行くという事は、ただ社会の需要が最もよく満足されて行くという事に過ぎない。しかるにいわゆる需要とは、購買力を伴うた要求ということである。ただ金持ちの要求というだけのものである。しからば単に需要によりてのみ一国の生産力を支配し行くことの不合理なるは言うまでもない。第一に、要求のあるに任せてこれを満たすということは、必ずしも社会公共の利益を計るゆえんではない。おおぜいの者の要求のなかには、これを満たすことが本人のためになんらの益なきのみならず、他人のためにも害を及ぼすものが少なくない。次に、各種の要求のうち、そのいずれを先にすべきやを定むるに当たっても、単に需要の強弱(すなわちその要求者の提供しうる金額の多少)をもっとのみその標準となさんとするは、分配の制度にして理想的となりおらざる限り決して理想的に社会の生産力を利用するゆえんの道ではない。

 以上述べたるところは、個人主義の理論上の欠点である。もしそれ、現代経済組織の下における利己心の束縛なき活動が、事実の上において悲しむべき不健全なる状態を醸成し、かくて一方に大厦高楼《たいかこうろう》にあって黄金の杯に葡萄《ぶどう》の美酒を盛る者あるに、他方には襤褸《らんる》をまとうて門前に食を乞《こ》う者あるがごとき、いやしくも皮下多少の血ある底《てい》の者が、※乎《かいこ》[# ※は契の下側を大から心に入れ替えた文字]として見て過ぐるあたわざる幾多悲惨の現象をいかにわれらの眼前に展開しつつあるやの実状に至っては、余すでにこの物語の上編においてその一斑を述ぶ。請う読者自ら前後を較量して、今の世に経済組織改造の論のようやく勢いを得んとすることの決していわれなきにあらざるを察知されん事を。

十の一

 現代経済組織の下において個人主義のもたらせし最大弊害は、多数人の貧困である。しかも今日の経済組織にして維持せらるる限り、しかして社会には依然として貧富の懸隔を存し、富者はただその余裕あるに任せて種々の奢侈《しゃし》ぜいたく品を需要し行く限り、到底この社会より貧乏を根絶するの望みなきがゆえに、ついに経済組織改造の論いずるに至る。詳しくいえば、貨物の生産をば私人の営利事業に一任しおくがごとき今日の組織を変更し、重要なる事業は大部分これを官業に移し、直接に国家の力をもってこれを経営し行くこと、たとえば今日の軍備のごとくまた教育のごとき制度となさんとするの主義すなわちこれにして、余は先の個人主義に対して、かりにこれを経済上の国家主義という。学問上よりいわば、国家は社会の一種に過ぎざれば、国家というよりも社会という方もとより意義広し。されば個人主義に対するものは、これをなづけて社会主義といいおきてさしつかえなき道理なれども、わが国にては、そが一種特別の危険思想を有する者によりて唱道されたるためにや、通例社会主義なる語には一種特別の意義が付され——西洋にてもまた同様の傾向あれども、概していえば今日この語の意義は全く確定せず、従って社会主義はほとんど何物《エブリー・シング》をも意味するとさえ称せられつつあるが——そは経済組織の基本として国家の存在を認めず、もっぱら労働者階級の利益を主眼として世界主義を奉じ、はなはだしきは無政府主義を奉ずるもののごとく思惟せられつつあるに似たるがゆえに、余はこれと混同せられんことをおそれ、特に社会主義なる語を避けて国家主義という。ひっきょう個人主義、民業主義に対する合同主義、官業主義をさすにほかならぬのである。余はこの点において読者が——数十万の読者がことごとく——なんらの誤解をされざらん事をせつに希望するものである。

 さて諸君がもし以上の説明をすなおに受け入れられるならば、私は進んで、次の一文を諸君に紹介する。

 ゼームス・ハルデーン・スミスという人が本年(一九一六年)公にしたる『経済上の道徳《エコノミック・モラリズム》』と題する序言の付記。——

「以上の序文を書いた後、事件の進行を見ていると、ヨーロッパの交戦国は次第にその産業をば広き範囲にわたって合同主義の上に組織することになった。ドイツの場合が特にそうである。現にドイツ筋から出た一記事には、『開戦以来ドイツの軍国主義は、国民の生活状態をも政府の手によりて引き続き支配することとなり、かくてドイツにおいては一個の社会主義的国家が実現されんとしつつある。すなわちただに一般食料品の価格が政府によりて公定せられおるのみならず、穀物、馬鈴薯《ばれいしょ》、鉄道及び全国の工場も約六割までは、すべて政府の手によりて支配されておる』と述べている。英国及びフランスにおいても、形勢は同じ方向に進みつつある。げに有力なる観察者のすでに久しく非難しつつありし個人主義的の、競争的の資本家制度は、戦争の圧力の下においては到底維持しうべからざる経済組織なることをば、これら諸国の政府は今や実際に認めて来たのである。元来個人主義的の経済組織は平時においても等しく維持しうべからざるものなので、この事は遠からず一般に認められて来るだろうと思うが、ことに戦後起こるべき新たなるかつ困難なる事情の下においては必ずそうなる事と信ずる*。」

* James Haldane Smith, Economic Moralism, 1916, Preface, p. 12.

 これによって見れば、軍国主義によって支配されつつあるドイツは、今や一個の社会主義的国家となりつつあると言うのである。私は原文に社会主義とあるから、ここにも社会主義と訳しておいたが、多数の読者にとっては、あるいは国家主義と訳した方が了解に便宜かとも思うのである。いずれにしても、ドイツが開戦以来実行しつつある社会主義なるものは、決して非国家主義ないし無政府主義的のものにあらざること、——及び私が先に、国家主義は一にこれを社会主義というもさしつかえなしと述べたることも——おそらくすべての読者の意義なく是認せらるるはずだと信ずる。……戦争の最中にカイザーが非国家主義や無政府主義を実行するはずはないのだから。

 そこで私は今一つ、だんだん長くなるけれども、今度はドイツ人自身の感想を録して、きょうの話を終わりたいと思う。本年発行の『社会政策及び立法に関する年報《アンナーレン・フュール・ゾチアレ・ポリチーク・ウント・ゲゼツツゲーブング》』第四巻(第五冊及び第六冊合綴号《がってつごう》)を見ると、ミュンスター大学教授プレンゲ氏の「経済発展の段階*」と題する一論があるが、その冒頭には次のごとく述べてある。

「われわれは、一九一四年という年は経済史上の一転機を画するもので、全く新たなる時代が、われわれの経済生活の上に、この年とともに始まったものと考えざるを得ざるに至った。そうしておそらくわれわれは、この新たなる時代をば、第十九世紀に行なわれた資本主義に対し、社会主義の時代と称せざるを得ぬであろう。」

* Plenge, Wirtschaftsstufen und Wirtschaftsentwickelung. (Annalen f. soc. Pol. u. Gessetsg.,IV. Bd. 5 & 6 Hft. S. 495.)

十の二

 開戦以来ドイツが経済上の経営において着々国家主義を実行しつつあることは、すでに諸君の熟知せらるるところと思うが、話の順序だから、その一例として、パン及びパン用穀物につきドイツの実行したる政策の一斑を述べんに、ドイツ政府は昨年(一九一五年)の一月二十五日にまずパン用穀物及び穀粉類の差し押え及び専売を断行している。当時の布告文に「連邦参議院の決定により全帝国を通じてすべての種類のパン用穀物及び穀粉はこれを差し押うることとす。……すべてのパン粉は町村団体に対しその給養すべき人口に割合に応じて分配すうんぬん」とあるが、すなわちそれである。かくのごとく全国にわたってパンの原料を国有すると同時に、これが分配に関しては、すべての人民を通じて一日一人の消費量をば二十五グラムと定め、これに馬鈴薯《ばれいしょ》の澱粉《でんぷん》を加えて一週間二キログラムの割合をもって給付することに決定したのである。かのパン切符などいう制度もこれがために起こったのであって、上は皇室及び皇族家を始めとして下は庶民に至るまで、すべて家族数に応じてパン切符の配布を受け、この切符なくしては何人もパンを口にすることができなくなったのである。東京大学の渡辺《わたなべ》教授はこれを評して「まさしく政府の権力をもってする社会主義の実行である」と言っておられるが(同氏著『欧州戦争とドイツの食糧政策』九八ページ)、社会主義の語が避けたければ、これを国家主義の実行と言ってもよいのである。

 これはただ一例を示しただけであるが、今日のドイツには、産業上すべての方面にわたって、かくのごとき国有主義、国営主義が実現されつつあるものと見て、大過はない。

 さすがの英国でも、ゼー・エチ・スミス氏の言ったごとく、だいたいは同じ方向に趨《はし》りつつある。たとえば去月(十一月)十九日発のルーター電報を見ると(同二十日の『大阪《おおさか》朝日新聞』掲載)英国にも食料品条例というものができて、すべての食料品の浪費を禁じ、各食料品につきその消費限度の量目を設定すること等の権限が、商務院の管掌事務として認められたということである。昨年(一九一五年)の一月からドイツの実行している事を、英国ではこのごろになってそれに着手したわけなのである。

 いかに国民の生活必要品でも、その供給をば営利を目的とせる私人の事業に一任しておいては、遺憾なく全国民に行きわたるべきものではない。また奢侈品《しゃしひん》の生産はいたずらに一国の生産力を浪費することにより、いかに国民全体の上に損害を及ぼすものなりとはいえ、余裕のある人々が金を出してこれを買う以上、営利を目的とせる事業家は、争うてこれが生産に資本と労力とを集中する。そは従来の経済組織をもってしては、とかく避け難きことである。そこで貧乏撲滅の一策として、経済組織改造の論が出るのであるが、幸か不幸か、ドイツもイギリスもフランスも、国運を賭《と》するの大戦に出会ったために、今や一挙にしておのおのその経済組織の大改造を企てつつある。

 思うに収穫の時期はすでにきたれり。アダム・スミスによりて産まれたる個人主義の経済学はすでにその使命を終えて、今はまさに新たなる経済学の産まれいずべき時である。見よ、世界の機運の滔々《とうとう》として移りゆくことを。語にいう、千渓万壑蒼海《せんけいばんがくそうかい》に帰し、四海八蛮帝都に朝すと。古今を考えかつ東西を観《み》る、また読書人の一楽というべし。噫《ああ》。

十の三

 皆が一生懸命になって、一国の生産力をできるだけ有効に使用しようとま じめに考えて来れば、従来の経済組織はおのずから改造されて来ねばならぬ。大戦勃発《ぼっぱつ》後八方に敵を受けたドイツが、開戦後まもなく率先して経済組織の大改造を企てたのも、ひっきょうこれがためである。従来多数の人々が見てもって机上の空論となし単に思索家の脳裏に描きし夢想郷に過ぎずとなせしところのものを彼はたちまちにして実現しきたったのである。思うに開戦当時は、半年もたたぬうちに必ず経済的破産に陥るべしと予期されたドイツが、今に至るもなお容易に屈せざるは、主としてこの新組織の力にまつ。真にわが国家の前途を憂うる者は、戦時におけるドイツ這個《しゃこ》の経営について大いに学ぶべし。もしそれその新組織を名づけて、あるいは社会主義なりとなし、あるいは国家主義なりとなすがごときは、ひっきょう名の争いのみ、名の異なるをもってその実を怪しむがごときは、おそらく識者のなすべき事ではなかろう。

 もちろん現時のわが国においては、貧富の懸隔は決して西洋諸国のごとくはなはだしくなってはいない。しかし余のいわゆる貧乏線以下に落ちている人間は、今日といえども決して少なくはあるまいと思わるると同時に、他方には何か事件のあるごとに、巨万の富を積める者は次第にその富を百倍にし千倍にしつつある。もし病はすべて膏肓《こうもう》に入るを待って始めて針薬を加うべきものとせばともかく、いやしくもしからざる以上、われわれは事のさらにはなはだしきに至らざるに先立だち、よろしく今日において十二分の考慮を積むべきである。

 もっともわが国においても、郵便、電信、鉄道等はすでに国営事業となり、塩、煙草《たばこ》、樟脳《しょうのう》等もまた政府の専売になっている。また水道、電燈、電車等の事業にして、地方公共団体の経営に成れるものも少なくはない。さればこの上さらに公営事業を拡張することとなれば、個人にとっては次第に金もうけの仕事が減るので、、一部の実業家にはずいぶん反対もあるであろうが、しかしほんとうに考うれば、一部の実業家を利するよりも、国民全体を富ます方が得策な場合がはなはだ少なからぬであろう。

 私は論じてなお尽くさざるところがきわめて多い。しかし私は今この物語の終結を急ぐがゆえに、遺憾ながら適当の順序を経ずして直ちに根本問題に入ろうと思う。

 ここに根本問題というは、いわゆる経済組織の改造なるものは、これをもって貧乏退治の根本策中の最根本のものとなうすことを得《う》るかという問題である。しかして読者にしてもしこの問題をもって今私に迫られるならば、私は直ちにこれに答えて否という。

 なにゆえというに、少し事を根本的に考えてみるならば、いくら組織や制度を変えたらよいと言ったところが、それだけの仕事を負担する豪傑が出て来なければだめだからである。しかるに「茫々《ぼうぼう》たる宇宙人無数なれども、那個《なこ》の男児かこれ丈夫」で、天下の大事を負担する豪傑はそう容易に得らるるものではない。また幸いにしてそういう豪傑が出て来て、制度やしくみを変えようと試みたとしても、まず社会を組織せる一般の人々の思想、精神がかわって来ていなければ、ことに今日のごとき与論《よろん》政治の時代においては、容易にその制度なりしくみなりが変えられるものではない。またたとい時の勢いをもってしいて制度や仕組みを変えてみたところが、その制度しくみを運用すべき人間そのもの、国家社会を組織している個人そのものが変わって来ぬ以上、根本的の改革はできるものではない。これをたとうれば、社会組織の善悪は寿司《すし》の押し方に巧拙あるがごときものである。押し方が足りなければ米粒はバラバラになって最初から寿司にならぬが、しかしあまり強く押し過ぎても寿司は固まって餅《もち》になってしまう。しかしいくらじょうずな押し方をしても、材料がまずくてはやはりうまい寿司はできぬ。そこで押し方のくふうも無論肝要だが、それと同時にこれが材料に注意して、米だの肴《さかな》だの椎茸《しいたけ》だの玉子焼きだの酢や砂糖などをそれぞれ精選しなければならぬ。私はこの意味において、政治家の仕事よりも広い意味の教育家の仕事をば、組織の改良よりも個人の改善をば、事の本質上、より根本的だと考える者である。

十の四

 話を少し他に転ずるが、一八八九年ロンドンの船渠《ドッグ》の労働者が同盟罷業《ひぎょう》をして世間を騒がしたことがある。ところが元来これらの労働者はすべて烏合《うごう》の衆で、なんら有力な労働組合を組織していなかったものである。さればせっかく同盟罷業は企てたものの彼らはたちまち衣食に窮してじきに復業するだろうとは、当初世人一般の予想であった。しかるにその時思いがけものう、はるかに海を隔てた豪州から電報で参拾万円を送った者があって、そのおかげで労働者はついに勝利を制した事がある。

 豪州の社会党がなんら利害の関係を有せざるロンドン船渠《ドック》の労働者に向かって参拾万円を寄贈したというこの一事件は、豪州社会党及びその背後における一人物ウィリアム・レーンなるものの広く世間の注目をひくに至った最初であるが、そのレーンなるものはその後進んで南米の一角にその理想とせる社会主義国を実現せんと企てしことによりて、さらに有名になった人である。

 試みに一八九〇年彼がその計画を実行せんとするに当たり公にせし宣言書を見るに、その要旨は次のごとくである。

「働くためにある者は他人に雇われなければならぬというしくみが維持せらるる限り、またわれわれが、生活の不安のために誘発せらるる利己心の妨げによりて、われわれの生活を相互に保証するのしくみを採るはすべての人にとって最善の方法たることを理解するに至り得ざる限り、真の自由と幸福は到底望まるべくもない。(中略)それゆえ今日の急務は、すべての者が共同の利益のために働くという一の社会を創設し、これによりて、ある人が他人を虐待することの絶対に不可能なる条件の下においては、そうしてまた、全体の者の福祉を図ることが各個人の第一の義務であり、また各個人の福祉を図ることが全体の者の唯一の義務であるという主義の下においては、すべての男女が、だれの身にとっても自分自身または自分の子孫があすにも餓死せぬとも限らぬという今日のごとき社会において到底味わうことのできぬ愉快、幸福、知恵及び秩序の中に、生活しうるという実際の証明を与うることである。」

 レーン氏はかくのごとき宣言を公にしたる後、南船北馬、東奔西馳《せいち》、熱心にその計画の有益かつ必要なることを伝道したるところ、志を同じゅうする者少なからざるの勢いなりしをもって、すなわち人を欧米に派遣して理想国建設の地を卜せしめ、ついに南米のパラグェーをもってその地と定めその理想郷は名づけてこれを『新豪州』といいかつ加盟の条件を左のごとく定めた。

「この組合に加入せんとする者は、目的地に向かって出発するとき最後に所有しいたる全財産をこの組合に提供すべし。ただしその出資は六百円以上なることを要す。この出資は後日組合を脱退せんとする者あるも、全くこれを返戻《へんれい》せず。また五十歳以上の者は、その出資額千円以上に達するにあらざれば、その加盟を許さずうんぬん。」

 さて規約を右のごとく定めてこれを世間に公にしてみると、加盟者ははたして続々と現われて来て、中には巨額の資金の提供を申しいでた者もあった。そこでレーンも大いにこれを感激し、「同志の人々が、その多年の辛苦によりようやくもうけ得た金をば、かくのごとくなんらの不安なく疑惑なく自分に委託して来るのを見ると、私は涙を流さずにはいられない。これほどの信頼にそむくほどなら、私はむしろ死ぬるであろう」と言って、自分も約壱万円の財産を出資し、全力をささげてその事業に従事することを誓った。

十の五

 レーン氏の企てた理想国の建設は、前回に述べたるがごとき経過をもって着々進行し、ついに壱万弐千円を投じて六百トンの汽船「ローヤル・ター」を買い入れ、まず第一回の移民として二百五十名の男女がレーンとともにこれに搭乗《とうじょう》して南米に出発することになった。

 さてその出発の光景、航海中の出来事、ないし目的地到着後の事業の経過等については、学問上興味ある事実も少なくないが、私は今一々それをお話しておる余暇をもたぬ。ただ私がここにこの話を持ち出したのは、最初天下に実物教育を施すというほどの意気込みをもって始められたこの事業も、ついには失敗に帰したという事実を報道することによりて、組織の必ずしも万能にあらざることを説かんがためである。

 私はレーンらの計画した理想国の組織が全然遺憾なきものであったとは決して考えぬ。しかし彼らは現時の経済組織を否認し、かかる組織の下においては到底理想的社会の実現を期すべからずと信ぜしがために、相率いてその母国を見捨て、人煙まれなる南米の一角にその理想郷を建設せんと企てたのであるから、その新社会の組織は、少なくとも彼らの見てもって現時の個人主義的組織の最大欠点となせし点を排除せしものたるや疑いない。しかもそのついに失敗に終わりしところを見れば、組織そのものの必ずしも根本的条件にあらざることを知るに足るかと思う。

 ドイツもイギリスもフランスも一国の運命を賭《と》すべき危機に遭遇したればこそ、経済組織の改造も着々行なわれ、しかしてまたその新組織はただこれが長所のみを発揮していまだその短所をあらわすに至らぬけれども、戦争が済んで国民の気分がゆるんで来たならば、金のある者はぜいたくもしたくなるだろうし、一生懸命に国家のために働くという事もばからしくなって、あるいは多少くずれて来るかもしれぬのである。

 レーン氏の「いわゆる全体の者の福祉を図ることが各個人の第一の義務であり、また各個人の福祉を図ることが全体の者の唯一の義務である」という主義をば、確《かた》く信じて疑わず、身を処すること一にこの主義のごとくなるを得《う》る人々にとっては,かくのごとき主義をもって計画された社会制度が最上の組織でありうるけれども、利己主義者を組織するに利他主義の社会組織をもってするは、石を包むに薄帛《うすぎぬ》をもってするがごときもので、遠からずして組織そのものが破れて来る。されば戦後の欧州がはたして戦時の組織をそのままに維持しうるや否やは、もちろん一の疑問たるを免れぬ。

 しかしながら、人間はよく境遇を造ると同時に、境遇がまた人間を造る。英独仏等交戦諸国の国民は、国運を賭《と》するの境遇に出会いしがゆえに、たちまち平生の心理を改め、よく献身犠牲の精神を発揮するを得た。それゆえ、平生ならば議会も與論《よろん》も大反対をなすべき経済組織の大変革が、今日はわけもなく着々と実現されて来た。これは境遇によって一変した人間が、さらにその境遇を一変せしめたのである。しかるに境遇はまた人間を支配するがゆえに、もしこの上戦争が長びき、人々が次第に新たなる経済組織に慣らされて来ると、あるいは戦後にも戦時中の組織がそのまま維持せられるかもしれない。否戦後もしばらくの間は、諸国民とも戦時と同じ程度の臥薪嘗胆《がしんしょうたん》を必要とするであろうから、戦時中の組織はおそらく戦争の終結とともに直ちに全くくずれてしまって、すべてがことごとく元のとおりになるという事はあるまい。少なくとも私はそう考える。それゆえ、私はプレンゲ氏とともに一九一四年はおそらく経済史上において将来一大時期を画する年となるであろうと思う。

[# 下編(十の五)終り]