[#河上肇「貧乏物語」(付録)]
ロイド・ジョージ
一
ロイド・ジョージはとうとう陸軍大臣になった。
ロイド・ジョージがいよいよ陸軍大臣になったと聞いて、思い起こさずにはおられぬ彼の演説の一節がある。その一節というは、今より七年あまり前、すなわち一九〇九年の四月二十九日、当時の大問題たりし増税案につき、彼が時の大蔵大臣として有名なる歴史的大演説を試みし時、最後に臨んで吐き出した次の一節である。
「せて私は、諸君が私に非常なる特典を与えられ、忍耐して私の言うところに耳傾けられたことを感謝する。実は私の仕事は非常に困難な仕事であった。そはどの大臣に振り当てられたにしても、誠に不愉快なる仕事であったのである。しかしその中にただ一つだけ私は無上の満足を感ずることがある。そはこれらの新たなる課税がなんのために企てられたかということを考えてみるとわかる。けだし新たに徴収さるべき金は、まず第一に、わが国の海岸を何人《なんびと》にも侵さしめざるようにこれを保証することのために費やさるべきものである。それと同時にこれらの金はまた、この国内における不当なる困窮をば、ただに救済するのみならず、さらにこれを予防せんがために徴収さるるものである。思うにわが国を守るがため必要なる用意をば、常に怠りなくしておくということは、無論たいせつなことである。しかしながら、わが国をしていやが上にもよき国にしてすべての人に向かってまたすべての人によって守護するだけの値うちある国たらしむることは、確かに同じように緊要なことである。しかしてこのたびの費用はこれら二つの目的に使うためのもので、ただその事のためにのみこのたびの政府の計画は是認せらるるわけである。」
長い長い演説がこれでしまになったかと思うと、彼は一段と声を励まし、——私は今、速記録を見ているので、ここで彼が声を高くしたかどうかは実は確かでないけれども、ことばの勢いを見てかりにこう言っておく——さらに続いて言うよう。
「人あるいは余を非難して、平和の時代にかくのごとき重税を課することを要求した大蔵大臣はかつてその例がないと言う。しかしながら、ミスター・エモット(当時全院委員長の椅子《いす》を占めていた人)、これはこれ一の戦争予算である。貧乏というものに対して許しおくべからざる戦《たたかい》を起こすに必要な資金を調達せんがための予算である。余はわれわれが生きているうちに、わが社会が一大進歩を遂げて貧乏と不幸及び必ずこれに伴うて生ずるところの人間の堕落というものが、かつて森に住んでいた狼《おおかみ》のごとく全くこの国の人民からなる追い去られてしまうというがごとき、よろこばしき時節を迎うるに至らんことを望みかつ信ぜざらんとするもあたわざる者である。」
有名なる大演説はこれで終わった。しかし彼ロイド・ジョージの仕事は決してこれで終わったわけではない。
俊傑ロイド・ジョージは恐るべき大英国の敵を国の内外に見たのである。すなわち彼は、英国の海岸を外より脅かさんとせるドイツの恐るべきを知ると同時に、国家の臓腑《ぞうふ》を内より腐蝕《ふしょく》せんとする貧困のさらに恐るべき大敵たることを発見したものである。されば彼は軍艦を造ると同時に、あらゆる方面において社会政策の実行を怠らなかった。その社会政策の実行が、彼のことばを借りて言えば、許しおくべからざる貧困に対する一の大戦争であるのである。それゆえ彼は、一九〇九年、平和の時代にかくのごとき重税を課すことを要求した大蔵大臣はかつてその例がないという非難を冒すことをあえてして、諸種の増税計画をなし、その編成せし予算案をば自ら名づけて戦争予算であるといっているのである。
あに計らんや、その戦争がようやく緒につくとまもなく、ドイツとの大戦争は始まったのである。かくて英人は、彼らの祖国をして「すべての人に向かってまたすべての人によって守護するだけの値うちある国たらしむる」の事業はしばらく全くこれを放棄して、まずすべての人によってこれを守護するの必要に迫られたのである。そうしてまたそれと同時に、一九〇五年自由党内閣成立するや入りて商務大臣となり、いくばくもなくして大蔵大臣に転じ、爾来《じらい》数年の間、いわゆる戦争予算を編成して常に貧困と戦い、平和の時代に彼のごとき重税の賦課を要求したる大蔵大臣はかつてその例を見ずといわれたロイド・ジョージは、ドイツとの開戦以後は、戦時においてもまたいまだその例を見たることなき莫大《ばくだい》の歳出を調理するの余儀なきに至ったが、その後軍需品の供給を豊富にすることの当面の大問題となるに及ぶや、転じて新設の軍需大臣となり、今やまた元帥キャッチナーの薨《こう》ずるや、職工の親方といわれていた彼は、文官の出身をもってこの大戦に際し陸軍大臣の要職につくに至ったのである。
ロイド・ジョージはとうとう陸軍大臣になった。しかし彼にとっては、ドイツとの戦争以上の大戦争があるはずである。たといドイツを屈服させ終わるとも、彼は戦後において、その戦前より企てし貧困に対する大戦争をば、さらにいっそうの勇気をもって続けねばなるまい。戦時においても平時においても彼は永久に軍務大臣たるべき人である。
二の一
ロイド・ジョージはとうとう総理大臣になった。
私は彼が陸軍大臣となった時、——弁護士の出身をもって、未曾有《みぞう》の大戦に当たり、この要職に任ぜられた時、——彼についてすでに一文を草したが、今総理大臣となると聞くに及び、重ねてこの一文をしるすことを禁じ得ぬ。
現代世界の政治家中ロイド・ジョージは私の最も好きな政治家である。けだし彼は弱者の味方である。ことに彼は、不幸なる弱者が無慈悲なる強者のために無道の圧政に苦しむを見る時は、憤然としておのれが面《おもて》に唾《つば》せられたるがごとくに嚇怒《かくど》する。しかしてこの強者をおさえかの弱者をたすくるがためには、彼はほとんどおのれが身命の危うきを顧みざる人である。古《いにしえ》は曾子《そうし》のいわく「以《もっ》て六尺の孤を託す可《べ》し、以て百里の命を寄す可し、大節に臨んで奪う可からず、君子人か君子人也《なり》」と。私が少年のころより愛唱しきたったこの一句は、今や計らずも人格化せられて大英国の大宰相ロイド・ジョージとなっている。
ロイド・ジョージは偉い。しかし彼を育てたリチャード・ロイドもまた偉い。もしリチャード・ロイドなかりせば、おそらく今日のロイド・ジョージもいなかったであろう。
大英国の大宰相ロイド・ジョージは、ウェールズなる一村落の小学校長のむすこである。四歳にして父をうしない、赤貧洗うがごとし。この時に当たり一人の寡婦と二人の孤《みなしご》を一手に引き受け、直ちに彼ら一家の急を救ってくれた人は、すなわちロイド・ジョージの母の弟なるリチャード・ロイドその人である。
リチャード・ロイドも決して家に余財ある人ではなかった。彼はラニスタムドゥウィという村の靴屋《くつや》であった。しかも、このあわれなる靴屋は、自分の姉及びその連れ子を自分の家に引き取り、やせ腕一本でもってその姉を養い、また三人の甥《おい》と姪《めい》(ロイド・ジョージの父がなくなった時、母は妊娠中であった)とを育て上げ、彼自らはついに独身生活を貫いた。私は今日のロイド・ジョージはもって六尺の孤を託すべき底《てい》の人物であると言ったが、彼を育てた叔父《おじ》のリチャード・ロイドその人がまた、実にもって六尺の孤を託すべき底の人物であった。
ロイド・ジョージ自らその叔父《おじ》の事を語っていう。
My uncle never married. He set himself the task of educating the children of his sister as a sacred and supreme duty. To that duty he gave his time, his energy, and all his money.
(私の叔父は一生結婚しなかった。彼は、彼の姉の子供を教育するという仕事をば、神聖かつ最高の義務として、これに一身をささげた。その義務に向かって、彼は彼の時と、彼の精力と、またすべての彼の金をささげた。)
げにロイド・ジョージにその家を与え、その衣食を給したる者は、彼の叔父であった。彼に聖書を読ましめ、天を畏《おそ》れ人を愛すべきことを教えたる者も、また彼の叔父であった。彼の叔父は、彼が小学校に通学するころには、日々その下読みと復習を手伝い、のち彼が弁護士を志して法律学の独習を始むるや、彼の叔父は、多少なりとも指導助力に役立たばやと思う一念より、寄る年波をも顧みず、おのれもまた始めて法律学の研究に志し、同じ燈火の下にその甥とともに苦学したものである。ロイド・ジョージは自らこう言うている。「貧乏な叔父と私とは長時間卓をともにして、時代遅れのフランス語の辞典や文典をやたらにひっくり返しながら、わずかに一語ををつづり一文を属するを常とした。これがわれわれ両人の苦学法であった。」かくて螢雪《けいせつ》の功むなしからず、彼がわずかに二十一歳の青年をもって弁護士試験に及第するや、彼の叔父が骨身惜しまずかせぎためておいた数百ポンドの資金《かね》は、この時までに彼の学費のためすべて消費し尽くされ、現に彼はせっかく弁護士試験に及第しながら、法服新調の費用にさえ当惑したほどのありさまであった。まことにロイド・ジョージ自らの言えるがごとく、彼の叔父は、彼を教育するがために、彼の時と彼の精力と彼の金をばすべて費やし尽くしたのであった。
ロイド・ジョージ自らその少年時代の生活を顧みていう。
We scarcely ate fresh meat, and I remember that our greatest luxury was half an egg for each child on Sunday morning.
(われわれはほとんど生《なま》の肉を食べたことはない。そうして私はよく覚えているが、われわれの最大のぜいたくは、日曜日の朝、皆が鶏卵《たまご》を半分ずつもらうという事であった。)
ロイド・ジョージ伝の著者エヴァンスまたこの一句を引ききたっていう、「かかる絵に筆を入れて細かく描き足そうとするならば、かえってそれをよごすばかりである」と。されば私も、あわれなる靴屋《くつや》の主人が当時いかに苦心したかについて、もはやこれ以上は語らぬであろう。
古人も至誠にして動かざる者はいまだこれあらざるなりと言っているが、げに至誠の力ほど恐ろしき者は世にあらじ。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久《ゆうきゅう》疆《かぎ》りなし。見よ、貧しき靴屋の主人の至誠は凝って大英国の大宰相を造り出し、しかしてこの大宰相の大精神はやがて四海万国を支配せんとする事を。
伝え聞く、ロイド・ジョージの始めて大蔵大臣に任ぜられ、居をドウニング街の官邸に移すや、彼はその哀情を吐露していう。「余の親愛する老叔父《ろうおじ》は、その平素目して大英雄となせるグラッドストーンのかつて住まいしことあるこの官宅にきたって滞留することを、必ずや一代の面目となして大いに喜ぶであろう」と。今やそのロイド・ジョージがこの軍国多事の際に当たって、とうとう総理大臣となったのである。私はしるしきたって彼を思いこれを思う時、筆を停《とど》めて落涙するを禁じ得ざる者である。
二の二
私は繰り返す。——現代世界の政治家中ロイド・ジョージは私の最も好きな政治家である。けだし彼は弱者の味方である。ことに彼は不幸なる弱者が無慈悲なる強者のために非道の圧制に苦しむを見る時は、憤然としておのれが面《おもて》に唾《つば》せられたるがごとくに嚇怒する。しかしてこの強者をおさえかの弱者をたすくるがためには、彼はほとんどおのれが身命の危うきを顧みざる人である。
思うに最もよく彼の人物を見るに足るものは、南ア戦争当時における彼の態度である。
苦学の結果幸いにして弁護士となり得たる彼は、のち選ばれて代議士となる。代議士となりてより数年後、彼の一生にとりて一大事件と見なすべきものは、南ア戦争の爆発である。
南ア戦争とは、英国がアフリカ南端トランスヴァールの金鉱を獲得せんがために、プーア人を相手に起こした戦争である。ロイド・ジョージ思えらく、こは資本家の貪欲《どんよく》を満たさんがために起こされたる無名の師である。世界最大の強国たる英国が、「ウェールズ国中の最も小なる二郡とあえて軒輊《けんち》なき人口を有するに過ぎざる二小国(トランスヴァールとオレンジ自由国)に対し、武力を持ってその要求を強制せんとするは、非道のはなはだしきものである。大英国にとって最大の宝は、「すべての国の弱き者、しいたげられおる者のために、その希望たり楯《たて》たる特性すなわちこれである。こはこの大英国の栄光中最も嚇耀《かくよう》たる霊彩を放てる宝玉である。」(ロイド・ジョージ演説中の一句、内《うち》ヶ崎《さき》作三郎《さくさぶろう》[#うちがさきさくさぶろう]君の訳による)。南アの辺境にいかに莫大《ばくだい》の金銀を蔵すればとて、大英国伝来のこの宝玉と交換せんとするは、無道の極であると。すなわち一八九九年彼カナダにおもむくの途中一たび開戦の報を耳にするや、彼は直ちに踵《くびす》をめぐらし、馳《は》せてロンドンに帰り、即時に猛烈なる非戦運動を始めたのである。
国民全体が戦争熱に浮かされているまっただ中に、それら熱狂せる同胞を非難攻撃して、非戦運動を始むるほど世に無謀な仕事はない。彼の友人、彼の同情者、彼の後援者は、こぞってこの無謀なる事業に反対し、彼がせっかくの人気をば一朝にして失墜せんことをおそれ、ぜひに沈黙を守らんことを切諫《せっかん》した。しかも義を見てなさざるは勇なきなり。しかして彼ロイド・ジョージは勇者である。彼はすなわち囂々《ごうごう》たる反対、妨害、馬詈《ばり》、讒謗《ざんぼう》をものともせず、非戦論をひっさげて全国を遊説せんと志し、まず自己の選挙区に帰るや、有権者団体は、この地において公開演説を開催することのきわめて不得策なるを主張してやまざりしに、彼は答えていう、もし諸君にしてしいて爾《し》か主張せらるるならば、余は議員の職を辞するもいとわずと。かくてウェールズにおける第一回の演説は反抗心に満てる聴衆を前にしてカーマーゼンといえる所にて催されしが、当時における彼の精神は、次の一句の中に活躍していると思う。彼いわく
「余の見てもって破廉恥となすもの(南ア戦争)に対し、余にしてもしこれに抗議するがため、この最初の機会はもちろんその他すべての機会をとらえずしてやむならば、余は神及び人の前に立って、自ら一個不忠の卑怯漢《ひきょうもの》たるの感をなさざるを得ぬであろう。されば余は、今夜《こよい》も、ここにあえて抗議する。たといあすからはこのカーマーゼンに一人の友人もなくなろうとも。」
たといすべての同胞をことごとく敵とするも不正不義に向かっては一歩も仮借すべからずというのが、彼の精神であった。しかしながら、彼が猛烈に運動すればするほど、世間の反感もまたますます猛烈になるばかりであった。現に彼自身の選挙区においても、バンゴアという所にて演説会を開きし時のごときは、会館はたけり狂う群衆によって絶え間なく攻撃され、彼自身も市街《まち》のまん中で袋だたきに会った。かくのごとくにして彼の不人望はその極頂に達したる時、あたかも一九〇〇年の総選挙が行なわれた。この時ばかりはわずかに残った彼の後援者もほとんど失望の極に陥ったが、さすがは英国だ、この『国賊』この『売国奴』は前回よりも五割以上の投票数を得て、重ねて再選せらるる事となった。
二の三
重ねて議員に再選せられてよりロイド・ジョージは勇気百倍、縦横無尽にその奮闘を続け、かくて翌一九〇一年の十二月には、彼はいよいよキリスト降臨祭の前日を期し、南ア戦争の直接の責任者たる殖民大臣チャンバーレンの郷里バーミンガム市に攻め入るの予定を立てた。そもそもこのバーミンガム市は、チャンバーレンの本営牙城《がじょう》にして、氏の政敵のかつて足一歩も踏み入るるあたわざりし所である。チャンバーレンは早くより親しく同市の市政に参画し、幾多の改良改革を断行し、同市をして英国都市中の模範たらしめし恩人にして、数十万の市民は氏を神のごとく崇拝していたのである。さればロイド・ジョージのこの地に入らんとするの報一たび伝わるや、同地の新聞紙は一斉に筆を整えて獰猛《どうもう》に彼の攻撃を開始し「自称国賊《セルフコンフェッスド・エネミー[#self-confessed enemy]》きたらんとす」「売国奴《トレーター[#traitor]》ロイド・ジョージ侵入せんとす」などいう挑発的文字をもって盛んに市民の反感を扇動し、広告隊は終日市中を練り歩きて「国王、政府及びチャンバーレン君を防衛するがため」忠実なるすべての市民は、ロイド・ジョージの演説会場たるタウン・ホール(市公会堂)に押し寄すべしなんど触れ回るという勢いで、彼いまだきたらざるに殺気はすでに市内にみなぎった。ここにおいてか警察部長《チーフコンステーブル[#chief constable]》は万一をおもんぱかり、彼に向かってせつに集会を中止せんことを求めたけれども、元来彼ロイド・ジョージは、自ら反《かえり》みて縮《なお》からずんば褐《かつ》寛博《かんぱく》といえども吾《われ》惴《おそれ》ざらんや、自ら反みて縮くんば千万人といえども吾往《ゆ》かんという流儀の豪傑なれば、なんじょうかかる事にひるむべき。いよいよ予定の日、予定の場所で大演説会を開くこととなった。そこで当日は警察官は総出となってタウン・ホールの界隈《かいわい》を警戒し、建物の内部にもおおぜいの警察官が潜伏して万一に備えた。しかしこれらの準備もついにすべて無効に帰した。ロイド・ジョージがその雄姿を演壇に現わすや否や、場内の聴衆はひそかに携えきたれる各種の飛び道具をば演壇目がけて一斉に放射し、場外の群衆もまたたけり狂うて、窓を破り扉《と》を押しのけて乱入するという勢いに、ロイド・ジョージはついに一語をも発するを得ず、演壇の後方なる一小室に難を避け警官の制帽制服を借りてにわかに変装し、わずかに会場を抜けいで、からくも一命を拾うたのであった。この時人民の重傷を負える者二十七名、即死一名、警官にして重傷をこうむりたる者また少なからざりしといえば、もってその騒擾《そうじょう》のいかにはなはだしかりしかを知りうると同時に、平生冷静沈着なる英人がかほどまでの騒動を惹起《ひきおこ》せしことは、その激昂《げきこう》の度のいかにはなはだしかりしをも知るに足ると思う。
エヴァスンは彼を評して「ロイド・ジョージ以上の militant peacemaker(戦闘的平和主張者)はかつて見たことがない。彼は南ア戦争当時において、プーア人が英軍に反抗して戦いしと同じ激しさをもって、戦争に反抗して戦った」と言っておるが、実にそのとおりだと思う。
叔父《おじ》のリチャード・ロイドはその甥《おい》を理想的に育て上げることを神聖かつ最高の義務と信じて、これにその一身をささげた。このゆえにこの叔父によって育てられたるロイド・ジョージはその神聖かつ最高の義務と信ずるところに向かって、常にその一身をささげつつある。
四歳にして父をうしない、二人の孤《みなしご》が母を擁して相泣きし時、身をささげて彼らの急を救うた者は叔父のリチャード・ロイドであった。叔父はこれがために一生めとらず、彼らとともにつぶさに辛酸をなめ尽くした。その恩義、その慈愛は、ロイド・ジョージの五臓六腑《ごぞうろっぷ》にしみわたっている。彼が弱き者のしいたげらるるを見る時は、必ず常に、孺子《じゅし》をとらえて井中に投ぜんとするを目撃するがごときの感をなすも、ひっきょうこれがためである。
彼はまたこれがために、かつて南ア戦争に当たってはその同胞を敵として戦い、あえて身命の危うきを顧みず、のちあげられて大蔵大臣となるや、幾多の反対攻撃をものともせず、着々として多数貧民のためにさまざまの社会政策を実施し、「世界に政治家は多い。そうして彼らは世の認めてもって尊貴となし名誉となすところのものを得、富もまた彼らの上に積まれつつある。しかしながら、多くの人々が自分の居間に独座する時、ひそかに彼の利益のために祈り、自分ら自身さえ充分に享受していない幸福をば、ただ彼が身にあれかしとのみ念じつつあるとがごとき、隠れたる懐《ゆか》しき同情者を有すること、ロイド・ジョージのごとく多きものはいまだかつてない」と言わるるに至りしも、またこれがためである。
彼はまたこれがために、今やドイツ人の暴虐を懲罰せんがため、獅子奮迅《ししふんじん》の勢いをもって軍国の大事に当たりつつある。開戦後まもなく軍需大臣となり、次いで陸軍大臣に転じ、ついに今は総理大臣の椅子《いす》を占め、隠然として連合諸国の総大将たるの観がある。しかも余をもってこれを見れば、彼は依然として、今より約十五年前、英国バーミンガム市においてその同胞のためにほとんど一命を奪われんとせし当年の militant peacemaker(戦闘的平和主張者)たるロイド・ジョージそのままの人である。思うにやがてきたるべき平和会議の席上において、最も権威ある発言をなしうる者は、必ずや彼ロイド・ジョージであろう。しかも彼は正義のために、よくドイツ人と戦うことを知ると同時に、またよく自国人と争うことを知る。このゆえに私は、きたるべき平和会議の席上に、心より彼を歓迎すると同時に、戦後の経営においても、英国多数の貧民のため、彼の生命の永《とこしえ》に長からん事を祈る。国家を異にし、人種を異にしながら、私のひそかにその長寿を祈りつつあるは、世界の政治家中ロイド・ジョージただ一人である。
[#「ロイド・ジョージ」 終わり]