[#河上肇「貧乏物語」(中編)1/1]
五の一
以上をもって私はこの物語の上編を終え、これより中編に入る。冬近うして虫声急《すみや》かなる夕《ゆうべ》なり。
今日の社会が貧乏という大病に冒されつつあることを明らかにするが上編の主眼であったが、中編の目的はこの大病の根本原因の那辺《なへん》にあるかを明らかにし、やがてこの物語全体の眼目にして下編の主題たるべき貧乏根治策に入るの階段たらしむるにある。
ロンドン大学教授エドウィン・キャナン氏はその著『富』に序して
「経済学上の真の根本問題は、われわれすべてが、全体として、今日のごとき善《い》い暮らしをしているのは、——善《い》い暮らしをしていると言うのが悪ければ、悪い暮らしをしていると言うてもいいが、——それは何ゆえであるかということと、われわれのうちある者は平均よりはるかに善《い》い暮らしをしており、他の者ははるかに悪い暮らしをしておるのは何ゆえであるかということと、この二つである*。」
と言っているが、一句よく斯学《しがく》の本領を道破して遺憾なきものである。今余はこの二大問題中の後者を説明するがためいささかさかのぼりて前者に言及するのやや避け難きを感ずる。諸君、請う吾人《ごじん》をしてしばらく人間を去って、蟻《あり》の社会を観察するところあらしめよ。
* Edwin Cannan, Wealth, 1915.
蟻の一種に葉切り蟻という者あり、熱帯地方に繁殖す。フォルソム『昆虫学《こんちゅうがく》』に記載するところを見るに
「この種は非常の多数にて生活し、数時にして樹枝に一葉をとどめざるに至るものにして、園芸家はこの恐るべき蟻に対しては施すべきの策なし。実にこの蟻の多き地方にてはオレンジ、コーヒー、マンゴー、その他の植物の栽培不可能なりとういう。この蟻は地下きわめて深く巣をうがち発掘せる土をもって垤《とう》を造る。時に直径三四十尺に及ぶことあり。しかして諸方面に巣より付近の植物に通ずる道路を設く。ベルト氏はしばしばこの蟻が巣より半マイルを隔てし地において働きつつあるを目撃せりという。この蟻の攻撃するは主として植物の葉なれども、その他花、果実、種子をも害す。うんぬん」(三宅《みやけ》、内田《うちだ》両学士訳本、五三九ページ以下)。
とあり。さらにブラジルにて特にこの蟻につき研究したるベーツ氏の記載せるところを見るに、
「一つ一つの蟻は木の葉の表に止まっていて、その鋭い剪刀《はさみ》のような口で、木の葉の上方をばほぼ半円形に切って行き、そうしてその縁を口にくわえ、パッと急に引いてその片《きれ》をもぎ取る。時とすると、こうして切り取った葉をば土地の上に落とす。そうするとそれがだんだん土地の上に積まれて行くのを、他の蟻が来てそばから次々にと持ち運ぶ。しかし普通には、その切り取った葉をばめいめいで巣の方に運んで行く。そうしていずれも皆同じ道を通るものであるから、彼らの通る道はじきに滑らかに平たくなって、草原の中を馬車が通った跡のようになる。」
とある。かくのごとくこの蟻は木の葉を切っては巣に持ち帰るので、それで葉切り蟻となづけられているのであるが、彼らはなんのためにかかる労働をなしつつあるか。辛抱してその話も聞いてください。
五の二
きょうはきのうの葉切り蟻の話の続きである。
この蟻が木の葉を切っては盛んに自分の巣に持ち運びつつあるというベーツ氏の観察は、きのう紙上に訳載したが、ベーツ氏は、その蟻がなんの目的のためにかかる苦労多きめんどうなる仕事をなしつつあるかはこれを説明し得なかったのである。もっとも氏自身は、これは地下の巣に至る入り口をふさぐためのものだと説明し、それで充分にその理由を発見し得たと思っていたのであるが、それが間違いであったという事は後にトマス・ベルト氏の観察によってわかって来たのである。
このベルトという人は鉱山の技師としてニカラガにいたのである。専門の博物学者にはあらざれども、昆虫《こんちゅう》の生活状態を研究することに特別の趣味を有しいたる人にて、この人が初めてこの葉切り蟻が菌《きのこ》を培養しつつあることを発見したのである。もっとも氏が始めてかかる事実を発表したる時には、何人もこれを信ずる者なく、専門学者はすべてその虚構を嘲笑《ちょうしょう》したのであるが、その後専門学者がだんだん研究に着手してみると、ただにベルト氏の言った事が間違いにあらざるのみならず、氏の報告以外さらに種々の事実が次第に確かめらるることとなったのである。
ベルト氏は葉切り蟻の巣をばただに土地の表面より観察するばかりでなく、さらに土を掘って巣の内部をのぞいてみたのである。ところが地下にはたくさんのへやがあってその中のある者は丸くて、直径五インチぐらいの広さになっておる。そうしてそのへやのほとんど四分の三ぐらいは、ポツポツのあるとび色の海面のようの物で満たされておるが、そのほかには蟻が盛んに持ってはいる青い木の葉は全く見つからぬ。これはどういうわけかというと、木の葉はいつのまにか変わってこんな海綿のようのものになっているので、そうしてその海綿ようのものにはたくさんの菌《きのこ》ができているのである。蟻の幼虫はこのへやに連れられて来ていて他の蟻が菌を切ってはそれを食べさしている。この幼虫を養育することは小さい方の職蟻《しょくぎ》の仕事であるが、大きい方の職蟻は菌の床《とこ》を造ることをセッセとやっている。すなわち青い木の葉がへやの内に運ばれて来ると、それをすぐ小さな片に切り、一々それをなめてはそうじしながら、小さな団子に丸め、それをだんだん積んで行くのである。そうしてそれが室内の温気と湿気とで蒸されて、だんだん菌がそれにはえるようになるのである。もしそれが新しい床であったならば、古い床から菌の種子《たね》を持って来て、それを新しい床に植え付けるのだということである。そうしてもし人間がその床を切り取って巣の外に持ち出し、適当な場所に置いておくならば、直径六インチぐらいの大きな菌ができるが、蟻はそんなに大きな菌は好まぬので、小さなつぼみができるとすぐにそれを切り取って大きくはせぬということである。(一九一五年出版、ステップ氏『昆虫生活《こんちゅうせいかつ》の驚異』二八ページ以下による*)。
* Edward Step, Marvels of Insect Life, 1915. pp.28-34.
さて葉切り蟻が菌《きのこ》を栽培せる様子はだいたい上述のごとくであるが、これはよく考えてみると、実に驚くべきことである。何ゆえというに、この蟻のすんでいる地方には、天然の菌がたくさんにできるのだけれども、ただそれには一定の季節がありまた気候や湿気の具合でその供給に変動がある。そこで年じゅう一定の菌を食べようと思えば、暗い場所へ菌の床《とこ》を作って温度を加減して行かねばならぬので、現に今日われわれ人間が菌の人工培養をするのは、つまりそういう方法によってやっているのであるが、この葉切り蟻は人間よりも先にそういうことを発明しているのである。ことに彼らが切り取って来る木の葉そのものは、全く彼らの食料とはしないものである。そういうようなさしあたって役に立たぬ物を一たん取って来て、しかる後その目的とするところの食物を作り出すなどということは、経済学者のいわゆる迂回的《うかいてき》生産に属するもので、いかにも彼らの知識は高度の進歩を遂げているものと見なければならぬのである。
五の三
加藤《かとう》内閣ができるはずに聞いていたのが、急に寺内《てらうち》内閣が成立しそうなという話なので、平生当面の時事には無関心のこの物語の筆者も、ちょっとだまだれたような気持ちがする。しかしそれはそれとして、私はこの物語の本筋をたどるであろう。
さて私が前回に葉切り蟻《あり》の話をしたのは、昆虫《こんちゅう》社会にもなかなか経済の発達した者がいるという事を示さんがためであった。わずかに一例をあげたにとどまるが、ただこの一例に徴するも、もしわれわれが太古野蛮の時代にさかのぼってみるか、または今日でも未開地方に住む野蛮人の状態について見るならば、ある方面ではかえってわれわれ人間の方が蟻などよりもだいぶ劣っているかと思われる事情があるのである。しかるにもかかわらず、今日われわれ人間の経済が次第に発達を遂げ、ついに今日のごとき盛観を呈するに至ったのは、実はその根底、その出発点において、ある有名なる特徴を有するがためである。今その特徴をなんぞやと問わば、そは道具の製造という事である。この事はかつて本紙に連載せし「日本民族の血と手」と題する拙稿(大正4年発行拙著『祖国を顧みて』に収む)の一部において、私のすでに言及したところである。私は学校の講義のように、今年もまた同じ事をここに繰り返したくはないけれども、ただいかんせん這個《しゃこ》の一論は、私の経済論の体系の一部を成すもので、これに触れずして論を進むるは事すこぶる困難なるを覚ゆるがままに、しばらく読者の寛恕《かんじょ》を請うて再び同一の論を繰り返す。ただしなるべく化粧《けしょう》を凝らして、人目につかぬようそっとこの坂道を通り越すであろう。
そこで話を遠い遠い昔の、今より推算すれば約五十万年前の古《いにしえ》にかえす。そのころジャバに猿《さる》に似た一人の人間——私はかりに人間と名づけておく——が住んでいた。無論一人で住んでいたわけではなく、仲間もたくさんいたことであろうが、ただ一人だけのことしか今日ではわからぬ。もっともその一人の人について言っても、その人がはたしてどんな暮らしをしたか、どんな事を考えていたか、女房がいたか、子供がいたか、そんな事は少しもわかっていなが、ただそういう一人の人がいたということだけは確かにわかっている。それは今から二十余年前、一八九一年にオランダの軍医デュプアという人が中央ジャバのベンガワン川に沿うて化石の採集をしていたころ、トリニルという所の付近で、たくさんの哺乳《ほにゅう》動物の遺骨の中から一本の奥歯を発見したのであるが、それがすなわち先に言うところの五十万年前の人間が遺《のこ》して死んだ臼歯《うすば》の一片《きれ》である。そこでデュプア氏はなおていねいに土を掘ってゆくと、先に奥歯の発見された所から約三尺ばかり隔てた場所で頭骸骨《ずがいこつ》の頂《いただき》を発見した。それからさらに引き続き発掘をしていたところが、今度は頭蓋骨の発見された所から八間《けん》あまり隔てた場所で、左の大腿骨と臼歯をもう一本だけ発見したのである。
くわしいことは私の専門外だから略しておくが、これが今日人間といえばいい得らるる者のいちばん古い遺骨であって、学問上ではこの人間を名づけてピテクァントロプス(猿《さる》の人)といっているそうである。しかしこれがはたして今日の人間の直系の祖先に当たるものか否かについては議論があるが、ともかく大腿骨が出たので、その構造から考えてみて、この猿の人なるものは直立していたということはわかるし、また頭蓋骨の一部が出たので、その者の脳髄も相当に発達していたということもわかる。元来われわれ人間が道具を造り出しうるに至ったのは、われわれが直立して二本の足で楽にからだをささえうるようになってからの事である。すでにからだがまっすぐになって来ると、それに伴うて二本の手が浮いて来て、全く自由なものになると同時に、頭がからだの中心に位することになって、始めて脳髄が充分な発達を遂げうるのである。——獣《けだもの》のように四つ足を突いて首を前に出していては、到底重い脳みそを頭の中に入れておられるはずのものでない。猩々《しょうじょう》、猿の人、曙《あけぼの》の人(後に述ぶ)、現代人と、だんだん姿勢が直立して来るに従って、脳髄も次第に大きくなって来るありさまは、ここに挿入せる図によりてそのその一斑を知らるるべし。——そこでその発達した脳髄でもって自由な手を使うことになったから、始めて人間特有の道具の製造が始まるのであるが、今この猿の人なるものがはたして道具を造っていたか否かに至っては、別に確かな証拠はないが、たぶん木及び石でできたきわめて幼稚な道具を使っていただろうというのが、オスボーン氏の説である*。
[#図あり—省略した。 内容は 脳髄の大きさの比較 として猩々、猿の人、、曙の人、現代人の脳髄の外形を重ね合わせて比較した図である]
* H. F. Osborn. Men of the Old Stone Age, 1916. pp.82,83,86.
五の四
同じような話しが重出《ちょうしゅつ》するのでおもしろくないが、物語を進めるために、今一つ似寄ったお話をしなければならぬ。それは今よりわずかに五年前、一九一一年に英人ドウソン氏の発見した人間の骨の化石のことである。
ドウソン氏はこれより先数年前、英国サセックス洲のビルトダウンの共有地に近い畑で道路を作るために土を掘った時、人間の※頂骨《ろちょうこつ》[# ※は「慮+頁」]の小さな片を発見したことがある。ところが一九一一年の秋、氏は同じ場所から出た発掘物の中より、先に発見した頭蓋骨《ずがいこつ》の他の部分で、額《ひたい》に相当する大きな骨と、鼻から左の目にかけての部分に相当する骨とを発見した。そこでこれは大いに研究の価値があるということをいよいよ確かめたので、一九一二年の春すなわち今から四年前に、人夫を督して大捜索を始めたのである。ところが骨は方々に散ってしまった様子で容易に何ものも発見できなんだ。しかしそれに屈せずなお根《こん》よく捜していたところが、始めて顎《あご》の右半分が見つかり、さらにそこから三尺ばかり隔てた所で後頭骨が見つかったのである。なおその翌年すなわち今から三年前には、フランスの人類学者のテイラー氏が同じ場所を重ねて発掘して、さらに犬歯《いぬば》を一本と鼻の骨とを発見したのである。そんな関係からこの人間の顎の骨もほぼ整ったのであるが、学者の説によると、これは今から十万年ないし三十万年前の人間の骨だということである。
さてこの人間は今日学者が名づけてエアントロプス(曙《あけぼの》の人)といっている者である。そうしてこの人間がはたして今日の人間の直系の祖先であるか、または同じ祖先から出た枝で、すでに子孫の絶滅したものであるかという点になると、学者の説がまだ一致しておらぬそうだが、ともかく前回に述べた『猿の人』に比ぶれば、年代も新しくかつ今日の人間に近い系統のものであるということは、今日何人も疑わぬところである。ところがここに最も興味あることは、この「曙の人」になると、たしかに道具を造っていたと言い得らるるという事である。現に先に述べた頭蓋骨《ずがいこつ》の出たその地層からただ一つだけ燧石《ぷりんと》が発見されたが、おもしろいことには、その石器は自然のままの物ではなくて、確かに造られたものである。しかし細工は片面に施してあるだけで、製造された石器の中では最も幼稚なものだということである。(オスボーン前掲書一三五ページ)。
さてだいぶ余談にわたったようだが、私がここに五十万年前ないし三十万年前の猿《さる》とも人ともわかりかねるような人間の話をして来たのは、諸君に次の事実を承認してもらうためである。それは今日いうところの人間なるものと、道具を造るということとは、きわめて密接な関係をもっているということである。前に述べたごとく、五十万年前の猿の人と称せらるる者は、はたして道具を造っていたかどうか、それには確かな証拠はないのである。ところがそれよりもはるかに今日の人間に近い三十万年ないし十万年前の曙の人と称せらるる者になると、これは確かに動を造っているのである。しかしそれと同時に、その道具というのは、製造された道具の中では最も幼稚なもので、すなわち『曙の人』の造った道具は、やはり「曙の道具」とでもいうような物なのである。
私はこれより以上の道具の歴史を述べることを控えておくが、要するにわれわれが人間進化の歴史を顧みると、人間というものは人間らしくなるほど、それにつれて次第に道具らしい道具を作ることになって来ているのである。そうして人間の経済が、今日他の動物社会の経済と比較すべからざる程度の発達をなすに至ったのも、ひっきょうはこの道具のたまものにほかならぬのである。
[# 曙の人、猿の人の模型の写真あり 省略]
六の一
人間がほかの動物と比較すべからざる経済的発達を遂ぐるに至りし根本原因が、はたして私の言うがごとく、道具の発明にありとするならば、近代に至りその道具がさらに一段の発達を遂げて機械となるに至りしことは実に経済史上の一大事件といわねばならぬ。もしそれ機械の力の驚くべきものなる事は、今さら私の説明をまたざるところである。試みに尋常小学読本巻の十一を見るにいわく「昔の糸車にて紡《つむ》ぐ時は、一本の錘《つむ》に一人を要すべきに、今はわずかに六七人の工女にてよく二千本の錘を扱うを得《う》べし。加うるにかの蝋燭《ろうそく》の心《しん》とする太き糸、蜘蛛《くも》の糸のごとき細き糸、細大意のままにして、手紡ぎのごとく不ぞろいとなることなし。機械の力は驚くべきものにあらずや」と。しかも今日西洋において最も進歩せる機械にあっては、一人の職工よく一万二千錘を運転しうるという。さればこれを紡績の一例について見るも、機械の発明のためにわれわれの生産力は一躍して千倍万倍に増進したわけである。
機械の効果の偉大なることかくにごとし。思うにわれわれは、その昔かつて道具の発明により始めて禽獣《きんじゅう》の域を脱し得たりしがごとく、今や機械の発明によって、旧時代の人類の全く夢想だもし得ざりし驚くべき物質的文明をまさに成就せんとしつつある。しかして私は、このまさに成就されんとする新文明のたまものの一として、貧乏人の絶無なる新社会の実現を日々に想望しつつある者である。
私は遠くさかのぼりて道具の人類進化史上における地位を稽《かんが》え、転じて近代における機械の偉大なる効果を思うごとに、今の時代をもって真に未曾有《みぞう》難遭《なんそう》の時代なりとなすを禁じ得ず。されば一昨昨年(一九一三年)の末始めてロンドンに着き、取りあえず有名なウェストミンスター寺院《アベー》を訪問して、はからずもゼームス・ワットの大理石像を仰ぎ見たる時なども、私は実に言うべからざる感慨にふけった者である。仰ぎ見れば、彼ワットはガウンを着て椅子《いす》に腰を掛け、大きな靴《くつ》をはいて、左の足を後ろに引き、右の足を前に出し、紙をひざにのべ、左手《ゆんで》にその端をおさえ、右手《めて》にはコンパスを握っている。そうしで台石の表面には、次のような文字が彫り付けてある。
「この国の国王、諸大臣、ならびに貴族平民の多くの者どもが、この記念像をゼームス・ワットのために建てた。そは彼の名を永遠に伝えんとてにあらず、彼の名は平和の事業にして栄ゆる限り、かかる記念像をまたずして必ずや永遠に伝わるべきものである。むしろこの像は人間が……彼らの最上の感謝に値するところの人々を尊敬することをわきまえているという証拠を示すためにのみ、ただ建てられたものである。」
彼ワットとは言うまでもなく蒸気機関の発明者である。しかしてこの蒸気機関の発明者こそ機械時代の先駆者の一人であってみれば、彼の名は実に人間にして滅びざる限り永遠に伝わるべきものである。
ウェストミンスター寺院《アベー》には、ダーウィンがいる、ニュートンがいる、セークスピアがいる、そうしてまたこのワットがいるのである。寺院《アベー》のすぐ前は、ロンドンで最もにぎやかな場所の一つたるトラファルガル・スケアであって、そこには空にそびゆる高い高い柱の頂上に、ネルソン将軍が突き立っている。昔トラファルガルの海戦でスペイン、フランスの連合艦隊を一挙にしてほとんど全滅させ、自分もその場で戦いに倒れた英国海軍の軍神ネルソン卿《きょう》の銅像が、灰色の空に突き立って下界を見おろしているのである。そのネルソン卿の見おろしている下の広場は、自動車や人間の往来に目もくらむばかりであって、道一ツ横切るにも私たちのようないなか者はいつもひやひやしたものである。カフェーにはいると、地下室になっている。そこへ腰を掛けて茶を飲んでいると、天井の明かり取りのガラス板の上をおおぜいの人が靴《くつ》を踏み鳴らしながら通る。その騒々しさにはわれわれの神経もすり減らされるような気持であるが、さて戸を一つあけて寺院の内にはいると、たとえば浅草《あさくさ》の公園でパノラマ館にはいったよう、空気はたちまち一変して、外の騒々しさはすべて拭《ふ》いたように消されてしまって、寺院の内は靴音さえ慎まれるほどの静けさである。私はそういう空気のなかで彼ワットの像を仰ぎ見ながら、低徊《ていかい》去るにあたわず、静かにさまざまの感想にふけったものであるが、今またこの物語を草して機械のことに及ぶに当たり、ゆくりなくも当時を追懐して、ここに無用の閑話に貴重なる一日の紙面をふさぐに至りし次第である。
六の二
私は先に機械のことを述べ、今日《こんにち》は機械の発明のために、仕事の種類によっては、われわれの生産力が数千倍数万倍に増加したことを説いた。しかるにもかかわらず、その機械の応用の最も盛んなる西洋の文明諸国において、——すでにこの物語の冒頭に述べしごとく、——貧乏人の数が非常に多いというのは、いかにも不思議の事である。富める家にはやせ犬なしとさえ言うものを、経済のはるかに進んでいる文明諸国のことなれば、金持ちに比べてこそ貧乏人といわれている者でも、必ずや相応の暮らしをしているに相違あるまいと思うのに、なかなかそうではなくて、肉体の健康を維持するに必要な所得さえ得あたわぬ貧乏人が非常に多いというのは、実に不思議千万なことである。
今私はこの不思議を解いてなんとかして貧乏根治の方策を立てたいと思うのであるが、この問題についてはすでに百年来有名なマルサス人口論というものがあるから、他の所説はしばらくおくとするも、議論の順序として、まずこの人口論だけは片付けておかねばならぬ。
『人口論』の著者として有名なるマルサスは今から百五十年前英国に生まれた人で、その著『人口論』の第一版は、今から約百二十年前一七九八年に匿名にて公にされたものである。氏の議論はその後『人口論』の版を改むるに従うて少なからず変化されておるから、簡単にその要領を述ぶることは不可能であるが、ここには便宜のためにしばらく初版につきその議論の大意を述べる。氏の意見によれば、色食の二者は人間の二大情欲である。しかしてわれわれ人間は、色欲を満足することによりてその子孫を繁殖し、食物を摂取することによりてその生命を維持しつつあるが、今その生活に必要なる食物の生産増加率は、到底人口の繁殖率に及ばざるものである。されば人間という動物があくまでも盛んに子を産み、しかもその人間を育てるにはどうしても食物が必要だという以上、さまざまの罪悪や、貧乏のために難儀するのは、われわれの力でいかんともすることのできぬ人間生まれながらの宿命だというのである。
さてこの人口論がもし真理であるならば、貧乏根治を志願の一としてこの世に存命《ながら》えおるこの物語の著者のごときは、書を焼き筆を折って志を当世に絶つのほかはないが、幸いにして私の見るところはマルサスとやや異なるところがある。けだしマルサスの議論は、かりに人間全体が貧乏しなければならぬという事の説明となるとしても、かの同じ人間の仲間にあって、ある者は方丈《ほうじょう》の食饌《しょくせん》をつらね得、ある者は粗茶淡飯にも飽くことあたわざるの現象に至っては、全くこれを説明し得ざるものである。いわんや最近百余年の間において、機械の発明は各方面に行なわれ、その著しきものにあっては、ために財貨生産の力を増加せしこと、実に数千倍数万倍に達しつつある。いかに人口の繁殖力が強ければとて、到底この機械の発明にもとづく生産力の増加に匹敵すべくもない。されば百数十年前人口論の初めて世に公にされし当時ならばともかく、二十世紀の今日にあっては、財貨の生産力が人口の繁殖力に及ぶことあたわざるをもって、貧乏の根源となさんとするがごときは、当たらざるもまた遠しと言わなければならぬ。しからばなんのためにかの多数の貧民はあるか。請う回を改めて余が見るところを述べしめよ。
七の一
道具の発明によって禽獣《きんじゅう》の域を脱し得た人間が、機械の発明された今日、なお貧苦困窮より脱しあたわぬというは、一応は不思議な事である。しかしよく考えてみると、不思議でもなんでもなく、実は有力な機械というものはできたけれども、その機械の生産力が今日では全くおさえられてしまって、充分にその力を働かせずにいるのである。物を造り出す力そのものは非常にふえているけれども、その力がおさえられて充分に働きを現わさずにいるから、それでせっかく機械の発明された世の中でありながら、われわれ一般の者の日常の生活に必要ないわゆる生活必要品なるものの生産が、著しく不足しているのである。これをたとうれば、立派なストーブを据え付けながら、炭を吝《おし》んで行火火《あんかび》ほどのものを入れ、おおぜいの人がこれを囲んで、冬の日寒に震えつつあるがごときものである。
あるいはこの点を誤解して、今日は機械ができたためにわれわれの生活に必要な品物はすでに豊富に造り出されているけれども、その分配が悪いために、ある少数の人の手に余分に分捕《ぶんど》られ、それがために残りの多数の人々は食うものも食わずに困っているのである、というふうに考えている者もあろうが、それは大きな間違いである。
たとえば今日の日本にでも充分に食物を得ておらぬ者はたくさんあろうと思う。もちろんまずい物でもなんでも腹一杯詰め込んでおれば、本人は別にひもじいとは思っておらぬであろうが、しかし医者の目から見て栄養不足に陥っている者は少なからずいるだろうと思う。それならばそれらの人々に当てがわるべき米の飯なり魚肉なり獣肉なりが、金持ちのためにみんな奪い取られているかと言えば、無論金持ちは金持ち相応にぜいたくな金のかかった食事をしているであろうが、しかしそれかというて、それらの金持ちが毎日一人して百人前千人前の米や肉を食べているわけではない。あるいはまた冬の夜、寒さを防ぐに足るだけの夜具、衛生にさしつかえないだけの清潔な蒲団《ふとん》、それをさえ充分に備えていない家族も少なくはあるまいと思うが、それならば金持ちの所へ行ってみると、これらの貧乏人に渡るべきはずの木綿《もめん》の夜具がことごとく分捕って積み重ねてあるかといえば、決してそんわけのものではない。
されば今日社会の多数の人々が、充分に生活の必要品を得《う》ることができなくて困っているのは、たくさんに品物はできているがただその分配のしかたが悪いというがためではなくて、実は初めから生活の必要品は充分に生産されておらぬのである。
それならばなぜ、そういうたいせつな品物がまだ充分にできておらぬのに、都会に出てみると、至る所の店頭にさまざまのぜいたく物や奢侈品《しゃしひん》が並べられてあるかといえば、実はそこに今日の経済組織の根本的欠点があるのである。
けだし今日の経済社会は、需要ある物に限りこれを供給するということを原則としているのである。ここに需要というは、単に要求というと同じではない。一定の要求に資力が伴うて来て、始めてそれが需要となるのである。たとえば襤褸《ぼろ》をまとうた乞食《こじき》がひだるそうな面《つら》つきをしながら、宝石店の飾り窓にのぞき込んで金指輪や金時計にあこがれたとて、それは単純な欲求で、購買力を伴うた需要というものではない。しかして今日の経済組織の特徴は、かくのごとき意味における需要をのみ顧み、かかる需要ある物に限りこれを生産するという点にある。しからばその需要なるものは、今日の社会でどうなっているかといえば、生活必要品に対する需要よりも、奢侈ぜいたく品に対する需要のほうが、いつでもはるかに強大優勢である。これ多くの生活必要品がまずあと回しにされて、無用のぜいたく品のみがどしどし生産されて来るゆえんである。
七の二
けだし生活必要品に対するわれわれの需要にはおのずから一定の制限あるものである。かつて皆川淇園《みながわきえん》は、酒数献にいたるときは味なく、肴《さかな》数種におよぶときは美《うま》みなく、煙草《たばこ》数ふくに及ぶときは苦《にが》みを生じ、茶数碗《わん》におよぶときは香《かん》ばしからずと言ったが、誠にその通りで、たとえばいくら酒好きの人で、初めのうちは非常にうまいと思って飲んでいても、だんだん杯を重ねるとそれに従うて次第次第に飽満点に近づいて来る。そうして一たんその飽満点に達したならば、それから上は、いかなる上戸《じょうご》でも、もういやだという事になる。いくら食物が人間の生活に必要だといっても、いわゆる食前方丈所レ甘不レ過二一肉之味一〈食前方丈なるも甘んずる所一肉の味に過ぎず〉で、日に五合か六合の飯を食えばそれで足りる。それより以上は食べたくもなし、食べられるものでもなし、食べたからとてからだをこわすばかりである。さればいかなる金持ちでも、その胃袋の大いさが貧乏人とたいした違いなく、足もやはり貧乏人と同じように二本しかないならば、その者が自分で消費するために金を出して買うところの米とか下駄《げた》とかいうものには、おおよそ一定の限度があるべきはずである。そこでこれら金持ちの人々の需要の大部分はおのずから奢侈品《しゃしひん》に向くことになるのである。米を買ったり下駄を買ったりしただけでは、まだたくさんの金が残るからして、その有り余る金をばことごとく奢侈品に向けて来る。そこで奢侈品に対するきわめて有力なる需要が起こると同時に、生活必要品に対する貧乏人の需要のごときはこれがため全く圧倒されてしまうのである。しかるに今日の経済組織の下においては天下の生産者はただ需要ある物のみを生産し、たといいかに痛切なる要求ある物といえども、その要求にして資力を伴わざる限り、捨ててこれを顧みざるを原則としつつある。これ今の時代において、無用有害なる奢侈ぜいたく品のうずたかく生産されつつあるにかかわらず、多数人の生活必要品のはなはだしく欠乏を告げつつあるゆえんである。
たとえば、貧乏人がわずかばかりの金を持ち出して来て、もっと米を作ってくれと言ったところで、そう安く売っては割に合わぬから、だれも相手にする者はない。そこへ金持ちが出て来て、世の中にはずいぶん貧乏人がいて、米の飯さえ腹一杯よう食わぬ人間がいるということだが、さてさて情けないやつらである。おれなぞははばかりながら世間月並みのお料理にも食い飽きた。心の傷《いた》める人の前で歌を歌うことなかれという事もあるが、それはどうでもよいとして、きょうは何か一つごくごく珍しいものを食べてみたい。しかし一人で食べてはおもしろうない、おおぜいの客を招き、山海の珍味を並べて皆を驚倒さしてやろう、などと思い立ったとすると、彼はさっそく料理人を呼ぶ。そうして、金はいくらでも出すから思い切って一つ珍しい料理をしてみてくれ、まず吸い物から吟味してかかりたいが、それはほととぎすの舌の澄汁《すまし》とするかなどと命じたならば、さっそくおおぜいの人がほととぎすを捕りに山にはいるというような事になって、それだけたとえば米を作るなら、米を作る人の数が減ることになる。すでに米を作る人が減って来れば、それに応じて米の生産高は減じ、従うて米の値も高くなるであろうが、いくら米価は騰貴しても金持ちにはいっこうさしつかえはない。ただ困るのは貧乏人で、わずかばかりの収入では家族一同が米の飯を腹一杯食うことさえできぬというふうにだんだんなって来るのである。
七の三
以上はただ話をわかりやすく言っただけのもので、実際の社会はきわめて複雑であるけれども、要するに今日の経済組織の下においては、物を造り出すということが私人の金もうけ仕事に一任してあるから、そこで金を出す人さえあれば、どんな無用なまた有害な奢侈《しゃし》ぜいたく品でもどしどし製造されると同時に、もし充分に金を出して買いうる人がおおぜいおらぬ以上、いかに国民の全体または大多数にとってきわめてたいせつな品物であっても、それが遺憾なく生産されるというわけには決してゆかぬのである。
たとえばこれを英国における靴《くつ》の製造業について見るも、無論立派な機械がだんだん発明されて来ているから、その生産力は非常にふえている。しかしそれならば靴の製造高は昔に比べて非常に増加したかというに、決してそうではない。これはなぜかといえば、いくら金持ちだからといって、靴のごときものをそうたくさん買い込むものではない。もっともそのほかにたくさん貧乏人がいて、これらの貧乏人は皆靴がほしいほしと言っているけれども、ほしいと言うばかりで、ろくに金を出す力がない。もし靴の値段をうんと下げたなら、これらの貧乏人もみんな買うであろうが、しかしそう値段を下げては割に合わぬから、それで製造業者の力では最初からたくさんの靴は造らぬのである。かようなわけでせっかく機械が発明されても、そうたくさん機械が据え付けらるるわけでもなく、また機械のため生産力そのものはにわかにふえて来ているのに、生産高はその割合にふやさぬということであるから、そこで職工は次第に解雇されて、失業者の群れに入ることになる。かくのごとくしてせっかく発明された機械も充分に普及されず、立派な手を備えて働きたいと思っている者も口がなくて働けず、機械も人もともにその生産力をおさえられ、十二分の働きのできぬようにされているのである。
こういったような議論をかつてチオザ・マネー氏がデーリー・ニュースという新聞紙に掲げたところが、氏は読者の一人から次のごとき手紙をもらったことがあるという。(同氏著『富と貧』一三三ページ)
「あなたが月曜日及び火曜日の紙上で靴《くつ》の事についてお書きになったことは、私は全くほんとうだと思います。それについては私自身の経験があります。私は鉄道の一従事者で、引き続き奉職していて、ただ今は一週三十シリングずつもらっております。……しかし一九〇三年には私の労賃は二十五シリング六ペンスでした。そうしてその時から私は六人の子供をもっていますが、ちょうどそのおりの事です。私の家の隣に靴の製造及び修繕を業としておる者がいましたが、その人はそのころ業を失ってすでに数個月も遊んでいたのです。そのころ私の子供の靴は例のとおり修繕にやらなければならなくなっていましたが、金がないので修繕に出すことができません。それでしかたなしに自分でへたな細工をしておりますと、ある日のことです、ちょうど私は壁のこちら側で靴の修繕をやっていると、業を失った隣の人は壁の向こう側にいて、私がやむを得ずさせられている仕事を、自分にやらしてくれればよいのにという顔つきをしていました。私がその時の事情を考えた時に、私の心の中を通ったいろいろの感情は、私のいまだに忘れる事のできぬところです。それゆえあなたの靴業に関する議論を読むと、すぐにまた当時の事を思い起こして、ここにこの手紙をあなたにさしあげる次第です*……。」
* Chioza-Money, Rich and Poor, p.133.
これは一人の職工の短い手紙ではあるけれども、これを読むと、私は大家の筆に成った長編の社会劇を読んだ時と同じ印象を得《う》るような気持がするのである。
今日ダイヤモンドの世界産額のうち九割五分だけのものは南アフリカのキンバーレーという所の鉱山より産出されつつあるが、そこの鉱脈はすこぶる豊富で、掘り出せばまだいくらでも生産されるのであるが、しかしそうたくさんに売り出しては価格が下落してかえって利潤の総額が減るから、そこの鉱山会社ではわざとその産額を制限しているのである。南アのダイヤモンド生産は一会社の独占に帰していて、その生産制限が特に目立って行なわれているがために、今日は世界周知の事実となっておるが、もしもわれわれが、一段の高処に立って天下を大観したならば、これと同じようなる生産制限は、世界経済の至る所に、各種の事業を通じて、あまねく行なわれつつあるを看取するに難からぬであろう。これ有力なる機械の発明されたる今日、貧乏に苦しむ者のなお四方にあまねきゆえんである。
七の四
私は前回に縁の遠い英国の靴《くつ》製造業の事など持ち出して、しばらく問題を当面の日本から遠ざけておいたが、実は手近な所にも、同じような明瞭な実例がたくさんある。たとえば近ごろわが国に行なわれた米価調節なるものがそれである。米がたくさんできるということは実によろこばしい事で、現にこれがためには全国各府県に農事試験場などを設けてしきりにその生産増加を奨励しているのである。しかるにたくさんできると値段が安くなる。しかも安くなっては農家のもうけが減るというので、政府はいろいろに骨を折って、今度は米価をつり上げるくふうをしている。一方には日々の米代の支払にも困っている者がたくさんある。腹一杯米の飯をよう食わぬ者もおおぜいいる。それに政府は、米の値段を高くするために、委員会などを設け、天下の学者実業家を寄せ集めて、いろいろと骨を折らねばならないというのであるから、実に矛盾した話であるが、しかしこの一例によってみても、今日の経済組織の欠陥の那辺《なへん》にあるかはよくわかる。
世間社会問題を論ずる者、往々にして浅近の所に着眼し、貧乏を根治するの策は、一に貧民の所得を増加するにあるがごとく思惟す。さりながらいかに彼らの所得を増加したりとて、他方において富者の富がさらにいっそうの速度をもって増加する以上、貧富の懸隔はますますはなはだしさを加え、従うて天下の生産力が奢侈《しゃし》ぜいたく品の産出に吸収さるるの弊は、あえてこれがめに匡正《きょうせい》さるることなく、その結果たとい貧乏人の貨幣所得は多少ずつ増加することありとも、生活必要品の価格はさらにそれ以上の速度をもって騰貴し、これがため彼らの生活はかえって苦しくなるばかりであろう。
これを要するに、今日生活の必要品が充分に生産されて来ぬのは、天下の生産力が奢侈ぜいたく品の産出のために奪い去られつつあるがためである。多数貧民の需要に供すべき生活の必需品は、少し余分に造ると、じきに相場が下がってもうけが減るから、事業家はわざとその生産力をおさえているのである。しかして余の見るところによれば、これが今日文明諸国において多数の人々の貧乏に苦しみつつある経済組織上の主要原因である。
さてかくのごとく論じきたる時は、私の議論はいつのまにか循環したようである。なぜというに、私は最初、今日なぜ貧乏人が多いかといえばそれは生活費上品の生産額が足らぬからだと言った。しかるにさらに進んで、なぜ生活必要品の生産額が充分にならぬかと尋ねられると、それはほしいと思っている人はたくさんあっても、その人たちが充分な資力をもっておらぬからだと答えた。ところが充分に資力をもっておらぬ者はすなわち貧乏人であるから、つまり私の説によると、生活必要品の生産額が不充分なのは社会に貧乏人が多いからだということになる。すなわちなぜ貧乏人が多いかといえば、生活必要品の生産が足らぬのだと言い、なぜ生活必要品の生産が足らぬかと言えば貧乏人が多いからだと言っているので、なんだか私は手品を使って、この最難関をごまかしながら抜け出たように見える。しかしこれは私の議論が循環しているのではなくて、実際の事実が循環しているのである。いずれその事は後に至ってさらに評論するつもりであるが、ともかく以上の述ぶる所によって考うれば、貧乏問題は一見すれば分配論に局限されたる問題のごとくにして、実は生産問題と密接なる関係を有するものなる事を看取するに足るであろう。思うに世上社会問題を論ずるもの往々これをもって単純に富の分配に関する問題となし、その深く現時の生産組織と連絡するところあるを看過する者すこぶる多し。これ余が特に如上の点を力説して、しかる後問題の解決に進まんとせしゆえんである。
[# 中編(七の四)終り]