第五章
所得税 — その他の問題
PERSONAL INCOME TAX : OTHER PROBLEMS)
- [ # この章の目次 --- e-text 版のみ ]
- A節 高額所得の課税
- B節 変動所得
- C節 外国人
- D節 銀行預金利子およびその他の貸金利子
- E節 特別控除
A 高額所得の課税 (Taxation of High Income )
現在の日本の所得税制度は表面的には非常な累進制である。しかし実際の結果はかなりこれとは違っている。富裕な納税者がいわゆる「抜け道」によって合法的に多額の所得税を免れるいくつかの方法がある。またわれわれの受けた感じでは、最高所得層における法律の執行は比較的無力であって、少くとも斉一とはいえない。したがって、多数の、恐らくは大多数の高額所得者は、累進税率表から予想される税額の一部しか納税していないのである。その反面、納税者の所得を過大に査定することによって、非常に加重な負担が課せられることがあり、また、立法の際、予期しなかった事例に対して、法規を厳格に適用するだけで加重な負担が課せられることも稀ではない。
現行法の抜け道のうちで著しいものは、課税所得から譲渡所得の十分の五を除外していること、法人における所得の蓄積に対する適当な制限が欠除していること、清算の際の残余財産分配に対して比例税率が適用されていること、或る種の利子およびその他の所得に対しても比例税率が適用されていることである。この抜け穴は、本報告書の別章に記載してある種々の勧告によってしかるべく塞がれることになる。しかし、適当な累進課税を確保することは適当な法律を定めればいいというだけの問題ではなくて、その法律が効果的に実施されることが必要である。そうしないと、ある点を超えた税率の増加または抜け穴の阻塞が税の累進制に殆んどまたは全然益するところがないからである。
その結果は、ただ脱税を増し納税志気をますます悪化させるだけである。のみならず、ある種の脱税方法は浪費的なものであって、生産力の最大限の発揮を妨げることおびただしいものがる。結局、低額所得層から税負担を除去することに熱心のあまり彼等のために役立て得る財源そのものが、消え去るということになる。
日本の現行最高税率は、納税者の協力および税務執行の現在の水準に照らして、かなり高率すぎるというのがわれわれの結論である。現行税率を引き下げて、納税者の協力を向上せしめることにすれば、これらの高額所得者からより多くの税収を確保することが可能である。
その結果は、税務行政運営の方法を全然変更しなくても高額所得者に対する実質的累進税率は引き下げになったというより逆に引き上げになったことになるのである。何れにしても、このような税率の引き下げは税務行政の執行を活発化させる重大な一石であってこの税務行政の活発化こそ、累進度の大改善を行うべき場合に必要なものである。脱税目的のためにとられているいろいろな手段の有害な効果の方が、現在実施されている最高税率で実際は僅かしか累進の実を挙げていないことに比してより重大である。
以上の見解は、国税である所得税の税率だけしか問題にしない場合にもあてはまるのであるが、この所得税率には更に地方団体の住民税の税率をつけ加えねばならない。しかもその住民税はこれを強化し、且つ、専ら市町村の所管とするようにわれわれが勧告したところである。(第二章)
一定の税率が高すぎるか否かを判定するためには、つねに頼らなければならないことであるが、この判断に役立つ二つの特に考慮すべき点がある。
第一は、所得額の査定における平均誤差額である。
たとえば、もし実際にあらゆる場合、課税のための所得額計算の誤差が五%以下であるとを無理なく確保できるとすれば、最高税率の八十%でも、また恐らく九十%でも差支えないことになろう。しかしわれわれの印象では、最高段階の所得額の課税においては、現在のところ十%ないし二十%の誤差はごく普通であり、五十%ないしそれ以上の誤差も稀ではない。課税の程度がこのように低いとすれば、税率を例えば六十%から八十%にしても、脱税および税務行政の著しい困難に比較して累進度をほんの僅かしか向上させたことにならない。たとえばある納税者の実際の所得が二千万円であるのに、僅かに一千万円と決定されたとすると、税率を六十%から八十%まで引上げてみたところで、納税者の手許に残される所得額は僅かに七分の一減少するにすぎない。しかし同じ場合正直な納税者の納税後の所得残額は半分になってしまう。
他方より高い累進率を適用しようとして恣意的に過大な査定が行われることがあるが、かようにして今七百万円の所得を有する納税者が一千万円の査定をうけたと仮定しよう。この納税者にとっては、査定額に対し税率を六十%から八十%に上げれば、この納税者は納税後の手取所得として少くとも百万円残る状態から逆に税額が所得額を百万円も超過する状態に移されてしまうのである。かかる状態の下においては、税務行政は悪化の道を辿り、これがため結局においては、税率は高くとも実質的累進率はかえって減少することになるであろう。
第二に考慮すべき点は、税金の回避または、脱税に対する刺戟である。所得額に対する五十%の課税は、納税者の手許に残される金額の百%に等しい。これに反して所得額に対する六十七%の税率は残額の二百%に当り、所得額の七十五%の税率は残額の三百%に相当する。例をとっていいかえてみるなら、ある会社がその役員に手取り一万円の増俸をする場合、税率が五十%であるときには、会社の負担は二万円にすぎないが、もし税率が六十七%または七十五%であるとすると、負担は三万円または四万円となるのである。
個人所得に七十五%の課税が行われるとすると、会社役員としては、会社がこの四万円を俸給で支払うよりも自分ための宴会その他の役得で同額を費す途をえらぶであろう。税という関係がなければ給料は、これを受取った者の任意な方法で使うことができるという長所があるから、勿論一番よろこばれるのである。会社役員は、役得が会社負担額の三分の一の値打しかないと思うかも知れない。しかし、四万円の役得を受けた方が四万円の給料をもらって、税を差引き手取りわずかに一万円になってしまうよりはよいのである。もし税率が六十七%になれば、会社の役員は、一定額の増加報酬を公然たる俸給の形で受けとったがよいか、それとも宴会とかその他の役得の形で受けとったがよいかの選択は、大体五分五分だと思うかも知れない。そしてもし税率が五十%にすぎない場合には、たとえ税を支払った後は会社の負担する金額の半分しか手取りにならなくても、税がかからない役得を受けるより必ずや増俸の方をえらぶであろう。
このような場合、所得税率を引上げれば、ただ税収入を失うだけでなく、浪費を誘発することになる。しかもこの浪費の与える満足は、それ以下の額が納税者の自由な処分に任されている場合に与える満足には、はるかにおよばないのである。純事業経費と個人経費との間に精確な一線をひくことはできないから、この様な脱税行為を摘発することは決して容易な業ではない。
高税率の圧力の下では他の脱税方法も発達する。たとえば、納税者の給与の一部分を返済を要しないという暗黙の了解の下に借金の形でうけとるという策を講ずる。
しかし税率が五十%に下ったとしたら、彼は、会社が経営困難に陥った場合に生ずる返済責任の危険を賭し、または税務署に調査される危険を冒すよりは、税金を納める方をとるであろう。
要するに、われわれのの意見では、日本の現状において、税率を五十%以上非常にたかめることは賢明でないと思う。少くとも、もし税率をどうしてもそれ以上に引上げるならば、この高税率が適用される納税者一人一人を徹底的に調査、決定できる程度に納税者数が減少する限界額以上の段階に限って行うべきである。
しかし、われわれはこの程度の高額所得段階累進率の税制で満足することはできない。累進税制は、わずかに五十%または六十%を最高率とする所得税にだけしか採用されていないからである。およそ、その名に値するだけの累進税制ならば、経済組織の支配権を少数の富者の手中に集中させる恐れのあるぼう大な富の集中を、有効に阻止するそなえがなくてはならない。巨富の集中は、日本にとって極めて重大な危険がある。かかる集中を税制によって阻止するのでなければ、彼等は、遅かれ早かれ必らずや再起するであろう。
改正相続税(第八章)はこれに役立つであろうが、それだけでは十分とはいえない。その効果は長い期間にわたって表われてくるのである。
ここに提出された課題をもっとも満足させ得る解決方法は、富裕な者の純資産に毎年低率の課税を行うことである。個人の純資産とは、負債を差引いた資産額である。この税は純資産に対して課税される〇・五%ないし二・五%または三%の累進税であって、極めて高額の控除をもち、所得税率が平になる以上の処ではじめて適用されるであろう。
この税は、所得税の最高税率の引き下げによって、生ずる間隙を埋める効果をもつものである。それは元本に対する租税であるが、軽少であるために元本をくずして納税に充てる必要はないであろう。納税者は、普通は、この税および国の所得税と地方の所得税(住民税)双方をその年の所得のうちから納税できるであろう。
かような富裕税は、所得税率を高率に保つことを妨げるような諸々の困難をほとんど伴わないのである。
第一に、最も重要なことは、所得税と富裕税との結合は、所得税一本にしてこれを同程度の累進税を課する場合と比較して、生産と投資意欲に対する影響ははるかに少さいであろう。富裕税は、所得があろうとなかろうと、または努力がなされようとなされまいと、納められなくてはならない。従って、ある納税者が投資を拒んだり、全力を揮って働くことを拒んだところで、富裕税の負担を軽減することはできない。彼に与えられた唯一の方法は、財産を隠匿することによって公然たる脱税の危険を冒すだけである。もし納税者が更に所得があって、これを貯蓄すれば後に至って増額した富裕税を納めねばならなくなることは確かであるが、こうなるまでには時間があり、その間に彼はこの増加した所得を消費し、この部分に対する税を完全に免れることができる。彼がそれを消費しないにしても、それまでの間に彼はこの金額の効用を享受してしまっているであろう。これを数字で示してみれば次のとおりである。百十%の所得税は実際納税者に所得をもうけ、これを利益ある投資に向けることを回避する気を起させるが、これに対して五十%の所得税と九%の富裕税(所得を元本の十五%と仮定すればこれは百十%の所得税と同額になる)との結合はなおかれに所得を増加する意欲を十分残すのである。
というのは、かれは所得の半分を持っていることができるからである。もちろん、われわれはかかる税率の組合せを提案するものではないが、この例証によって差異が明らかとなろう。
所得税の最高税率を引上げるよりも富裕税が優れているもう一つの点は、それが不当な経済力集中の発生を防止する手段として卓越した、より適当なものであるということである。経済の支配は所得の帰属よりも富の所有に関係が深い。実際、給料または大衆小説の印税等として巨額の所得を受け取ったところで証券またはその他の財産から生ずる同等の所得の場合と同じように、それが、民主主義の存立を危うくするようなことはない。もし富裕税が実施されるとしたならば、、資産所得者は、勤労所得者よりも多額の納税をすることになる。したがって、税制の効果はそれが最も必要とされるところに集中されることになろう。
富裕税は、更に所得税と概ね純所得を課税標準とする地方住民税との調整に関する問題の解決策ともなる。もし所得税率表にきわめて高い最高税率が定められる場合には、地方税率をこれに付加すると、綜合負担はいよいよ増大して、国または地方の税務行政が潰滅するほどの段階に達することとなる。この結果は、限界綜合負担が極端にあるいは百%を超えるようになってはならないとすると、地方団体が独自の立場から税率を課するという自由は、はなはだしく制限されることになる。この難点に処する対策は原則的にいえば、国の所得税の課税標準を算定する場合は地方税額を控除し、あるいは逆に地方税の課税標準を算定する場合は国の所得税額を控除すればよいのである。しかし、この解決方法は、権利確定主義で控除を行うべきものとすればある程度複雑さを加えることになり、また現金主義をとっている納税者に対しては年々所得が浮動する場合には部分的にしか効果がない。
しかし、富裕税の制度を採ることによって国の所得税の最高税率を五十ないし六十%に喰止めてしかも公平を保つことができるとしたら、かなり高額の地方税を所得に課税しても、綜合負担は百%より相当下にとゞめることができよう。こうすれば、一方の税額を計算する際に他方の税額を控除する必要は減少するかもしくは消失するのである。
富裕税は、不確実な所得に対しては、自動的に軽減を行うものであるから、いかなる所得税を以てしてものぞみえない重要な利点をもっている。二人の者がいて各、年額百万円の投資所得を有しているが、一方はすべて優良会社の社債又は国債に投資しており、他方は将来不確実な投資から所得を得ているとすると、前者のもつ投資の資本価値は、後者のものよりも大きいのである。かれはより多額の富裕税を納めるのであるが、所得税額は同一なのである。
更にまた富裕税は、なんらの所得ももたらさない非生産的な方法で資産を退蔵している者に租税を課して政府の経費を分担させるものである。所得税はこのような経済的な力をもちえない。
われわれは富裕税を実施する際の税務行政上の問題を検討した結果、この租税を採用できぬほど困難な問題は存しないという結論を得た。問題となる点は、富裕税を施行するために何が必要になるかということではなくて、富裕税の実施が六十,七十,八十%にも達する所得税の実施よりも困難であるかどうかという点にある。富裕税は高率な所得税に代るものであって、これに付加されるものではない。もし富裕税が採用できないものであるとするなら、われわれはおそらく国の所得税の最高税率を五十ないし五十五%まで下げるようには勧告しないであろう。
富裕税によって生ずる行政上の負担の増大は決して過大なものではないという理由は次のとおりである。
第一に、富裕税が課されていない場合でも、富裕な者の純資産は毎年計算されるべきものである。何となれば、その場合には、高額所得税率が存続すべきであって、富裕な者に対する高率な所得税を有効に実施するには、彼等からその所得額のみならず、財産額の申告をもさせる必要があることは、経験に徴して明らかであるからである。財産の申告は、資産の譲渡所得を申告せずに脱税することを防止し、少くとも闇所得の一部を暴露する。不正所得が日本程大きな問題になってはいない米国においてすら、各人から年々貸借対照表を提出させていないということが、高額所得に関する徴税機構の最も弱い一環となっているのである。
したがって納税者の申告という点で、富裕税が新に必要とするところは、高率の所得税が必要とすべき程度以上であるにしても大したことではない、という結果になる。
第二に、他の諸税との関係上、不動産の再評価が必要となって来つつある。土地および減価償却の行われる資産は、地租および家屋税の目的のために再評価されねばならない。最初は概算でよいが年を加えるごとに精確にこれを行うことになる。(第十二章)法人組織でない大企業の減価償却資産は、より高額の減価償却をするために再評価が許されるであろう。(法人資産も同様だが富裕税は法人には適用されないのである。)大巾の再評価は大インフレーションの必然的な結果である。したがって、他の税の目的ですでに多くの資産の評価が必要となっているのであるから、富裕税の施行上必要となるような小規模の評価の追加の如きは比較的容易にできるであろう。
純資産に課税することになると、恐らく一部の納税者は、所得税の申告でするよりも一層、資産との負債の申告を偽ろうと努めるようになるであろう。
しかし一部の納税者にとって所得税の方が痛いであろうから、反対の態度に出るであろう。しかし、大体のところ、富裕税の存在は、直接には所得を生まない現金その他の資産をますます隠匿させることになるだろう。更にまた、純資産額が直接課税の対象になるという事実は評価の正確性を一層重要なものとするであろう。
もちろん、富裕な者は百円紙幣や宝石で隠匿しようとするから、暫らくは富裕税の脱税行為は行われるであろう。しかし課税の対象となる純資産総額に対する割合からすればそれは微々たるものであろう。賢明な納税者は直ちにかかる隠匿が引き合わないことを知る。もしかれがその現金を隠匿する代りに投資して八%の所得を得、且つ所得税の最高税率が六十%であるならば、富裕税率が三・二%を超えない限り富裕税を免れるために財産の隠匿することによって却って損をするであろう。
最後に、贈与税および相続税(相続税に規定されている—第八章参照)を有効に実施するために、あらゆる種類の資産は、相続または贈与によって譲渡される際に正確に評価されることが必要となってくる。これらの評価を資料に利用すれば、富裕税によって生ずる新たな負担はいちじるしく軽減されることになろう。
要するに、富裕税をそれだけで単独に考えると、実施上の困難がその採用を躊躇させるのであるが、しかし既存制度の付加制度として、また、所得税の高税率の代りとして考えれば富裕税の齎らす[# もたらす]実質上の新たな困難の量はむしろ負のものであるかもしれないのみならず、富裕税のために行政上の努力は、それが費やされただけ、他の税の実施に際して利益となることは確かである。
この利益は相互に相通ずるものである。たとえば、所得税の検査官が、年度当初における納税者の純資産額と翌年度頭初の純資産額とを比較してみた場合、両者の差額はその年中に受取った贈与額または遺産額(同年中に行った贈与を差引く)であるかは、同年中の所得額から個人的消費を差引いた残額であるか、もしくは資産自体の価値の変動額と等しくなければならないのである。
このようにして納税者の貸借対照表を毎年作成すれば、かれの贈与及び所得の申告が正確であるか否かを照査する上に、すぐれた手段となるであろう。また、納税者がある年の純資産申告書にある資産を書かなかった場合、後になって、その資産がかれの所有に属することが発見され、または、これと交換されたある資産が発見されたとすると、税務官吏は、これによって過去の申告もれ所得額または申告もれ贈与額、もしくは申告もれ資産額を推定することができることになる。このような三つの税の密接な関係上納税者が、贈与、資産または所得何れかの申告を怠れば、遅かれ早かれ、かれはこの厄介な喰違いを税務官吏に説明せねばならない破目に陥ることになる。
富裕税の実施は次の点で高率所得税の実施に似ている。即ち、その成果は好悪の感情なしに執行しようとする税務当局の熱意と、その国の富裕階級の社会認識 — [#—を挿入]富裕階級は現代においては、何れにせよその所得の大部分を、政府支出を通じて社会全体の福祉のために醵出することを要求されており、また社会を少数者の経済的支配に託すような巨大な財産の蓄積は許されなくなりつつある、ということの認識 — の如何によるところが大きいという点においてである。
富裕税はかつてどこでも試みられたことのない新しい税ではない。近年においてはスイスの二州以上の州で行われたことがあり、また第一次大戦後ドイツ税制の特色の一つであった。
われわれは、純資産額五百万円以上の者の純資産に対して、毎年、低税率を課することを勧告する。この税を実施して十分の経験が得られるまでの間は、課税されるべき納税者数を少くするために、控除額を高くしておき、税率をきわめて低くしておくべきである。われわれの勧告する税率表は左の通りである。
純資産額(円) | 税率 |
---|---|
五百万円以下の額 | 免税 |
五百万円を超える額 | 100分の0.5 |
一千万円を超える額 | 100分の1 |
二千万円を超える額 | 100分の2 |
五千万円を超える額 | 100分の3 |
[# 百分比は漢数字を算用数字に置き換えました]
従って、千二百万円の純資産に対しては、最初の五百万円については課税されない。次の五百万円については二万五千円、残余の二百万円については二万円、合計税額は四万五千円であり、その平均税率は〇・三七五%である。
五十万円を超える所得者は、所得税および相続税の課税に協力するために、すべて資産および負債の申告書を提出すべきものとする。
この税収入は少くとも今後数年間は、またここに提案している制限された形をとる限り多額に上ることはないであろう。直接経験がない場合はかかる税収入を充分正確に見積ることは困難であるが、上に勧告した税率では最初は年二十億円程度の税収にしかならぬかも知れない。しかし、このことだけでは、少数の富裕な納税者にこのような税を課さない理由にはならない。のみならず、日本において経済復興が進むにつれ、高度の集中と蓄積とが次第に顕著となってくることが予想される。富裕税は、主として将来に対して設けるものであるが、その実施の経験によって将来富裕税が完成さるべきであるならば、また特に、かかる富裕税がない場合の唯一の代替物たる最高所得段階におけるきわめて高度の所得税率の歪曲的な経済的効果によって将来への道が妨げられるべきでないならば、富裕税は現在これを実施しなければならないものである。
目下のところ、われわれの勧告は、富裕税には、所得税の最高税率を五十%に引き下げる程度にしか、重きをおいていない。富裕税について経験が増し、且つ租税としての重要性が示されるに従って、われわれは、所得税率の最高は四十五%または五十%に引下げ、富裕税をそれに応じて強化することを勧告する。
B 変動所得 (Fluctuating Incomes.)
ある納税者の所得が年々大巾に変動する場合に、急激な累進税率の所得税を課すとすれば彼は不公平な取扱をうける危険がある。かれはほんの少しの年数しか、非常な高額の所得を得ないのであるが、この年度においてかれは高額所得階層とされて、苛重な税率の適用を受けるのである。一定年間にわたっては所得の総額が同一額であっても、毎年規則的に所得のある者は、決してこのような高額所得階層とされることはない。要するに不規則な、でこぼこ所得を有する納税者は、規則的な所得を有するものよりも余計に税金を納めるという結果になる。一例として、ある作家がいて、ベストセラーの印税が彼の生涯のわずかな年間に集中されているとする。この作家を、たとえば、その所得が何年にもわたって平均している新聞記者とくらべてみればよい。漁業所得は年々大巾に変動し易い。魚群の移行には変化があり、時ならぬ大損害が嵐のために発生する。山林所得は短い年数中にかたまって生じる傾向があり、不動産、証券その他の資産の売却による利益及び損失は大きくまとまった額で生じ易いのである。
われわれは、右のような所得に対する所得税の衝撃を緩和する特別規定を設けて、納税者が、一定年間、平均した規則的な額で同額の所得を得ると仮定した場合と、結果をできるだけ同じようにすることを勧告する。この規定は、かかる所得の全額をそれを受取る所得年度に単純に一括してしまう方法をとる場合と比較すれば、はるかに複雑である。しかし、この場合は、租税の下において公平を得るためには、特別の煩雑も真にやむを得ないという一例なのである。これに該当する納税者の人数は少数であって、その所得は普通相当の額であろう。そして納税者は、かれらの税負担を軽くするために必要な特別の計算を進んで行うであろうし、また行い得るであろう。(もしくは少くとも計算に長じた助手を依頼することができるだろう。)
この勧告の詳細は、本報告書の付録に綿密に記載し論議されている。今ここでは、その概略だけを述べよう。印税所得、譲渡所得、その他一年内にその全額が収入されるような特定の浮動性所得は将来数年にわたって繰り越される。即ちその一年にはその所得額の一部だけが受け取られ、同額のものが翌年に、またその翌年にというように例えば五年または十年間にわたって所得される場合と同様な取扱いをうけるのである。こうすると納税者がある一年度において非常な高税率の階層に投げこまれることがなくなる。所得総額に対してこのような仮定税金総額が算出され、第一年目に納税され、次年度以下においては必要に従って税金の払戻しは行われず、ただ、他の理由によって納めねばならぬ税額を減らすことによって、調整が行われるだけである。
資産の売却で損失が生ずる場合の如く、ある年に非常な損失が発生する場合にも類似の問題が起るのであって、われわれは全然同一ではないが類似の解決方法を勧告している。(詳細は付録に記載してある。)
この勧告では、譲渡所得は全額課税所得に算入され、また、譲渡損失は全額控除されるのである。
譲渡所得を全額課税し、譲渡損失を全額控除するのでなければ、近代的累進所得税を有効なものとすることはできない。現行法の規定では、譲渡所得の五十%しか課税所得に算入されていない。これは愚劣にも、思惑的投資に特恵を与えるものであって、正常な利子、配当または法人組織化されていない営業の正常な利潤という形で果実を生ずるような投資を犠牲としているものである。往々譲渡所得はある意味において、所得ではないから、所得税を全額課税すべきものではないということが主張されている。われわれはこの用語学的主張には賛同しない。重要な事実は、譲渡所得は所有者に対して、利子又は配当が与えると全く同様の経済力の増加を与えるということである。だがそれ以上重要なことは、こうかつな脱税者が、その利益を実現する法的形式を変形することによって、他の形態の所得を譲渡所得に容易に変更することができるという点である。事実、米国における経験に徴して十分明らかであるが、譲渡所得が課税されないかまたは低率課税しか行われていない場合には、多くの富裕な、そして抜目のない投資家が高額所得を得ながら、ほとんど課税されないで巧みにのがれることになるのである。
個人所得税及び法人税に対するわれわれの勧告は、譲渡所得の全額課税、譲渡損失の全額免除ということに基づいている。もし譲渡所得及び損失の全額制が取り入れられないとしたら、われわれは法人税の軽減をはるかに縮少し、法人からうけるあらゆる種類の分配所得に対する所得税の取扱をはるかに峻厳なものとするように勧告するであろう。この場合には、なお、その他いくつかの制限を行うように勧告することになろうが、譲渡所得に対する上の改革を行う場合に比して、その制限を行ってみたところで、はるかに不公平な税制となってしまうのである。譲渡所得の全額課税、譲渡損失の全額控除こそはわれわれの勧告の中で最も強調されているところなのである。
譲渡所得および損失に関するわれわれの勧告で重要な一つの部分は、生前中たると死亡によるとを問わず、資産が無償移転された場合、その時までにその財産につき生じた利得または損失は、その年の所得税申告書に計上しなくてはならないということである。このことは、、所得税を何代にもわたってずるずるに後らせることを防止する上において重要である。財産のうちの譲渡利得的要素に対しても贈与税や相続税が課せられるではないかなどということは全然答えになっていない。贈与税や相続税も財産に対して課されるのであるが、それは、譲渡所得的要素のない財産 — たとえば現金 — に対してなのである。
しかし、実質的には何等の所得ではなく、貨幣単位の減価によって生ずる財産の貨幣価値の変化に過ぎない譲渡所得に対して、同額課税するのは公平ではない。このような単なる紙上の譲渡所得は特に近年の日本においては重要な問題となった。われわれは、減価償却の行われる事業用資産に関しては、将来の利得は、それが再評価額を越える限りにおいてのみ、課税するように勧告するものである。第七章には事業用資産の再評価に関するわれわれの勧告が記されている。しかし、現行法の下において紙上の利得を実現した他の人達は税を支払う必要があったし、また、預貯金、公社債等に投資した多くの人々は実質上損害を受けたのに対してなんら控除が認められていないのにかかわらずかような納税者については全額その紙上の利得に対して課税しないということは、不必要に不公平なこととなろう。この不公平を少くするために、われわれは再評価によって決定された紙上の利益に対して六%の課税が行われるべきことを勧告する。
われわれは、個人の保有する他の資産、就中証券についても概ね同様の斟酌を行うように勧告するものであるが、これらの資産は債評価をうける性質のものではないという点に鑑み、別な方法でこれを行う必要があると考える。すなわち、この種の資産が売却された場合には、できれば、その資産の1946年の財産税における評価額を、1949年の物価指数によって修正して、その所得を計算すべきものと考える。
この数字を利用できないときは、ある程度これに近い数字を用いても差支ない。いずれの場合にも、譲渡損失についてやや異った方法が勧告されている。この提案の詳細および除外例は、末尾の付録に記載されてある。
われわれは、またふたたび物価水準が統制できなくなって一年に概ね十五%以上も変動することがあった場合、将来においても、単なる紙上の譲渡所得または損失は同様に特別に取扱う措置を講ずるように勧告する。実際、すべての納税者が物価水準を変更することから出発して同様の取扱を受け得るものとすれば、紙上の利得及び損失はなんら不公平を伴わず、課税基礎から排除することができる。しかし、十五%以下の変動の場合には、物価変動に対して特段の斟酌を加えないことを勧告する。物価水準の変動が大したものでない限り、かかる紙上の利得に課税することから生ずる不公平と、悪影響は看過しうるものであり、物価指数を使用することから生ずる困難と煩雑の方がこれによって得られる利益よりも大きいのである。
C 外国人 (Foreign Nationals.)
日本再建のためのいかなる計画もそれの主要な特色になるものは、日本に再投資しようとしている投資家または商業もしくは工業に新投資を考えている外国投資家の外国資本を導入できる経済を作り上げることである。日本経済を発展させるため外資の援助を受けるには、経済情勢が外資を導入すするだけの好条件を備えるばかりでなく、その外資とともに、それによってできた商業工業を監理運営するため外国人が一緒にこなければならない。有望な投資家を導入する前提条件は、国内経済が比較的安定していることと事実投資を受けた国の政府が源泉で徴収する税金および投資家の本国でこのような所得に対し徴収する税金の程度の両者を合せた徴収税額を差し引いた後の投資に対する合理的な割合の利益をこれらの投資家に対して確保できる、機会を考えるような税制を有することである。
今日本の税制において外国人により最も反対されているものは所得税率の高さであろう。この報告の他の個所で示したように現行の税率はインフレ価格及び所得と釣合のとれない程高く、外国人にこれを適用してもその正しい実施が不可能なのである。ある外国人の生活水準は平均日本人のそれより遥かに高いものであると同時にある外国人の生活水準は平均日本人のそれとくらべて同様または低いものであるというのは周知の事実である。普通その国に派遣された外国人によってなんらかの管理統制がなされない限り外資を導入することはできない。日本人の平均生活水準と同様または低い国の投資家よりも高い国の投資家からより多くの外資を導入できるであろう。この報告の他の部分で所得税の最高税率を五十五%にし、これを純所得三十万円を超えるものに適用し、日本人のうちでさらに大きな富の集中が行われることを阻止する目的で、所得税に追加して、富裕税を実施すべきことを勧告している。外国人が日本で蓄積する個人的富の限度を超えてこの外国人に富裕税を適用すべき理由はまったくないのである。さらに、富裕税が頼りとなる財源になった時に所得税の最高税率を五十ないし四十五%に引下げるべきことも勧告している。もし外国人が日本で得られる所得に課せられる最高税率が地方税たる住民税を含めて五十%であることを保証されれば、このような税率は必要な新しい外資を管理する外国人を導入することができると想像される。
少くとも税率が阻害要因となることはないだろう。例えば、米国では所得に平均して三十三%三分の一所得税が課せられていた米国の事業責任者が日本にきて例えば平均税率五十%を賦課されたとする。彼がこの税の差を補うためには三十五%だけ俸給の増加があればいい。同様に法人でない外国貿易業者もそう大きな利潤の増加を必要としないであろう。
外国人の負担を軽減するため幾つかの提案が出された。その一つは外国人が本国に在住している時と同額の税を支払うことを認めるべきだというので、この案は、大蔵省が各種の所得税制度を知り、かつ解釈しなければならないという点から単に税務行政上いいしれない困難をともなうばかりでなく、平均日本人の生活水準と同等または、それ以下の外国人に日本人に比して不当な競争的利益を与えることとなる。また間接税が専ら用いられている国の外国人は日本で所得税を支払わずに営業活動を続けることができるし、本国で間接税を賦課されることもないであろう。このような提案は、それ故、越え難い行政上の錯綜を招来し納税者に対する公正な取扱いの原理に背くものである。
もう一つは、外国人に対して生計費控除として特別控除を認めるべきであるという提案で、表面上取上げるべき長所があるようであるが、これを分析してみると必ずしもそうではない。
もしすべての外国人に対し一律の生計費控除が認められたとすれば、日本人と同程度または少し低い生活水準にある外国人が平均日本人よりも高い生活水準を有する外国人および日本人自身に比較して、税について特恵的待遇を受けることとなるであろう。外国人の各階級についてかれの所属する国にしたがってその生計指数を調整する努力がなされるならば、どれ程の額が許されるべきかを決定しようとする行政上の仕事は全く重荷のように思われる。したがって税務行政上の理由および同様の状態にある納税者に対し取扱が不公平だという理由に基いてこの提案はとるに足らないことが立証された。
現在、非円通貨で得ている在日外国人の所得には、日本の税は課せられていない。この免税は単に臨時的なものとして作られた。この免税は前に述べた所からして1950年1月1日をもって廃止することおよび前に示した所得税の税率が外国人にも適用されることを勧告する。更に近いうちに収入をあげる必要が減じて所得税の最高税率を五十%(恐らく四十五%に定めてもよい)程度になることを希望している。
日本経済に再投資または新投資を導入するため、これらの投資とそれより得た利益とに対し日本人が投資したものより軽い税率を課するように、ある種の特別規定を設けることが望ましいかもしれない。かような差別待遇は外国為替上の困難および特にかような投資に対し直接的、間接的に課せられている関税の負担によって国際投資を阻むこのような障害物をある程度相殺するという意味で幾分か妥当であるかも知れない。しかし、かかる差別待遇の主たる理由は、日本の経済が新たな資本の追加を特に必要とし、この資本の必要量をすべて国内の蓄積から確保することは困難であろうということである。
任意貯蓄は、その必要を賄うには余りに少な過ぎると思われるし、適当な資本が、厳格な消費制限によって確保され得るとしても、その結果生ずる消費水準は、低くて好ましくないであろうし、この消費水準を確保するために必要とする統制または税は、それ自体好ましくない結果を生ずるであろう。
現在法人はすべての株主の配当の二十%を源泉徴収している。日本人はこの二十%の源泉徴収税額を、かれらの納付する所得税から控除することができる。それに加えて、法人所得に対する税三十五%の一部を相殺するために所得に対し十五%の控除が認められる。その上、この報告の他の所で配当に対する二十%の源泉徴収税を廃止し、且つ、所得税に対する十五%の控除を二十五%に引上げることを提案している。日本に居住していない外国人は、しかし、この計画によって非常な差別待遇を受ける。というのはかれらが自国の政府に支払わなければならない所得税からこれに匹敵する法人税の控除を自国の法律は普通規定していないからである。事実多くの場合所得税はないか、それとも全然問題にならない程度である。法人税の三十五%だけは日本で得た利益に対して課するものとしては適当な税率であると思われる。現在外国人が日本で投資することが禁じられていることは周知の事実であるが、将来いつかはこの制限が撤廃されるであろうということを考慮に入れて、現在税制の改正に当るべきである。それ故、大蔵省が認可した様式で当法人の株式何株を所有するものであること、また証明書の番号、及び彼が日本に居住していない外国人であることを記載した説明書を配当を支払う法人に提出すれば、日本に居住していない外国人に支払われる配当に対してこの源泉課税を行わないようにすることを勧告する。
偽りの報告がなされた場合は、懲罰を外国に委託して適用することも規定すべきである。
外国人は、商業貸付あるいは債務保証の形で投資をすることを望むかもしれない。現在外国人および日本に居住していない外国人に支払われるすべての利子は二十%の源泉徴収を受けている。この二十%の源泉徴収は、日本在住の外国人になされる限り正当であろう。しかし、もし外資の導入が緊急を要するものであれば、日本に居住していない外国人に、これを行うことは必ずしも正当ではない。この税率をどうするかは、日本人自身が決定すべきものである。経済が外資を緊急に必要とするのであるから、日本人はたぶん源泉徴収の税率を十%まで引下げようという気持でおるのではないかと思う。
D 銀行預金利子およびその他の貸金利子 (Interest on Bank Deposits and Other Loans.)
この種の所得に対しては、累進税率で所得税を課税することをやめて、一定の比例税率で課税すべきであるとする、多くの提案がなされている。これらの提案のうちには、この種の所得に対し、所得税を課すことは、理論上よりもむしろ実際上一層不公平であるという、少くともある程度まではもっともらしい理由をもっているものである。しかし銀行利子には比例税率で源泉課税を行い、その他の所得税には一切これを課すべきでないという提案については、われわれはいかなる長所をも発見できない。
所得税が大巾に逋脱されている現状に鑑みてこの比例税率による課税が必要であり、これこそ多額の税額を徴収する唯一の方法であるという主張も行われている。しかしこれを真実であるとすれば、預金者に対して、利子所得ばかりでなく他の源泉から生ずる所得をも匿す目的のために預金を匿名で無数の口座に分散することを容認するような政策に、その大部分の責が負わされるべきものである。
かような政策は、何としても弁明することはできない。
われわれは、今後、いかなる銀行にも、相当の理由によって預金者の真正な名義で行われていないと信ぜられるような預金は、一切これを禁止するように勧告する。更に、納税者の所得調査の目的を以て、税務調査官が相当の令状を呈示して、銀行の書類を検査できるようにすべきである。これらの措置が講ぜられゝば、おそらく正当な所得税を免れるような利子額は消失するであろう。
更に、源泉において多額の金額を徴収するために、最終的に一定の比例税率で課税することは必要ではない。二十%ないし二十五%の源泉課税が行われれば、大抵の納税者の利子所得に関する責任は果されたことになるであろう。したがって、その利子額が所得税申告書に記載されていなくても、脱税額は比較的少いであろう。しかしながら、かゝる所得に対して、これ以上課税せぬことを法律で定めれば、利子所得はもはや完全に課税当局の力の及ばないところとなり、巨額な利子所得といえども、比較的軽少な税を課されるにすぎぬものとなる。かくて銀行預金は富裕階級のための脱税の避難所と化し、累進所得税の原則は完全にじゅうりんされてしまうであろう。
銀行利子に特権を与えるためにする他の主張は、かゝる特権は、個人所持金の寄託場所として銀行の利用を奨励する目的上必要であるというのである。それは節約を奨励し、したがって、日本の資本の蓄積を助長するものであると主張されている。しかしながら、事実においては、この特権は全然逆効果を生じるだろう。少額貯蓄者に対しては、この比例税率では、源泉徴収の税率と、自己の所得に対して納めねばならない税率とは殆ど同一となるのであるから、実際上この特権はなんらの効果をも有しないであろう。
彼の利子に対する税額は、特権があろうとなかろうと、変りないであろう。この特権の主たる効果は高額所得者にあらわれることになる。しかし、高額所得者は、銀行預金の形によらなくとも、それ以外の方法でかれらの節約を投資できるのであり、事実、他の投資方法の方が、単に銀行に預金する方法よりも、新資本の形成を促進することがはるかに大きいであろう。銀行預金は新資本の形成の助長作用をするためには再貸付されなくてはならない。また貸付金がこかつしたような危機に際しては資金は日本銀行の再割引によって供給されるから、富裕な納税者が税のために、銀行預金をやめて、紙幣の形で節約を隠匿したとしても、このこと自体が日本における資本の育成に支障を来すような必然性は毛頭ないのである。否、銀行預金に全額課税を行えば、富裕な投資家に銀行預金を回避させ、その結果銀行などでは引受けられぬ株式その他の有価証券の購入の類に投資させるという好結果が生ずるであろう。これによって、現実に資本の拡張に用いられ得る種類の資金が調達されることとなるのである。
もし銀行が真に、より多くの預金を集めようとするなら、預金利子率を高めればよいと考える。現在の貸付利率十%と預金利率四%前後のひらきは過大であり、それは銀行が過大な利潤を得ているか、もしくは銀行事務の非常な非能率性を示すもののように思われる。銀行事務費に消費される率がこの数字にいくらかでも近寄っているような工業国は他にほとんど存在しない。銀行が経済界におけるその役割を更に大きなものとしようとするなら、その事務費を引下げて、できる限り本来それ相応の額に近づけるべきである。
要するに、いかなる種類の利子も課税の目的のためにすべてその全額を個人の所得に算入すべきであると勧告する。今目論んでいる税率の改正をもってしては、源泉選択の場合の六十%の比例税率は空文となるのであろうか、それは、個人の総合純所得に対する課税を行わないのであるから、いずれにしても廃止されるべきものである。
実施えの措置として、利子支払の際二十%源泉徴収することはそのまゝにしておいて差支ないが、もしそうするならば、源泉徴収された者は、総所得額に対して計算した税額からこの源泉徴収額を控除できることを十分に理解させて行わなくてはならない。
しかし、基礎控除額を超える最初の五万円に対して適用される二十%の税率でしか課税を受けていない者は、その利子所得は既に同率で源泉徴収されているのであるから、その利子所得の申告を免除されても差し支えない。勿論、利子が右の課税所得額に算入されていない場合には、源泉徴収税額の控除は認められないであろう。
E 特別控除 (Special Deductions.)
不具者のための控除
身体のあらゆる機能を発揮し得る者に比べて、あるものは身体の機能障害が甚しいため、かれらの生活費は相当高いものになる。この余分な生活費に対して一つの適度な緩和策として、それが余り行政上の困難を伴わない限り、このような人たちになんらかの控除を認めることは好ましいことである。従って、盲人に対して一万二千円の控除を余分に与えることを勧告する。この控除は、源泉徴収表その他これに類する表のうちで特別の扶養者として取扱われるべきである。
この控除は、その盲人自身またはかれを扶養親族として申請した納税者に対して許容すればよいであろう。
この控除は、明瞭に判別され、しかも同程度の負担を被害者におよぼす同種の身体障害に対しては行政規則によって拡張されるべきである。この特別控除にかような特例を設けるに当って、注意を払うべきことは、まず一時的であるかまたは特別の医療費控除によって大体処理できる多くの限界線にある身体障害の部類を特に避けることである。実際は最初は盲人の場合に止めて置いて、このような規定によってある程度の経験を得た後他のものにおよぼす方がいいのかも知れない。
雑損に対する控除
現行法において税務当局に「災害その他の理由で納税資力を喪失」した個人の所得税を減免する権限を与えている一般的な規定が存する。法律はこのような場合に与えられるべき救済は施行規則によって規定することを指示しているが、施行規則も同様にあいまいである。一般にこのようなあいまいな規定は好ましくない。なぜなら、一方では、差別待遇のおこる余地を与え、他方ではどういう結果になるかについての保証もなく、納税者に申請を行うはっきりした基礎を与えないからである。実際上、納税者は、無視されるのがせきの山だから、このような規定の特別考慮を受けるため申請するのは無意味だと考えるようになるかも知れない。徴収額を増大するため、税務署に直接または間接に重圧が加われば、特にそうである。
合衆国において普通与えられている救済の形式は、火災、盗難のようなものによって蒙ったある種の個人損失の控除を許している。しかし、この結果は、多数の小さな種目の控除が行われて税務行政にはなはだしく手間をかけるが、それに応じて公平が増加するということにはなっていない。したがって、損失を受けた納税者で、かれの純所得(その損失を差し引かないで計算した)の十%を超過する損失を蒙ったものに限り、その限りにおいて損失の控除を許すことを勧告する。こうすれば、納税者は、特別の考慮を税務署から受けるため陳情することをしないでも、かれのはっきりした申請をなして、減免を与えられることになろう。同時に税務行政にあたっている者は、少額の控除申請にわずらわされないであろう。
この損失控除可能性に対する制限は、個人的損失のみに適用される。取引や営業に関連した損失は、やはり全額控除されるであろう。
医療費
費用のかかる疾病は、このような場合の医療費は必ずしも控除を認められるべきものであると考えられていないが、やはり納税者の支払能力に重大な支障をおよぼす場合の一つである。事実時折生ずる医療診察にかかる普通の費用を控除として認めることは、基礎控除で償われていると見るべき生計費の控除を別に設けることになり、これは税務行政に不当の負担を負わせしめることとなる。
しかしこのような費用が甚しく多い場合、例えば大手術だとか、長期の入院とか、または小児麻ひあるいは肺結核のような慢性的疾患の場合、支払能力に相当な支障をきたすわけであって、このような費用には適当な控除が与えられるべきである。損失が所得の十%をこえる限り、その控除を認めるという損失控除の一般的な制限を適用すれば、普通の医療費の控除を締め出す問題は大体解消されるであろう。
他面、医療費の種目のうちでいかなるものが控除されるかについてある制限を設ける必要がある。なぜなら富裕な納税者が温泉、休暇、旅行等の同種の長期滞在の費用を医療に装って控除を試みることによってこの規定を悪用しないとも限らない。したがって、一年に医療費として控除できる最高限度を十万円とする。
[# 第五章おわり]